919.「悼む鎧と毒石」
ベアトリスの放った黒の光線は『虚の母』の下半部に直撃し、それから――黒の閃光でわたしの視界は埋め尽くされた。
空中で体勢を整えて着地する。視界の黒が徐々に薄まっていった。黒の粒子が霧散し、白光と混じり合って灰色の煌めきが至るところで明滅している。塵埃のせいではっきりとは分からないけれど、先ほどまで『虚の母』がいた場所に巨躯の影はない。
わたしが稼いだ三十秒でベアトリスは宣言通り、すべてを終わらせたのだろう。敵の行動を阻害したのはわたしなのだけれど、はたして自分だけで勝利出来たかは怪しい。
地面には真っ黒な焼け跡が一本描かれている。『虚の母』とベアトリスとを結ぶひと筋の痕跡が、消えゆく靄のなかで存在を主張していた。
「よくやった」
焼け跡をなぞるようにベアトリスが歩いてきて、わたしの肩を軽く叩いた。遠慮と高揚の入り混じった強さで。
「わたしは時間稼ぎをしただけよ。あなたがいなきゃ倒せなかった」
「それでもお前がいてくれてよかった」
サーベルを納めようとして、腕が止まった。
『虚の母』が放っていた異様な気配が、薄まってはいるものの完全には消えていないことに気付いたからだ。
黒の粒子はすでに消えていたが、『虚の母』がいたあたりは塵埃が舞っている。目を凝らすと小さな影が見えた。
わたしとベアトリスは一瞬の目配せののち、同時に歩を進めた。どくどくと、心臓が嫌にうるさく鳴っている。ベアトリスが三十秒間の充填ののちに放った攻撃が、どれほど破壊的なものだったかは理解している。黒の光線に凝縮された魔力は、これまでわたしが目にしてきたなかでも指折りの濃度だった。一発の魔術として比較するなら、あの天才魔術師ルイーザをも凌駕しているかもしれない。そんな代物が直撃して無事でいられるはずがないのだ。たとえ相手が異形の魔物だとしても。
薄くなっていく塵のカーテンの向こう――壁にもたれた半身を目にして、息を呑んだ。彼女の臍から下、つまり巨獣と一体化していた部分は見事に消し飛んでいて、けれども息があった。なにせ彼女の瞳は確実にわたしたちを捉えていたから。
不意に、彼女の腕が中空へと伸びた。ベアトリスへと。なにか捧げるような具合に。
わたしもベアトリスも、彼女を見下ろしてなにも口にしなかった。
巨獣と、その背に生えていた女性。両者はまったく別の意志を持った存在だ。戦闘中の彼女の仕草は敵のそれではなかった。彼女は暴れる巨獣を非力な腕で殴り、どうしてか涙を流し、そして撃ち抜かれる瞬間、笑っていたのだ。
「ベアトリス卿」
その名を呼んでも、彼は返事をしなかった。血族の肌をした半身の女性を見つめたまま、身じろぎひとつしない。彼女もまたベアトリスを見つめて、どうしてか眉尻を下げている。そして上顎だけで、決して声にならないなにかを喋っていた。
やがて女性の身体に変化が生じた。臍から下――千切れた患部が、ボコボコと黒く泡立ったのである。濁ったあぶくは弾けることなく、段々と数を増していく。
「クロエよ」
ベアトリスの声を聴きながら、でも視線は彼女の変化に釘付けになっていた。
「まだ終わっていない。トドメを刺してくれ」
彼女の下半身が再生しようとしていることは、わたしももう気付いていた。もとのかたちになるには時間がかかるだろうけど、彼女の下半身に再び巨獣が生まれ出るのだろう。
自分が手にしているサーベルを見下ろす。これをひと振りすれば終わるのだ。きっと。
顔を上げると、彼女と目が合った。わたしの自身の口から漏れる息が、やたら大袈裟に耳の奥で響く。
はっきりと、疑いなんか決して挟むことの出来ないくらいはっきりと、彼女の頷きが見えた。
「クロエよ、それは魔物だ。命もない。躊躇わずに殺せ」
「ベアトリス卿。それ、本心なの?」
返事はなかったし、聞くべきじゃなかったと後悔が滲んだ。
ぐ、っとサーベルが引かれる。彼女が刃を握って、わたしを引き寄せたのだ。
銀の先端が左の乳房に食い込んでいく。わたしは力を入れていない。彼女が自分から切っ先を引き入れているのだ。多分、あと少しで心臓に届くだろう。
あぶくが、ボ、ボ、ボ、と鳴っている。
彼女の瞳を受け止めて頷き返す。するとやっぱり、その目尻に細かい皺が寄った。
力を籠め、ひと息で刃を走らせる。
直後、彼女の下半部で膨張していた泡が急激に萎んでいった。
その顔は笑っていて、最期に、指先が中空を撫でた。頭を撫でるような手つきに見えたのは、きっと錯覚なんかじゃない。
