905.「嗚呼、甘味」
鎧の男は、どうやら夜会卿に浅からぬ因縁があるらしい。奴が血族のなかでも一大勢力を誇っていることは、人間であるわたしも知っているくらいだ。そんな相手に喧嘩を売ろうだなんて、半端な思い付きでは口に出来ない。そして鎧の男の言った『夜会卿』の一語には、抑えきれない憎しみのようなものが滲んでいた。血族たちの世界で覇権を握るだとか、そういうことではないのだろう。きっと。
敵の敵は味方、と安易に決めつけるつもりはなかったし、そんな素振りを見せた覚えもないのだけれど、急に鎧の男は目元に喜びの色を浮かべて『長い話になる。場所を変えよう。腹は減っているか?』なんて聞いてきた。話ならここでいいし空腹なんて感じないと言ったのだけれど、結局男に押し切られて場所を移す羽目になった。
赤黒い密室は、男が手をかざすや否や壁の一部がぐずぐずと溶け、廊下が現れた。景色が一変するのならありがたいことだけれども、廊下もそれまでと同じように、ゴム質の赤黒い触手に覆われていて正直げんなりしてしまった。過度な期待はしていなかったけれど、これまでいた部屋だけが異常であって、そこから一歩出ればグレキランスの一般的な屋敷と同じくらい平凡で優しい空間が続いているのかもという期待が多少あったのだ。残念。
鎧の男に続いて真っ暗な廊下を歩いてから上り階段を進んでいく。と、やがて広々とした部屋に行き着いた。といっても、相変わらず植物なのかなんなのか分からないおどろおどろしい触手があちこちに根を伸ばしているのは変わらない。それでも多少なりとも気分が上向いたのは、肉色だけれど家具が備えられていて、しかもバルコニーまであったからだ。どこか遠くから話し声やら足音やら、金属音も聴こえてくる。気分爽快とはいかずとも閉塞感はない。それだけでもマシだ。
広間の中央には長テーブルがしつらえてあり、卓上と壁に設置された燭台が部屋全体にぼんやりと蝋燭の灯りを投げている。バルコニーの先はというと、薄暗い。目を細めて闇の先を見通そうとしていると――。
「興味があるなら、存分に見るといい」と言って、鎧の男がバルコニーへと足を向けた。
柵のそばに立って、驚いた。数メートル下の地面には赤紫の木の根がびっしりと起伏を成しており、その自然の在り様を邪魔しないように背の低い民家が点在している。薄闇の末端には穴ぼこの空いた壁があり、数十メートル頭上には根に覆われた天井がある。巨大な洞窟と言って間違いのない光景なのだけれど、奇妙なのは中心に聳える赤紫の柱――否、大樹だ。一枚の葉もなく、天井にも根を張っているけれど、大樹の趣がある。なんとも毒々しい様相。この空間全体を支えながらも、その根によって同時に蝕んでいる感じ。根のところどころ、幹のところどころに赤い光が明滅していて、それが洞窟を朧に彩っていた。
「ここが我が領地、ヘイズだ。地上から遠く隔たった安息の地である」
わたしが驚いたのは、地下に町があることでも、中央に気味の悪い大樹があるからでも、空間全体の赤黒さでもない。地を歩く人々が一様に紫の肌をしていたことに驚いたのだ。
鎧の男は血族で、彼の治める土地は当然血族のための地だろう。問題はそこじゃない。
「ここって……具体的にどこなの? グレキランス地域の地下……じゃないわよね?」
「そうだ。ここはラガニア国のはずれ……グレキランスとは遠く隔たった地である」
なんだか目眩がする。さっきまでわたしはマグオートにいたというのに、いつの間にか血族の土地に飛ばされたわけだ。
「……ねえ、本当にちゃんと元の場所に帰れるの?」
実は帰れませんでした、なんてことがあったら悲惨どころの話ではない。まず地上に出て、それから血族たちの土地を横断してグレキランス地方に戻る必要があるわけだけど、途中には夜会卿の領地やら毒色原野やら物騒な場所を通過しなければならないし、そもそも何日かかるか分かったものじゃない。
そんなわたしの不安を、鎧の男は首を横に振って否定した。
「安心しろ。私は紳士だ。帰すと言ったら帰す」
今のところは彼の言葉を信じるしかないし、彼のペースに乗っておくしかない。だから、鎧の男が踵を返して長テーブルについたとき、わたしもそれに倣った。
「名はなんという?」
あ、名前確認するんだ。今さらな感じがするけど。「クロエよ。あなたは?」
「ベアトリスだ」
「そう、ベアトリスね」
「『卿』をつけろ。私は領主だ」
冗談かと思ったけど、兜の奥の瞳はちっとも笑ってない。このベアトリスとかいう鎧の男は、自尊心の大きさにかけては一流らしい。というか『卿』をつけるつけないでムッとするのに、わたしの砕けた言葉は気にしないのか。まあ、名前だけは特別とか、そういう考えなのかも。
「失礼しました、ベアトリス卿」
「よろしい。クロエよ、好物はなんだ?」
「好物?」
「好きな食い物だ」
