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915.「虚の母」

 いくつもの根に絡みつかれたルチルは、まるで樹木の養分とされているように見えた。生白い光に照らされた紫の腕が、根の隙間からだらりと垂れている。力なく、なんの意識も感じさせない腕だった。


 今すぐ広場へと飛び出して一気呵成(いっきかせい)にドームを登り、彼の生死を確かめたい衝動を(おさ)えるのは大変な努力が必要だった。気を抜くと、いつの間にか前のめりになっていたり、腰を浮かせている自分がいる。それに気が付くたびに自分自身を(いさ)めて、なんとか姿勢を低く落ち着かせるのを繰り返していた。隣のベアトリスとは大違いだ。彼はいかにも冷静沈着で、かれこれ十分以上も経過しているのに身じろぎせず、片膝を立てて広場を見守っている。


 ベアトリスが言ったように、ルチルを掴んだ根は徐々に降下していた。じわりじわりと、狂おしい遅さで地面を目指している。今ではようやくドームの頂上と地面との中間まで降りてきているものの、手が届く高さではない。思いきり跳び上がったところでかすりもしないだろう。まだしばらくは待機しなければいけないわけで、当然、やきもきしてしまう。


 (さいわ)いなのは、まだ『(うつろ)の母』が姿を見せていないことだ。地底湖へと続いているであろう巨大な亀裂はドロリとした闇に染まっていて、先を見通すことは出来ない。まだ見ぬ敵が暗闇に潜んでいるかと思うと、たとえどんなに自分の腕に自信があったとしても落ち着かないものである。(かえ)って早々と対面したほうが気持ちの上では楽かもしれない。


 だからつい、こんなことを言ってしまった。


「ねえ、ベアトリス。先に『虚の母』を倒したほうが安全じゃないの?」


 我ながら悪くない提案のはずだった。危険を排除してからルチルを救うのが最善ではなかろうか。もちろん、生きていればだけど。


 ベアトリスはわたしを一瞥(いちべつ)すらせずに言い放つ。


「対面せずに済ますほうがいい。倒そうとは思うな。お前を連れてきたのは実力を買ってのことだが、討伐を期待したわけではない」


「なら、どうして同行を認めてくれたのよ」


 てっきり協力して倒す手はずなんだと思っていたけれど、違ったらしい。


「万が一対面しても、逃げおおせるだけの力があると判断したまでだ。お前は素早い。危なくなったら通路に逃げ込むだけの足を持っている」


 本当にそんな理由なんだろうか。疑ったところで真実が見えてくるわけじゃないけれど、そう思わずにいられない。


「逃げ足は速いかもしれないけど、ちゃんとルチルを助けるつもりで来てるのよ。それに――」言いかけて、自制した。「なんでもない」


 これまで何度も強力な魔物と戦ってきたし、厄介な魔術師や血族とも刃を(まじ)えてきた。たとえどんな敵であろうともあっさり負けるなんてことはないと、そう説明しようと勢い込んだのだけれど、たぶん分かってもらえないと(さと)ったのだ。さらに言えば、ベアトリスがわたしの実力を正確に理解してくれたとしても、先に『虚の母』を討つと決断してくれるようには思えなかった。(がん)として譲らない雰囲気が漂っているから。


 わたしも頑固だけど、彼も大概だ。誠実そうな性格は好ましいけど。


 それにしても空気が(よど)んでいる。いや、そう感じるだけで実際は大気に濁りなどないのだろう。すべては亀裂の先から伝わってくる濃密な気配が、そんな錯覚を()き起こしているに違いない。後頭部を鷲掴(わしづか)みにされ、背中の骨という骨に鋭い切っ先を当てられているような怖気(おぞけ)がある。


 ふと視線を感じて背後を見ると、広場の光が届くか届かないかといった距離に人影があった。背の高い痩せた男。顔は下半分がようやく見える程度にぼんやりしている。


「亡者って、みんな傷ひとつないわよね」


 通路の先に(たたず)む男を見ながら、ふと口にしていた。ここまでの道中で目にした亡者は、誰もが完全な姿かたちを保っていたのである。肌も髪も目も爪も、唇さえ、亡者の当初の年齢相応のものでしかなかった。


「劣化すれば産みなおすだけだ」


 引っかかりしか感じない言葉だったけど、あえて追及は避けた。あんまり想像したくない。ただでさえ、人を亡者に変える際に『食う』と聞いているのだ。傷付いた亡者をもう一度胃に収めて――うぅ、考えるのはやめよう……。


「クロエ」


 ピンと張った声が響き、慌てて顔を広場に戻す。根が速度を上げて地上へ迫っているのが見えた。どうやら、一定以上降りると急激に速度が上がるらしい。ルチルを掴んだ根はもう、地上まで三メートル程度のところまで降下していた。


「行きましょう」


「ああ。ただし、走るな。亡者と同じ速度を意識して歩け」


 分かってる。『虚の母』に気付かれないように、ということだろう。敵に遭遇せずに済むのならそれに越したことはない。『虚の母』を討伐すれば、今後安心して空隙(くうげき)に落ちた生存者を救いに来れるのではないかとも思うけど、それはルチルを通路まで――つまり安全圏まで――運んでから考えればいい。


 ベアトリスと並んで広場に踏み出すと、地面がやんわりと沈んだ。まるで苔の海だ。通路は硬い岩肌だというのに、広場は全体がクッションじみた苔に(おお)われている。くっきりと環境が違ってしまうのは、頂点の半球が投げかける光の影響なのかも。植物の動きを活発化させるとか、そういうなにかかしら……。


 そんな、なんでもない疑問を頭の片隅の浮かべつつ、一歩ずつ確実にルチルの降下地点――すなわち広場の中心へと歩いていく。苔からはところどころ長い触手のようなものが真っ直ぐ垂直に伸びていて、先端が渦巻きを形成している。進むごとに、生命感のない白光の下で塵が舞った。


 一歩一歩がもどかしい。助けるべき相手がすぐそこにいて、一刻も早く駆けつけてあげたいのに、ゆっくりゆっくり歩くことしか出来ない。今夜ルチルに出会ったばかりで、ほとんど他人みたいな関係性のわたしでさえそうなのだから、ベアトリスは尚更だろう。それなのに彼の歩みはどこまでも落ち着いていた。測ったように規則的な歩調で進んでいる。


『虚の母』が聴覚による認知は出来ないと分かっていても、呼吸さえ(おさ)えがちになっている自分がいた。漂う塵を吸い込んで()せないように、片手で口元を覆ってさえいる。こんなにも警戒してしまうのは、やっぱり敵の姿が見えないからなのだろう。慎重に動かなければならない状況もまた、こうした嫌な緊張感を()いている一因にほかならない。


 あまりにも長く感じた歩みは、ようやく広場の中央で止まった。見上げると、二メートル上空にルチルの腕がある。微動だにしていない。顔を見たいのだけど、あいにく根が絡まっていて(ろく)に見えなかった。


 根は地上が近くなって速度を抑えたのか、もどかしい降下スピードに変わっていた。背伸びして手を伸ばしたけれど、まだルチルの片手に届かない。


 ふと隣を見ると、ベアトリスはルチルを一切見上げてはいなかった。視線の先は巨大な亀裂に向いていて――。


「クロエよ」静かな声だった。それでいて胃の底に響く、朗々(ろうろう)とした低さを備えている。「すぐにルチルを助け出して、通路まで走れ。一分……いや、三十秒で完遂してくれ」


 異論を挟む余裕はなかった。亀裂の先――べっとりした漆黒の闇から、異様に巨大な口が見えたから。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて

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