904.「正史を知る者」
細く、一定の呼吸を意識する。動揺を表に出さない意味もあるが、主に神経を落ち着かせるためだ。刃を抜き、距離を詰め、斬りつける――それらの動きを一瞬で行うには無駄な力を抜く必要がある。
そんなわたしの状態を男はすぐに見破った。
「そう殺意を漲らせるな」
「なんのことかしら?」
笑顔を繕おうとしたのだけど、笑いになってくれたのは口の端だけだった。
男は依然として微動だにしない。じっとわたしに目を合わせている。瞳の微かな収縮がなければオブジェとしか思えないくらい、見事な静止。
彼は今なにを考えているのだろう。相手の殺気を感じ取ってなお態度を変えないとなると、相当の自信家か、あるいはわたしが絶対に手出ししないと思い込んでいるのか。
そう、現にわたしは動けない。動くための準備を整えただけだ。相手が『黒の血族』というだけで問答無用で切りかかるほど盲目的ではないし、情報の不足している状況で相手の息の根を止めようとするほど愚かでもない。
決して集中力を切らさぬようにしながら、思考をめぐらせる。
目の前の男は血族で、しかも戦争での勝利を確信している。終戦ののち、マグオートを占領してそこを人間が生きることの出来る最後の土地にすると宣言した。
彼の言葉は鵜呑みに出来ない。なぜなら――。
「人間を滅ぼすために戦争するんじゃないの?」
人間殲滅。それが血族の――否、ニコルの掲げた旗印のはずだ。
「その通りだ」と男も即座に合意した。
ならどうして、と疑問を重ねる前に、男が言葉を続ける。
「が、例外はある。すべての土地は、その支配者の裁量で運営されるのだ。基本的には他の誰も手出し出来ん」
確か、マグオートの人々は王都の兵士としての戦争参加を拒否している。「マグオートの人たちは戦争になったらどこかに隠れていて、なにもかも終わったら元通りマグオートで暮らすってこと?」
「概ねそうだ」
安全を保障するというだけなら、悪い話ではない。まあ、わたしたち王都側で戦うメンバーにとっては快くない話だけれど。
しかしもちろん、『素敵! 人間を助けてくれるのね?』とはならない。
「なんのために人間の土地を確保するの?」
タダで守ってくれるような奴なんてどこにもいない――とまでは言わないけど、非常に稀だ。基本的にはそんな旨い話どこにもないと思ったほうがいい。
「一方的な安全保障ではない。交換条件だ」
ほらね。どいつもこいつも利害で動いてる。わたしだってほとんどの場合、損得勘定に動かされているのだ。自分ではそれと気付かないときでも。
「交換条件って? 具体的にはなんなの?」
「戦争ののち、私の私兵になってもらう。革命に備えて」
革命ねぇ……。
血族が一枚岩だとは思っていない。彼らにも人間と同じく私利私欲があるし、小競り合いだって何度も起こってきたことだろう。なにせ、もともとはわたしたちとまったく同じ存在なのだし、人が当たり前のように持っている感情だってもちろん持ち合わせているはずなのだ。
「ニコルや魔王を潰すってことかしら」
「魔王?」
あ、そっか。魔王のことを魔王と呼んでいるのは人間だけよね。オブライエンの過去――血族の由来――を知った以上、ラガニア城で目にしたあの女のことを魔王だなんて呼ぶのは不当だろう。
得心がいったのか、男が返す。
「イブ様のことか」
「イブ?」
「口を慎め。呼び捨てにするな」
急に語勢を強める男に、思わず苦笑してしまった。革命を起こすんじゃないの、この人。
イブか。悪い名前じゃないからこそ、なんだか呼びたくなかった。というのも、その名を聞いて瞬時に、以前ラガニア城で味わった惜敗を思い出したのだ。
ニコルに甘えまくる、これ見よがしな態度。猫撫で声。わたしを見下したあの目付き。
うん、いいや。あいつは魔王だ。絶対に名前で呼んでやるものか。
密かに決心をしたわたしをよそに、男は少しばかり陶酔した声で語った。