なんだろう。突然聞かれても困る。というか、食事をする気はない。適当にあしらおう――と思った瞬間脳裏に『最果て』で口にした素敵な甘味が浮かんだ。
「パフェ」
口が滑っちゃった。案の定、ベアトリスは怪訝そうな目つきをしている。
「残念ながら、ここには『ぱふぇ』なる珍味はない。蛇か、ネズミか、土ワニ――」
「せっかくの申し出はすごく嬉しいんだけど、ちっともお腹が減ってないの。ご親切どうもありがとう。話を先に進めましょう」
「なら酒を用意しよう」
「下戸なので遠慮しますわ、ベアトリス閣下」
勘弁してくれ。なぜおもてなしムードになっているのか分からない。それとも、ベアトリスははじめから交渉をするだけじゃなくて歓待しようとでも思ってたのかも。ああ、そんな気がする。すごく失礼な感想ばかり出てきてしまうけど、ここは彼の持つ土地なんだもんね。そりゃあ、客人はもてなそうとするだろう。特に、彼のように誇りを重んじる性格だとなおさら。
ベアトリスはしばしじっとわたしの目を覗き込んでいたけれど、やがてほんの少し長いまばたきをした。あまり肉体的な主張の少ない人だけに、なんだかひどい落胆を示しているように思えてならない。
やがて彼は壁に向かって「カイル! カイル!!」と叫んだ。すると壁の一部がどろどろと溶け、眼鏡をかけた、背の高い痩身の男が現れた。ローブ姿といい、自信なさげな表情といい、なんだかシンクレールに似ている。猫背なところは違うけど。
「はいはい、なんでしょう旦那様」
「大樹酒をひと瓶と、根のジュースをひと瓶持ってこい」
そんなおかまいなく、と言う隙も与えず、従者らしき眼鏡男カイルは「承知しました」と言って下がってしまった。しっかりわたしにお辞儀もして。
ありがたくご馳走になるしかないのだけれど、ちょっと気になる点がある。
「根のジュースってなにかしら?」
するとベアトリスは、「ふ」と自慢げに笑った。そういえば、笑い声を聞くのもはじめてだ。それが嘲笑であれなんであれ、こうも堅い相手はなかなか珍しい。
「根のジュースとはな、これを搾ったものだ。大変に甘いぞ」
彼が指さしたのは床で、つまりあちらこちらをびっしりと覆っている赤黒い根っこのことを言っているのだろう。
なんとか顔の引きつりを抑えて、「へ、へえ」とだけ声にする。さっきからわたしが気味悪く思ってるすべての原因は、空間に満ち満ちた不健康な色の根っこにある。まさか、その搾り汁を飲む羽目に……?
なんとか上手いこと言って回避出来ないかと画策しているうちに、従者が「お待たせしました」と戻ってきた。手にした盆には、くすんだ瓶がふたつ。どちらもワインと泥を丁寧に混ぜて発色を良くしたような、およそ飲み物とは思えない色をしている。
「どうぞ、根汁でございます」
「あ、ありがとう」
根汁って言うんだ、これ。もっといい名前が絶対あると思うのだけれど。
同じ樹木で作ったに違いない赤黒い木製コップに、なみなみと注がれた液体。見るからにねっとりだ。喉に貼り付くのが簡単にイメージ出来て、眉間に皺が寄らないよう注意するのにひと苦労。
カイルはじっとこちらを見つめている。わたしが口をつけないと主人に酒を渡せないとでも言うように、盆にはもうひとつの瓶――樹木酒を乗せたまま、心持ち前傾して覗き込んでいる。
救いを求めるようにベアトリスに視線を移したけど、ああ、こっちも腕組みしてわたしを見てるだけ。しかもだいぶ真剣に。まず客人の喉を潤す、というのが彼らの礼儀なのだろう。これじゃ誤魔化せない。
「あ、えーと、それじゃあ、い、いただきます……」
断固として拒否するほど、わたしは善意に強くない。悪意には徹底的に対抗出来ても、善意というやつはなかなかどうして御しがたいのだ。
大丈夫。きっと大丈夫。
コップを口元に近づけると、つん、と甘いような臭いような、独特の匂いが鼻腔を通過して、なんだか噎せそうになってしまった。
やむなしだ。
覚悟を決めてコップを傾ける。どろりとした液体が、奥へと退散した舌に触れ、喉をゆっくり流れていく。
「すごく美味しい、ありがとう」
完全にお世辞というか、飲んですぐにそう言ってやろうと思っていたので、言葉は味を感じるより前に飛び出てくれた。それからようやく、口内にねばねばと貼り付いた液体が味覚に訴えかける。
「え」
思わず、手の中のコップに視線を落とす。
なにこれ。
すんごい美味しい。余韻の強い甘さなんだけど、全然嫌じゃない。というか好き。ちょっとした酸味と苦みもあるけど、それがしつこい甘さを絶妙に緩和してて、なんか至福。
二口三口と飲んで、「ほわ」と変な吐息が漏れてようやく、そばの二人が嬉しそうに顔を見合わせているのに気付いてちょっぴり恥ずかしくなった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




