907.「男爵の血」
真新しい蝋燭を手にして、召使いのカイルが戻ってきた。蝋燭が取り換えられると、室内の光量が多少回復する。こう言っては失礼だけど、ただでさえ陰気な場所だ。光はあればあるだけ気持ちを楽にしてくれる。
カイルが戻ってからというもの、沈黙が続いていた。張り詰めてはいるものの、一触即発な雰囲気ではない。なによりわたしは、いくらか気分が上向いていた。ベアトリスが積極的に人間の殺戮に加担するわけではないと知ったのが大きい。彼はあくまでも、マグオートを他の血族に支配されないために参戦するだけなのだ。むろん、そうなればわたしとは敵同士なわけだけど、まだ決まったわけではない。
沈黙にいたたまれなくなったのか、カイルは「なにかあればご用命を」と言い残して部屋を去った。壁の一部がじゅわりと溶け、通路の先に召使いの姿が見えなくなるかどうかのタイミングで、壁が再構築されていく。溶けた部分から根がぞわぞわぞわと這い出して、再び壁を為したのだ。変な植物はたくさん知っているけれど、この空間を覆った根はとりわけ特殊なものに思える。
とはいえ、不思議な植物のことをいつまでも考えているほど暇ではない。
ベアトリスの瞳は、最前からほとんど動きがない。けれどもぼうっとしているわけじゃなくて、じっとわたしの様子を観察しているのだ。仔細に。
「どうして夜会卿を倒そうとしているの?」
たずねて、根汁をひと口。ねっとりした甘さが口内に広がって、喉をゆっくりと下りていく。
ベアトリスは、なかなか答えを寄越さなかった。先ほどまでと同様に微動だにせず沈黙しているのだけれど、雰囲気には少しばかりの躊躇が滲んでいる。
簡単に返事が出来るような質問じゃないことは、自分でも分かっていた。シンプルな説明ではどうしたって取りこぼしがあるものだし、かといって詳細を語るような間柄じゃないことも把握してる。それでもたずねたのは、ベアトリスが真摯な返答をしてくれると思ったからだ。
しばしの間を置いて、わたしの想定は的中した。
「先祖代々の恨みだ」
恨みか。
わたしの頭に瞬間的に浮かんだのは、リフのことだった。獣人と、巨人の魔物キュクロプスの交合。出来上がった異形の生物は夜会卿にプレゼントされたのだ。最低なことに、そうした異種交配が流行していたとキージーから聞いている。そんなおぞましいことを良しとするような奴が、誰の恨みも買わないわけがない。現に、リリーの父は革命を仕掛けている。結果は失敗だったけど。
こちらが黙っていると、ベアトリスは重々しく口を開いた。
「ラガニアの悲劇の直後から、ずっと生きている者がいるのは知っているか? 不老者のことだ」
思い浮かぶのは二人だ。どちらもラルフの記憶に登場し、そして今もその姿や名を聞いている。
「魔王と夜会卿ね」
「そう、イブ様とヴラドは不老者だ。ほかにも何名かいるが、例の悲劇を味わった者のうち、代替わりすることなく五体満足で生存しているのはその二人だけと言えよう」
含みのある言い方だけれど、要するにその二人だけ特殊ということだろう。ラルフが見せた過去のうち、両者はラガニア城での食事会の場面で登場している。確か、どっちも幼かったはず。片や王の三女で、片や公爵の息子だったはず。オブライエンによる最低の悪事のあとで血族化し、老いが一定の段階で止まったのだろう。基本的には血族も――人間よりは長命らしいけど――老衰し、死ぬ。二人にはそれがないということか。
「ヴラドの父――ドラクル公爵は、あの悲劇で塵も残さず消えたと聞いている。生き残ったひとり息子のヴラドは、父の領地に血族を結集したのだ。むろん、彼と同じように自分の領地に生き残った人民を集めたり、あるいはそのまま首都に残った諸侯もいたがね。彼の領地はとりわけ人口が多かったからな、その分、悲劇から生き延びた者も相当数にのぼった」
はじめは互助的な、ささやかな自治体だった。ベアトリスは続ける。
わたしたちが『他種族』と呼ぶ存在も、ヴラドは受け入れて自分の街に住まわせたらしい。街はそのまま残っているし、食料だって同じことだが、いかんせん人員は随分と減ってしまった。産業を維持するにも人手が資本なわけで、必死にかき集めるしかない。それから何十年にもわたって、街は衰退から立ち直ったのだという。その間、夜毎迫りくる魔物はヴラドと側近が撃退し続けた。
