916.「生命の音色」
亀裂の先の暗闇からせり出したのは、口ばかりが巨大な顔だった。露出した歯茎。ずらりと並ぶ黄ばんだ歯列。口内でのたうつ軟体動物じみた舌。本来あるべき目や鼻は、見る限り存在しない。ほかに確認出来るものといえば、岩石を切り出したような歪な爪を備えた前脚くらいだった。闇に呑まれ、全貌は窺い知れない。しかしそれが『虚の母』であり、わたしが見たことも聞いたこともない魔物であることは瞬時に理解出来た。前脚も顔も、滴るような光沢のある黒に染まっている。まるで暗闇が具体的なかたちを得たような、そんな怪物だった。
わたしが硬直していたのは、たぶん一秒にも満たない時間だったろう。心臓が警鐘を鳴らし、思考が吹き飛んでいた。危機感が体内で叫びを上げている。
「クロエ!」
ベアトリスの声とほとんど同時に、わたしは跳躍していた。ルチルを包んでいる根を片手でキャッチし、もう片方の腕――サーベルを握っている手に力を籠める。
ベアトリスの指示が妥当かどうかなんて、今のわたしに精査する余裕はない。なんであろうと速やかに行動することだけが、今出来るすべてだった。思考さえ、随分と遅れてついてくるような状況である。ベアトリスの命じた通りにルチルを救出することしか頭になかった。
赤黒い根に刃を走らせる。根はその太さの割に、すんなりと両断されてくれた。
一瞬の浮遊感ののち、落下の衝撃が足裏に広がる。
その直後――。
「――!!!」
耳がおかしくなったかと思った。叩きつけるような、ひび割れた轟きが、広場全体を震わしたのである。それが『虚の母』の雄叫びであることは考えるまでもなく、身体で理解していた。
「三十秒だ。分かったな」
言葉に続いて、地を蹴る音がした。先ほどの化け物じみた叫びに比べれば微々たる音なのに、耳の奥――緩慢にしか動いてくれない脳にまで、不思議としっかり届いてくれた。
きっと普段のわたしなら、『虚の母』へと向かうベアトリスを目で追ったことだろう。助力すべきかどうか迷いながら。でもこのときばかりは、全神経を『自分のすべき仕事』に傾けていた。ルチルを通路に運ぶという、たったひとつの目的にだけ意識が向かっていた。
根に絡まったままではルチルを運べない。なにしろ、ほとんど根っこに呑まれているような具合で、しかも背負える体積ではなかった。
切っ先を根の隙間に差し込んで、こじ開けるように解いていく。その間に、何度か空間が震えた。耳に轟きが届き、肌がびりびりと痺れる。『虚の母』の雄叫びに混じって、風を切る音と鈍い衝撃音もしていた。
音の正体に意識を向けている余裕なんてない。わたしがすべきことは今のところたったひとつで、迷うという選択肢さえないのだ。
根を掻き分けていくと、ほどなくして紫色の顔が見えた。
ルチルの瞼は降りていて、口は半開きになっている。乾いた血が口元から喉のあたりにかけてこびりついていた。
絡みあった根から彼の身体を引き抜く。一旦サーベルを納め、脱力した両腕を掴んでその身を背負った。
なぜだか視界が不確かにぼやけている。
なに泣いてるのよ、わたし。意味分かんない。
漏れそうになる嗚咽を噛み堪え、通路へ疾駆した。そうしている間にも、魔物の叫びと風の音が絶えず鳴っている。でも、本当は別の音だってちゃんと捉えていたはずなのだ。それに気付いたのは、ほとんど滑り込むようにして通路に足を踏み入れてからだった。
ゆっくりと、慎重にルチルを横たえる。そうして、走っている最中に感じた音が間違いではないかを確かめた。
とく。
とくん。
ルチルの胸に当てた耳に、弱々しくも、一定のリズムで鳴る音。生命の音だ。
良かった。生きててくれて、本当に良かった。
頬を熱い液体が伝う。さっきは涙の理由が分からなかったけど、今ならちゃんと分かる。ルチルが生きていると感じて、それで身体が先に反応したんだ。
でも、いつまでも喜んでいられない。
ルチルを運ぶのに三十秒以上かかったろうか。なんとも言えないけど、一分以上は経過してないように思える。
ルチルの口元に手をかざし、息を確かめる。……うん、呼吸もある。油断出来ないくらいか弱いけど、ちゃんと生きてる。
