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917.「金属の雨と不定形の黒」

 広場の一角に砂埃が濛々(もうもう)と上がっている。今しも吹き飛ばしたばかりの魔物――『(うつろ)の母』の姿は、塵埃(じんあい)のカーテンに隠れて見えない。


 これでダウンするような相手じゃないことは、一度の刺突で充分理解出来た。刃を突き立てた瞬間の衝撃は、腕の痺れが誠実に物語っている。『虚の母』を弾き飛ばすことが出来たのは(さいわ)いだけど、サーベルに纏わせた氷は木端微塵(こっぱみじん)に砕けてしまった。魔術製の氷だってそれなりの硬さなのに。


 逃げるなら今しかない。それは分かってる。


 隣に立つ鎧の男に視線を送った。


「二人で戦って、倒しましょう」


 もう一度同じ台詞を繰り返す。分かり切ったことでも口にするだけで違ってくるのだ。決意の外縁が整っていくから。


「勝てると思っているのか?」


 ベアトリスの声は低く、冷えていた。ともすれば(あざけ)りにも聞こえる。でもそれは――期待の裏返しじゃないだろうか。これまで何度も打ちのめされてきたからこそ、そう簡単に希望を抱きたくないのだと。


「勝つのよ。なにがなんでも」


 今わたしが見つめているのは塵埃の先だけど、『虚の母』だけを()して言ったわけではない。近い将来、王都を襲撃する大群。脳裏(のうり)に映るのは平原を埋め尽くす魔物たちと、それらを指揮する血族の姿だった。膝を折り、泣きわめき、あるいは四つん這いで逃げ出したとしても誰も非難しないほどに絶望的な敵。


 被害はとんでもなく大きくなるだろう。何人もの血が大地を染めることになる。明日を迎えられる者のほうが少数かもしれない。


 それでも、わたしが背を向ける理由にはならない。散々煮え湯を飲まされてきた自分の無謀さが、絶望的な状況ではなによりも大事な武器になってくれる。そして同じだけの覚悟を持って無謀な道を歩んでくれる者が、ありがたいことに少なくないのだ。


 ベアトリスはそれ以上なにも言わなかった。雄叫(おたけ)びが(とどろ)き、砂埃(すなぼこり)の先で巨大な影が揺らめいたからだろう。わたしの意識も瞬時に巨影へと向いていた。


 四つ足のシルエットがわずかに沈み込む。


 わたしが「避けて!」と叫んだのは、『虚の母』が跳び上がるのとほぼ同時だった。


 ベアトリスが横っ飛びに距離を取るのが見える。わたしもまた、柔らかな苔の地面を蹴り、彼と反対側に跳んだ。


 宙に(おど)り出た漆黒の巨獣。その前脚が、先ほどまでわたしとベアトリスの立っていた位置に突き刺さる。苔のクッションが潰れ、地面が痙攣(けいれん)的な震動を起こした。


 耳鳴りがひどい。異質な気配に肌が粟立ちっぱなしだ。岩石を研いだような(いびつ)な爪に、捕食に特化した、歯茎(はぐき)剥き出しの口。背中に生えた紫の肌の裸身。(おび)えるだけの要素はいくら挙げてもきりがないけれど、それら全部、わたしの行動を妨げるだけの力は持っていない。


 短く息を吐き出す。


 今度は、氷の刃は必要ない。集中力の賜物(たまもの)である空想の草原――風華――は、まだ視界に展開されている。


 サーベルを持つ腕は軽い。先ほどの突きによる痺れだって消えている。


 初撃が、敵の左前脚に到達するのが見えた。続けて、二撃、三撃と呼吸を止めて連続で斬り込む。そのたびに硬質な金属音が響き渡り、豪雨のように激しい音の雨が降り(そそ)いだ。