街が余裕を取り戻したのは、第一世代が老衰してからである。
いつからか彼は自ら『夜会卿』と名乗るようになった。父であるドラクル公爵の蔑称を自ら名乗った理由まではベアトリスも分からないようだったけれど、その名が流布する頃に、ベアトリスの祖先が放逐されたのだという。
「私の先祖もヴラドのもとで暮らしていた。しかし、年老いた頃に突然、奴から流刑を言い渡されたのだ……!」
ベアトリスは憤りを隠さなかった。拳を握り、テーブルを睨みつける。その瞳には憎悪の色が凄まじい。
「どうして流刑なんて」
「ヴラドの言い分によると、私の祖先が悲劇の発端となったからだ。ひどく虐げられ、それでも奴の街で生きることが認められていたのだが、しかし老いてからラガニアの果てに追い立てられたのだ……!」
「復讐されないように、老衰してから追い出したってこと?」
「違う。飽きたのだ」
飽きた。寒気のする言葉だ。
「飽きたって……」
「鞭打ち、罰し、自尊心を引き裂く羞恥を味わわせることに飽きたのだ!」
そういえばラルフの記憶のなかでヴラドは、魔王にダンゴムシをぶつけるとかなんとか言ってたっけ……。それがどんどんエスカレートしていったのかも。子供は残酷な生き物だけど、ヴラドはずっとその残虐さを保ったまま土地を治めてきたのかもしれない。
ベアトリスの祖先は、流刑先の土地――この場所でなんとか仲間を見つけ、寄り添うように暮らし、そうして亡くなったのだという。
「私の先祖は」テーブルに拳を押し付け、ベアトリスは言葉を紡ぐ。「なんと言われようと男爵としての誇りを胸に生きてきたのだ! 足蹴にされ、嘲弄され、爵位などないように扱われてさえ、心には誇りがあった!」
「きっとそうなんでしょうね。……ところで、あなたのご先祖様が悲劇の発端って、どういうこと?」
ラガニア滅亡のきっかけに彼の祖先が関連しているとは、どういうことだろう。
あらためてベアトリスの顔かたちを見つめる。丸い耳。鷲鼻。心持ち割れた顎。やっぱり覚えがある。顔立ちの割に薄い唇が、ぱっくりと開いた。
「私の祖先は、確かに無関係ではない。オブライエンをラガニアに呼び込んでしまったのだからな。しかし、こんな結果になると知っていてやったわけではない。流刑など不当だ!」
「ちょっと待って。あなたのご先祖様の名前は?」
思わず口を挟んでしまった。
脳裏には、小太りの金満家が不敵な笑みを浮かべている。かつてのグレキランスの長の邸で。
すべてのはじまりがそこにあったと言えるのは今だからだけど、オブライエンの父――ウェルチ氏の逝去と、強欲な領主の登場がなければ悲劇は存在しなかった。
やがてベアトリスの口から流れた『バーンズ』の名を耳にして、我知らず苦い表情をしてしまった。
なるほど。目の前の紳士は、かつての強欲なグレキランス領主の子孫なのか。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『キージー』→『骨の揺り籠』の長老。かつて夜会卿のもとで使用人をしていたが、リフとともに追放された。詳しくは『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『リフ』→『骨の揺り籠』の住民。巨人の魔物キュクロプスと、タテガミ族とのハーフ。巨大な身体を持ち、頭には林檎の樹が生えている。夜会卿の統べる街で女性研究者によって生み出された。夜会卿の妾を誤って殺してしまった結果、使用人をしていたキージーとともに街を追放された。臆病な性格。幻覚の魔術を使うことが出来る。詳細は『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『イブ』→魔王の名。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ウェルチ』→オブライエンとスタインの父。グレキランスを治めていた男。温厚な性格。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『バーンズ』→かつてラガニアに属していた町であるグレキランスの領主。金満家。オブライエンによって失脚した。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




