903.「黒の鎧と異空間」
赤黒い部屋に、わたしはいた。さして狭くはない四角形の空間なのだが、息苦しい圧迫感を覚えて仕方ない。部屋の四隅に歪な柱が埋め込まれていて、床と天上に樹木の根に似た触手を張り巡らせている。壁も床も天井も緩やかな凹凸があり、じっと見つめていると部屋全体が鼓動しているような錯覚を感じた。
部屋の中央には背の高い燭台がひとつ。灯った蝋燭が部屋を不気味に照らしていた。家具はない。というか、そもそも生活空間には見えなかった。後ろ暗い儀式のためにしつらえられた場所という印象がある。
燭台を挟んで向かいに、漆黒の鎧が屹立している。オブジェではない。密度の高い鎧のため、肌こそ見えないが、目元に空いた隙間の奥で蝋燭の光を反射する両の瞳があった。
つい先ほどまで、わたしは町長の邸の地下にいたはず。意識は途絶えていない。襟首を掴まれてすぐ、視界が急変したのだ。明らかに魔術による転移に違いないのだけれど、あまりに一瞬の出来事だったので頭が混乱してしまっている。だからこうして尻もちをついたままポカンとしているのだ。
キャロルの姿はどこにもない。ここにいるのはわたしと、燭台の先の鎧だけだ。襟を引かれたときに驚いてキャロルの手を離してしまわなければ、彼女もここに引き込むことが出来たかもしれないけど……今は失態を気にしている状況ではない。
落ち着こう。気味の悪い場所だけど、いつまでも呆然としてるわけにはいかない。
手を突いて、ゆっくりと立ち上がる。床は弾力があった。石材や木材ではない。ゴムっぽい。怪物の皮膚みたいなイメージが浮かび、嫌な気分が加速した。四隅の柱の上下から伸びて、床と天上を蜘蛛の巣のように覆っている根も、なんだか分厚い血管のように見えてくる。うえ、気持ち悪い。
生唾を飲み下し、意識して呼吸を整える。落ち着け、わたし。
鎧の目はときおり微動しつつも、じっとこちらに向けられていた。わたしの襟を掴んだのはこいつだろうか。
「ねえ」
思い切って声を出す。音は反響することなく、床や天井、あるいは壁に吸い込まれていくようだった。
鎧がまばたきをした。こっちの声はちゃんと届いているらしい。
「さっきわたしを掴んだのはあなた?」
腰のサーベルを意識しながら問う。なにかあればすぐに抜刀出来る状態だ。面食らっていても、困惑していても、危機意識は消え去ったりしない。習慣は偉大だ。
「そうだ」
あ、喋った。少しくぐもった低い声。たぶん男。そんなに若くはないけど、老いも感じない。そして不思議なことに、敵意も感じなかった。巧妙に隠してるだけかもしれないけど。
「さっきまで町長さんの邸にいたはずだけど……ここはどこなの?」
「私の領地だ。……ラクローから話は聞いている。相当の猛者らしいな。来たる戦争で死に絶えたくなくば、私に協力するといい」
「ちょ、ちょっと待って」
性急だ。こっちのペースを考えてほしい。
慌てて口を挟んだわけだけど、鎧の男はぴたりと言葉を止めてくれた。呆れた様子もない。案外素直な人なのかもしれないけど、いきなり襟を掴むやつだ。油断ならない。
「えっと……ここはあなたの領地なのね? そもそもここはマグオートなの?」
「違う」
でしょうね。
「じゃあ、転移魔術でわたしを引っ張り込んだの?」
「その理解でかまわない」
ということは、厳密には転移魔術ではないということだ。作用は同じというだけで。
「それで、ここはどこなの?」
「答えたところで意味はない。じきに分かる。重要なのは、お前が我々に協力する意志があるかどうかだ」
押しつけがましい口調ではないけど、言っていることは強引だ。『じきに分かる』というのも意味不明だし……。
今、ヨハンはわたしの視覚や聴覚をちゃんと共有してくれているんだろうか。なにかあれば耳打ちの魔術で指示を送ってくれるとは思うけど……。
希望は捨てずにいようと思うけど、頼るのは違う。自力でなんとかしなきゃ。
「その話なんだけど、町長さんの家でしちゃ駄目かしら?」
無理矢理転移させられて協力を迫るだなんて、明らかに異常だ。逃げも隠れもしないから健全で平和的な場所で話をしたい。そんな意味を籠めて提案したわけだけど、鎧の男は譲らなかった。
「駄目だ」
だよね。駄目元で聞いたから諦めもつく。それに、いざとなれば力尽くでここから脱出すればいい。それが可能かどうかは未知だけど。
「仮に断ったとしたら、どうするの?」
「マグオートに帰してやる」
え。そうなの?
