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912.「空隙に呑まれて」

 兵士の落ちた穴に駆け寄って、思わず息を呑んでしまった。底の見えない漆黒の闇が広がっていて、根っこの発する赤黒い微光さえ見出(みいだ)せない。覗き込んでみて分かったが、わたしたちのいる通路は岩盤さえなく、重なり合った根で形成されていた。


「おおい! おおーい! 生きてたら返事してくれぇ!」


 残った兵士が穴に向かって叫んでいる。音は奈落に吸い込まれるばかりで、ほとんど反響しなかった。


「ねえ、返事して!」


 一緒になって叫ぶ自分の声も、やっぱり反響しない。それだけ足元の空洞は広く、底知れない深さなのだ。頭のどこかでじわじわと嫌な思いが膨らんでくる。助かるわけがない、という諦めからなんとか目を()らしたかった。


「立て。すぐに離れるぞ」


 背後でベアトリスの声がしたかと思うと、すぐに腕を引かれた。立ち上がり、ほとんど引きずられるようにして穴から離れる。動揺する兵士もまた、同じようにベアトリスに手を引かれていた。


 振り返ると、遠ざかっていく穴の(ふち)(にわ)かに(うごめ)いた。それからすぐに穴が根で(おお)われてしまい、まるでなにもなかったかのように、びっしりと赤黒い植物で覆われた通路が続くばかりだった。




 見覚えのある三叉路(さんさろ)まで引き返すと、ようやくベアトリスの歩みが止まり、がっしりと掴まれていたわたしの腕も解放された。兵士がその場にへなへなと座り込むのが見えて、どうにも胸が痛い。


「くそう、あんなに侵食されてるなんてよぉ」


 兵士は今にも泣きそうな調子で言う。


「浸食?」


 顔を覆って嘆く兵士の代わりに、ベアトリスが答える。「根が岩を食うのだ」


 ベアトリス(いわ)く、地下を貫く巨樹を中心におおむね半径一キロ圏内(けんない)は別段問題ないが、中心から離れるほど根の動きが活発になり、地下空間を掘削(くっさく)する現象が起きるのだそうだ。居住区の暮らしが(おびや)かされることはないものの、警備の者が帰還しない事件もときどきは発生するのだと、彼は淡々と説明してくれた。


 足元を見ると、折り重なった根っこの隙間に岩肌が見える。どうやらここは空洞になっていないらしい。


「浸食跡は根で満たされていることが多いが、あのような空隙(くうげき)が生まれることもある」


 ベアトリスの説明の合間に、兵士のくぐもった泣き声が流れていた。


 これはありふれた悲劇で、いちいち落胆するものではない。ベアトリスの口調は、そう感じてしまうくらいには淡々としていた。これまでの彼の話し方とほとんど違いはない。だが、少しばかり瞳に(うつ)ろな雰囲気があった。そのわずかな違いが、彼の胸中(きょうちゅう)に渦巻く悲哀を証明しているように感じてならない。


「アイツはよぉ、明後日結婚式だったんだよ。準備で忙しいってのに働きやがって……うぅ。今日だって、俺は止めたんだ。明後日に響いちゃいけねえから、ってさぁ。でもアイツは聞いちゃくれなかった。こんなことになるって分かってたら俺だって縛り付けてでも止めたのによぉ……」


 不幸というやつは、こちらの都合なんておかまいなしに訪れる。夜間防衛が命がけの仕事だというのは、騎士だったわたしにとって当たり前の感覚だ。不意の不幸にいちいち感情を表出しない程度には慣れてしまっている。でも、それは悲劇を受け入れているわけではない。


 ベアトリスが兵士を立たせ、低いトーンで命じた。


「彼女を私の邸宅まで送ってやってくれ。なるべく人目につかないように」


「うぅ……分かり、ました。でもベアトリスさんはどこへ……?」


 ベアトリスが三叉路のひとつに顔を向けた。「集合墓地を見てくる」


「え」と思わず声が出てしまった。ここの住民の習慣について無知なのは重々承知(しょうち)だけれど、もう墓地のことを気にするのはいくらなんでも気が早いような……。


 が、事実はわたしの想定とまったく違った。


「空隙に落ちた生物は、根によって墓地に運ばれるのだ。もしかするとルチルも生きているかもしれん」


 落下した兵士――ルチルがもし生きて墓地に運ばれているなら。そう考えると、急に心臓が強く鼓動するのを感じた。どの程度の希望を持っていいのか分からないが、もし落下の途中で根っこがルチルを捕まえていたら生存しているはず。一見おとなしく見える足元の根が機敏に動くさまを、つい先ほど目にしたばかりだ。


 でも、ベアトリスはどうしてひとりで行こうとしているのだろう。まだ魔物の出没時間帯でもあるのに。


 口を開きかけたところで、兵士が抗議の声を上げた。


「駄目ですよ! あの場所がどれだけ危険かはベアトリスさんも分かってるじゃないですか! 立ち入りを禁じたのはベアトリスさん自身じゃないですか!」


「危険だから、私以外の立ち入りを認めていないのだ」


 なるほど。客人を危ない目に()わせまいとしているのか。だとしたら心配いらないし、そもそも夜間防衛に出た段階で危険は百も承知だ。


「わたしも行くわ」


「駄目ですよ!」と案の(じょう)、兵士が仰天した。「ベアトリスさんでも倒せない魔物がいるんですから!」


 ベアトリスは黙してこちらを見つめるばかりで、その思惑(おもわく)は読み取れない。兜の奥の瞳は、先ほどよりも少し生命力が感じられる程度の違いしかなかった。


「生きている可能性が少しでもあるのなら行くべきだし、わたしも力になるわ」


 強力な魔物がいるから諦める。それは当然の考え方だ。わたしの心情に馴染(なじ)まないというだけで。それに、ここまで来て部外者でいる気はない。


 わたしの強情さは――そしておそらくは実力も――道中で証明済みだ。それを理解しているからか、兵士はわたしとベアトリスの(あいだ)で視線を往復させ、困り()てている様子である。


 やがてベアトリスは、ほんの小さく首肯(しゅこう)した。「分かった。同行を認める。ただし、自分の身の安全を最優先しろ」


「ええ、もちろん」


 もちろん、最優先事項はルチルの救出だ。身の安全のことなんて、これまであまり考えた覚えがない。あらゆる物事が命あってのものだとしても、無謀なほど自分を度外視して突き進んできたから今も生きている自覚がある。


 ベアトリスが兵士に向き直った。「お前は町に戻って、『守護隊』の副隊長にこう伝えるのだ。ベアトリスは墓地に向かった、応援は出すな、と。これで一切を承知してくれる。お前も同行したいだろうが、この伝言は重要な役目なのだ。分かってくれ」


「ほ、本当に行くんですか……?」


「そうだ」


「アイツのために……一介の兵士のために命を投げ出すんですか……?」


 一拍(いっぱく)置いて、ベアトリスは兵士に背を向けた。視線は集合墓地へ続いているであろう三叉路のひとつに向けられている。そしてたったひと(こと)の返事を残し、足を踏み出した。


「命は平等だ」

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。

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