涙を素早く拭って広場を振り返ると、ぎょっとしてしまった。
ドームの中央にベアトリスがいて、全長十メートルもの黒々とした獣――『虚の母』と相対していた。事前に彼が説明していたように、確かに四つ脚の魔物だけど……そう単純な様相ではない。『虚の母』の背中はぼこぼこと歪に盛り上がっていて、ちょっとした小山を形成している。その頂点に紫の人型が見えた。
「血族の……女の人?」
『虚の母』の背から、にょきりと生えたように女性の上半身がある。それがベアトリスへと、もがくように手を伸ばしているのだけれど、当然届くはずもなかった。
ベアトリスは両手で柄を握っている。おそらくは、腰に差していた短剣の柄だろう。しかし刀身はない。刃の代わりに、柄から黒々とした靄が立ち込めていた。
こちらが硬直しているうちに、状況に変化が生じた。『虚の母』が大口を開け、ベアトリスに飛びかかったのだ。あっ、と思った瞬間、彼はまるで大剣でも振るうかのように柄を振り、その動きと連動して靄が敵へと迫り、その巨体を弾くように後退させたのである。鈍い衝撃音と風音の正体を知り、息を呑んだ。
見てる場合じゃない。なんとかしないと。
ベアトリスは上手く対処しているように見えるけど、一瞬でも気を抜けば丸呑みにされるような難敵だというのは明らかだ。ルチルを助けるのに成功したんだから、今度はわたしたちが生きて帰らなきゃならない。
そこまで考えて、首を横に振る。そうじゃない。生きて帰るだけじゃ不完全だ。
サーベルを抜き放つ。鬱屈した空気を裂くように、涼しげな金属音が耳を潤した。
ここで『虚の母』を討つべきだ。あれは野放しにしていい魔物じゃない。ベアトリスは『倒そうと思うな』と言ったけど、それはすなわち、これからも空隙に落ちた不運な兵士を諦め続けることを意味しているように思えてならない。
深呼吸ひとつ。それで、怖気のほとんどは消えていった。
未知の存在と戦うのははじめてじゃない。これまでだって見たこともない異様な魔物や、とんでもなく厄介な魔術師を相手にしてきた。覚悟は常に出来ている。
「風華」
広場へと、疾駆の最初の一歩目を踏み出す。すると白光に包まれた苔ばかりの空間に、空想の花びらが舞った。
現実にはない涼風を肌が捉える。
集中力は申し分ない。『虚の母』へと駆けていても、これまで通り、過集中の果ての世界――風華――は馴染み深く意識を迎え入れてくれている。
雄叫びと同時に、ぱっくりと敵の口が開いた。ベアトリスをひと呑みにすべく迫る様子が見える。
ベアトリス、疲れてるんだな。肩で息してる。それに、少し対応が遅れたみたい。ほら、靄の剣で敵の口と鍔迫り合いになって――押されてる。
「ぐっ……」
ベアトリスの口から漏れた呻きを、両の耳が捉えた。
大丈夫。わたしがなんとかする。まだ刃の届く距離じゃないけど、問題ない。
空想の草原に氷の息吹が舞う。想像するのは、凍てついた細く長い刃だ。
がっしりと柄を握った指先に冷気が広がる。サーベルが氷に覆われ、本来以上のリーチを備えたことを、見るまでもなく知っている。
「氷牙一穿!!」
涼しげな破砕音とともに、『虚の母』の身体が吹き飛んだ。相応の衝撃が自分の腕にも伝わったし、氷の刃も弾け飛んだけど、問題ない。ベアトリスは無事だ。
「クロエ……お前」
剣から漂う黒い靄の先。兜の奥のベアトリスの目が、丸く見開かれていた。
「倒しましょう。一緒に」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『風華』→花弁の舞う脳内世界。集中力が一定以上に達するとクロエの眼前に展開される。この状態になれば、普段以上の速度と的確さで斬撃を繰り出せる。詳しくは『53.「せめて後悔しないように」』『92.「水中の風花」』『172.「風華」』にて
・『氷牙一穿』→サーベルに鋭利な氷を纏わせて放つ突き
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
 




