918.「30秒」
三十秒。その言葉を頭で繰り返した。三十秒、三十秒。
『虚の母』は、調子を確かめるように前脚を地に打ち付けている。あれだけ攻撃したというのに、なんの傷も見えない。相変わらずぬらぬらとした光沢に覆われた漆黒の体躯だ。そして、そう、背中の女性の様子も同じ。なにか訴えかけるように両腕を広げて、流れるままに涙を落としている。
「三十秒だけでいいの?」
「ああ、それだけ時間を稼いでくれれば充填出来る」
「そう」
なにを充填するのかは、あまり気にならなかった。彼が一切を終わらせるつもりだということだけが大事だ。
息を整え、前傾する。余計な力は必要ない。
「風華」
途切れた集中が再び蘇った。『虚の母』の姿が、花弁越しに急接近する。否、わたしが疾駆しているのだ。肉体から隔離された透明な意識で、わたしはわたし自身の行為を客観視している。現実も空想も、両の目の位置は同じなのだけれど、見えるものとそれらの感じ方は雲泥の差だ。
背中の女性を見やる。もう意識は乱されない。ハッとして動きを止めてしまうことは、多分ないだろう。
「いち」
自分自身の呟きさえ、風の音と変わらないくらいに感じた。
わたしがリラックスした気分でいられるのは、数字のおかげだろう。現実的なカウントが、余計な思考や飛躍した感傷から自分を隔てたのだと思う。
「に」
金属音の俄か雨。『虚の母』の身体は、濡れた夜の石畳に似ている。その滑らかさも、ごつごつとした歪さも、夜を固めたような黒も。涙の女性は、そうしたモチーフに溶け込んでいた。
『虚の母』が叫び声を上げ、逃げ場を求めて暴れている。わたしの集中にほんの少しの綻びさえあったなら、黒の巨獣はとっくに刃の雨を抜け出していることだろう。たとえ魔物であっても、身体は肉としての動きに囚われている。跳躍、後退、爪による横薙ぎ、体当たり、あるいは大口を開けての捕食――それら全部に予備動作がある。初動から本格的な行動へと推移するまでの段階も、筋肉の動きとして繋がっている。微動でさえ特定の行為に至るための方向性を充分に伝えていたし、わたしはそれを決して逃さず、次の段階へと移る前に次々と潰していっただけのことだ。たとえ漆黒の肉体に傷をつけることが出来ずとも、衝撃が体躯の内側へと伝播し、ダメージとして蓄積していることを知っている。わたしの身体より何倍も大きな魔物を、まるで磔にしたようにその場に留めることが出来ているのは集中力の賜物だった。
「ろく」
『虚の母』は巨大な歯で何度も空を噛み、叫び、そのたびに唾液が散った。飛沫はわたしの顔にも跳ねたけど、それさえあまり気にならない。
数字。それが現実に存在していて、空想の草原で涼やかな風を浴びる自分自身と確実に結びついている。
「なな」
背中の女性はもう泣いていなかった。ただただ静かに、じっとわたしの動きを目で追っている。巨獣とは大違いの態度。祈るように手を組み合わせている様子がなんとも不思議だった。きっと哀願ではない。表情を見れば分かる。下顎が砕け散っているので常に叫び声を上げているような顔かたちになってしまっているけれど、本当の表情は別にあるのだ。瞳の色。鼻の膨らみ。頬の肉の張り具合。眉の角度。ひとつひとつのパーツが、彼女の感情を伝えているように思う。そしてそれは命乞いではないのだ。言うなれば情熱的な祈りだろうか。たっぷりの期待を隠していない。
「はち」
彼女はなにを求めているんだろう。もし下顎がちゃんとしたかたちで残っていれば、その声を聴けただろうか。
ふと、『虚の母』とはどっちなんだろう、と思った。
四つ脚の獣なのか、それとも背に生えた女性なのか。
「じゅう」
目の前で刃に打たれ続けるこの存在を、『虚の母』と最初に呼んだのはベアトリスなのだろうか。亡者を産み出すことから連想した名前としては、そう不自然ではない。でももし別の経緯があったとしたら、そこには特別な意味と感情があったんじゃないだろうか。そして背中の女性が血族と同じ肌の色を持っていることにも、やっぱり特別な意味があるのかもしれない。
分からないことばかりが積み重なっていくなかで、しかしわたしは冷静だった。相も変わらず初動を見極め、次の行動へと移ろいゆく肉の動きを阻害している。決死の覚悟で振われた爪を回避し、お返しとばかりに速度を上げて斬りつける。空想の草原は今や真っ白な花弁が絶えず舞い踊り、賑やかに――でもどこか寂しく――視界を満たしている。
「じゅうご」
斬撃の流れのなかで身体の向きを反転させると、ほんの一瞬ベアトリスの姿が見えた。片膝を突き、両手で握った柄をこっちの方向へと突き出して、微動だにしない。黒い靄は見えないけれど、彼の身体に異常なまでに密度の高い魔力が鼓動していることに気が付いた。終わらせると言ったのは、相応の自信と覚悟があったからだろう。そして三十秒の時間稼ぎを頼んだ理由も頷けた。わずかな時間だったけれど、ちらと見えた彼の姿は、あまりに繊細な集中によって保たれていたから。
これまで彼はひとりきりで『虚の母』と対面してきたからこそ、今の集中状態に入ることは出来なかったのだろう。一対一であんなふうに硬直していたら、あっという間に食われて終わりだ。
「にじゅう」
自分の呟きで、三分の二の時間を稼いだことを知った。もうそんなに経ったんだ、とさえ思ってしまう。
わたし自身の集中力に乱れはない。このまま一時間でも二時間でもサーベルを振るい続けることだって出来る。誇張ではなく、あるがままの事実としてそう思えた。己惚れているという意識さえない。ナチュラルに、わたしはわたしに可能なことを認識しているだけのことなのだ。
時間がどんどん経過していく。わたしの口からこぼれるカウントも残り少ない。
敵の攻撃を回避する流れのなかで、再びベアトリスが見えた。今度は先ほどと様子が違っている。いや、体勢はまったく変わらないのだけれど、柄の先に変化が生じていたのだ。粒の細かな靄が、徐々に徐々に溢れ出している。そしてベアトリスの体内に宿る魔力は、彼の腕へとアンバランスなまでに寄り集まっていた。
「にじゅうはち」
背中の女性と目が合った。彼女はいつの間にやら祈りのポーズをやめて、両手を臍のあたりで組み合わせている。
不意に彼女の目が、ゆるい半月を描いた。それにつられて眉尻も下がる。
「にじゅうきゅう」
どうして笑顔なんだろう。やっぱり、背中の女性と黒の獣とは別の存在なのかもしれない。それでも笑う理由はどこにも見当たらないのだけれど。
さあ、時間だ。
「さんじゅう」
カウントアップと同時に、『虚の母』の前脚を駆け上り、そして頂点で一気に後方へと、宙返りの要領で跳び上がった。それから少しの間も置かず、天地が反転したわたしの視界に、照り輝く黒の光線が映えた。一直線に進み、『虚の母』の半身――獣の身体を呑み込む光線が。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『風華』→花弁の舞う脳内世界。集中力が一定以上に達するとクロエの眼前に展開される。この状態になれば、普段以上の速度と的確さで斬撃を繰り出せる。詳しくは『53.「せめて後悔しないように」』『92.「水中の風花」』『172.「風華」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