ベアトリスが膝を突くのとほとんど同時に、彼女の身体が百般の魔物の散り際と同様に、蒸散した。消滅の名残に、白光がささやかな輝きを贈って。
何十分経過しただろう。わたしもベアトリスも、まだ集合墓地の広場にいた。膝を突いたままの姿勢で一切動こうとしない彼をそのままにしておこうと思ったから、なにも声をかけずにただただ時間だけが着実な歩みで進んでいたのである。
数体の亡者が広場に現れ、わたしとベアトリスを見て足を止めた。そんな彼ら彼女らを見つめて思う。『虚の母』が消えても存在し続ける亡者は、これからどうなるのだろう。この地を再び居住区として利用するなら、どこかに隔離するか、あるいは――。
いや、考えるのはやめよう。それはわたしが思い悩んでいい問題じゃない。ベアトリスをはじめ、『ヘイズ』に住む血族たちが決める物事だ。決断に伴う痛みを引き受けることの出来ない人間が、外側から口出しをするのはフェアじゃない。
微動だにしないベアトリスを放っておいてるのも同じ理由だ。彼には彼の事情があって、沈黙と静止を続けている。その姿は紛れもなく悼みの体現だった。それも、ごく個人的な。
『虚の母』がベアトリスと具体的にどんな関係だったのかなんて知りようがない。けど、きっと大事な存在だったのだろう。お互いに。
不意に、黒の鎧が立ち上がった。やけに大きい深呼吸の往復が、わたしの耳に届いた。
「待たせて悪かった」
「いいえ、全然」
「町に戻ろう」
「ええ」
通路へと向かおうとして、ふと気付いた。自然と足が、『虚の母』の消えた場所へと戻る。苔になかば隠れるようにして、ひと塊の物体が落ちていたのだ。
「なにかしら、これ」
手のひらに収まってしまうくらいささやかなサイズの、尖った石。それは『虚の母』の下半部――巨獣の肉体と同じような素材に見えた。ぬらぬらと滑らかに光を反射する物体。
どこかでこれと同じような材質の物を目にしたような気もするけど……。
ぐい、っとわたしの横でベアトリスが石を覗き込んだ。そして嘆息する。「まさか本当に存在したのか」
「なにか知ってるの?」
よく観察しようと石へ手を伸ばした瞬間――。
「触れないほうがいい。それは毒石といって、肉体を蝕むと言い伝えられている」
思わず手を引っ込める。
なにそれ。そんなものがどうして広場に転がってるのよ。
そう思ってから、ハッとして口元を覆った。白光を反射するこの石と、『虚の母』の相似。
もしかしてこれ、『虚の母』の体内にあったんじゃないの……?
『お嬢さん』
「んえ!?」
耳の奥で変な声がして、思わず声を上げてしまった。ベアトリスが不審そうにこっちを見ているのが分かる。
ヨハンめ……急に話しかけないでよ。というか、声を届けられるならもっともっともっと早くなにか言うべきだったんじゃないの!? というか、こっちの映像も全部見えてるならなおさら言うべきことは山ほどあったんじゃないのかしら!?
不満と怒りと恥ずかしさでいっぱいになっていると、ヨハンの声が耳に染み込んでくる。
『その石、必ず回収してください』
なんでよ、と思ったけど、こちらの意思を届けるすべはない。いつも思うけど、彼の交信魔術はアンフェアだ。
露骨に首を傾げてみる。きっとヨハンが共有しているわたしの左目にも、ちょっとした角度の違いが生じているだろう。この微妙な差異からわたしの仕草を読み取ってくれるように願う――というか要求するのは正当だと思う。
『分からないんですか?』
ええ、ちっとも分からない。なんで毒物を回収する必要があるのよ。
若干の苛々を覚えるわたしだったが、すぐさま頭が真っ白になった。ヨハンの台詞に意識のすべてが攫われてしまったのだ。
『それ、固形アルテゴですよ』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。『針姐』の墨の魔術により全身に縮小した魔紋を刻んでいたが、クロエの持ち込んだ『墨虫』により無力化された。現在は記憶と魔力を失い、平凡なひとりの少女としてローレンスの館に住んでいる。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』詳しくは『第二章 第六話「魔女の館」』参照
・『ヨハンの交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『固形アルテゴ』→オブライエンの発明した生物兵器。固形。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