 硬い。どうにも刃が通りそうにないけれど、打撃としてのダメージはあるはず。なにしろ金属音の嵐に、きっちり魔物の叫び声が混じっているのだから。


 現実としての刃の嵐は、空想のなかでは舞い踊る花弁として顕現(けんげん)していた。鮮やかな白の月光に照らされて、銀色の花弁が魔物を取り巻く。


 やがて空想の草原に変化が訪れた。華の嵐を受け続ける『虚の母』越しに、(なめ)らかに動く黒い(もや)が見えたのだ。


 空想と現実の二重映しのなかで、少しずつ理解する。挟み撃ちをするように、魔物の右前脚のあたりで暴れている黒の靄はベアトリスの攻撃だ。先ほどルチルを救出したときにも見た靄。ベアトリスの持つ柄だけの剣から溢れ出し、自由にかたちを変える武器として、柄の動きに随伴(ずいはん)するのだろう。一度わたしが目にしたそれは大剣を形容していたけれど、今は違う。巨大な三本の爪だ。『虚の母』と同じかそれ以上の体躯を備えた獣の爪。


 血族の持つ特別な武器。人間世界で魔具と呼ばれるそれは、彼らにとって別の名前で扱われている。


 貴品(ギフト)。ベアトリスはそう言ったっけ。彼が今まさに振るっている柄だけの武器は、おそらく貴品(ギフト)なのだろう。靄のかたちに濃縮された魔力が、わたしの推測を裏付けていた。


 片や巨大な爪。片や高速の刃。表皮にこそ傷ひとつないが、前脚に力が入らないのだろう、『虚の母』は後ろ脚だけで不器用に後退している。だから後退の速度にあわせて、こちらも絶えず移動し続けた。前脚だけを重点的に斬りつけるように。


 視界にあるのはほとんど敵の前脚と、もがく頭部、ベアトリスの操る靄くらいだった。ときどき後ろ脚を一瞥(いちべつ)するだけで、ゆえに、これまで気付けなかったのだ。『虚の母』の背中に生えた人型の様子に。


 ほんの一瞬だけ視界に入ったそれは、わたしの意識に不思議と食い込んだ。


 裸身の人型は前かがみになり、自分の(へそ)から下と一体化した漆黒の巨獣をぽこぽこと弱々しく殴っていたのである。


 見間違えかもしれない。そう思ってもう一度視線を送ると、やっぱりどう見ても、手の届く限り獣の背を殴っているとしか見えなかった。そのほかにも、気付いてしまった点がある。


 女性の下顎(したあご)がグロテスクに砕けていること。目を大きく()いて、ずいぶん必死な形相であること。そして両目からだぶだぶと、涙のような液体が流れていること。


 集中が途切れるのが自分でも分かった。空想の世界が瓦解(がかい)し、刃の雨が小降りになる。その隙を(とら)えた『虚の母』が、おそらくは前脚に残った力を振り絞ったのだろう、前のめりに体勢を崩しながら前方に跳躍し、わたしとベアトリスの両方から大きく距離を取った。


 追撃を――と踏み出しかけた足が止まってしまった。四つ足の獣の背で、紫の肌をした女性が両腕をいっぱいに開いていたからかもしれない。上顎をしきりに動かして、声なき声で何事かを叫んでいたからかもしれない。滂沱(ぼうだ)の涙を流すその顔を見て、なんとなく、綺麗だなんて思ってしまったからかもしれない。


「クロエよ」


 いつの()にかベアトリスが、わたしの真横まで近寄っていたことにさえ気付かなかった。


 彼の声は、意識を()ます冷たい響きだった。


「三十秒でいい。『虚の母』の相手をしてもらえないか。……全部終わらせる」

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『風華(かざはな)』→花弁の舞う脳内世界。集中力が一定以上に達するとクロエの眼前に展開される。この状態になれば、普段以上の速度と的確さで斬撃を繰り出せる。詳しくは『53.「せめて後悔しないように」』『92.「水中の風花」』『172.「風華」』にて


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて

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