「イブ様は王家の血を引くお方だ。先代王……最後の王の、三女と聞いている。あの災禍を生き延びたのは奇跡でもあり、必然でもある。イブ様は我々を照らす光なのだ。誇りあるラガニアの――」
「随分と詳しいのね」
これ以上聞いていたくなくて遮った。今までは淡々と、朴訥と言っていいくらいな喋り方をしていたのに、一転して熱っぽくなってしまったのだから困る。
男の目が、一瞬細くなった。
「現存するラガニアの民のうち、正史を知っている者はそう多くない。あえて継承しない者もいる。私の一族はそうではなかっただけのことだ。正しい誇りが、この私まで継承されている」
「なら、オブライエンのことも知って――」
正面から風を感じた。それも突風だ。あくまでもそう感じただけで、実際に風が吹いたわけではない。
男の殺気を、そのように誤認したまでのことだ。
咄嗟にサーベルの柄に触れたが、ギリギリで抜くのを思いとどまった。男が殺気を放ったのは一瞬のことで、すぐに収まったからだ。
「どこでその名を聞いた」
男の声色はすっかり変わっている。低く、脅すような響きだった。
虚言は許さない。そんな意志を感じる。
先ほどの殺気のせいか、背中にじっとりと湿り気を覚えた。
やはり、正しい歴史を知る者にとって――特にラガニアの人々にとって――オブライエンの名は冷静さを失うに足るものらしい。
良かった、と素直に思う。得体の知れない相手を揺さぶるだけの情報を、少なくともひとつ持っているわけだ。少し強気に出てみよう。
「どこで聞いたか忘れちゃったわ。思い出したら教えてあげる」
「お前は自分の立場が分かっているのか?」
まあ、そうなるよね。目付きが物騒だ。殺気こそ漏らさないものの、眼光は獣じみている。けれど、ここで怯んだら交渉もなにもあったものじゃない。
今いる場所がどこかなんて分からないけど、アウェイなのは確かだ。元の空間に戻る方法もさっぱり見出せない。劣勢なときにおろおろして、せっかく手にしたカードを手放すのはナンセンスだ。
「ちゃんと分かってるわよ。思い出せないんだからしょうがないじゃない」
「思い出すまで拷問してもいいんだぞ」
怯むな、わたし。
「あら。無事にマグオートに帰してくれるって言ってたのは嘘なの? 紳士的じゃないわね」
「お前、私を誰だと思ってるんだ。男爵だぞ。立派な紳士だ。まっとうな教育を受け、男子として恥のない魂を持っている」
少しムキになった調子の男を見つめて、内心『よし』と呟く。
なんとなく分かっていたけど、こいつは自尊心が異常に高い。自分で自分の行動を縛り付けてしまう程度には。
「立派な紳士なら、レディにしつこく質問することが上品かどうか知ってるわよね?」
「……レディ?」
はじめて鎧が身じろぎしたと思ったら、首を傾げて見せた。
……斬りつけてやろうか、こいつ。
「オホン……しつこく聞かれたって答えないし、子供じみて見えるわよ。一人前の紳士は悠々としてるものじゃないの?」
明らかに不承不承といった雰囲気だったが、男はそれ以上踏み込むことはなかった。
よし。ひとまずは優位に立っている。あくまで言葉の上で、だけど。
「それはそうと、革命ってどういうことなの? 戦争を主導してるのはニコルなんでしょ? だったら王都を壊滅させたらニコルが血族を牛耳るんじゃないの?」
「違う。戦争後の土地の分配に奴は参加せん。イブ様も、これまで通りラガニア城周辺をお治めになる。人間の土地は我々血族で分配するのだ」
「へえ……じゃああなたの言う革命って、ほかの血族の土地を奪ったりするってこと?」
土地について、先ほど彼は『基本的には』誰も手出し出来ないと言っていた。彼の言う革命とは、おそらく例外だろう。
「そうだ。我々は戦争の直後、奴を転覆させる」
「奴って?」
不意に、蝋燭がぐにゃりと揺れた。
「夜会卿だ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『イブ』→魔王の名。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