「ただし」と案の定、男は続けた。「ここでの出来事を口に出来ないよう、細工はするが」
細工ね。忘却魔術とか? ……なんにせよ命を奪う気はないらしい。こんな気持ちの悪い場所に監禁してくるくせに、案外穏便だ。嘘かもしれないけど、とりあえずは乗っておこう。
「なら安心して話が出来るわね。それで、協力って? 町長は戦争後にマグオートが覇権を握るって言ってたけど」
「人間世界はマグオートのものになる。否、マグオートの人間のみが助かる」
ん? ちょっと話が違う。
「戦争後にマグオートが、生き残った側に戦いを挑むんじゃないの?」
町長に否定されたことを、あえて問い直してみる。齟齬を埋めるのもそうだけど、なにより真実らしきものの輪郭を整える必要がある。
「違う。マグオートの民は戦争に参加せず、のちの戦いも発生しない。在り方が変わるだけだ」
どういうことだろう。少なくとも町長の言っていた通り、戦争後に革命を仕掛けるわけじゃないらしいけど……どうも鎧の男は言い回しが妙だ。
「在り方が変わるって、どういうこと?」
数秒の沈黙が横たわる。この空間にはほとんど自然音がない。外の音はちっとも聴こえなくて、蝋燭の立てる微かな燃焼音と、自分自身の呼吸や鼓動だけがある。鎧の男は静寂に溶けてしまったかのように、一切の音を立てなかった。あるのは言葉だけ。
だから返事も、出し抜けに訪れた。
「戦争後、マグオートは私の領地となる。人間に許された唯一の地がマグオートとなるのだ」
「……なにそれ」
「言葉通りだ。私に協力すれば、お前も聖域の住民となる。どうする?」
「ちょっと待って。あなたの領地になるってどういうこと?」
肝心の前提が抜けている。戦争後にマグオートがこの男の支配下に置かれる意味が分からない。聖域って言葉も引っかかる。
「いちから説明が必要なのか、お前は。語る必要のない当たり前の事柄をも確認しなければ気が済まないのか?」
淡々とした口調だ。苛立ちは感じられない。なのに言葉は鋭いのだから、嫌なチグハグさがある。
「ええ、おっしゃる通りよ。いちから説明して頂戴」
「人間と血族は戦争する」
「それは知ってる」
「なら前提は共有出来ている。これ以上説明する事柄はなかろう」
「戦争をすることが、どうして領地云々になるのよ」
「分からないか?」
男の口調は依然として変わらない。冷静そのもので、こちらを侮るような調子はどこにも見受けられなかった。段々分かってきたけど、そういう喋り方というだけだろう。内心ではわたしの無理解に苛立ってる気がする。
彼は間を置いて、説明を加えた。
「戦争は血族の勝利に終わる。グレキランスを皮切りに、人間世界はことごとく血族の手に落ちる」
人間が負けるのを当たり前のように主張するのはどうかと思うけど、その認識のずれが会話の擦れ違いの原因だろう。でも、血族が勝ったのにマグオートがこの男のものになるというのはおかしな話じゃないか。
不意に、眩暈に似た気分の悪さを感じた。この空間に来たときから続いていた気味の悪さを、はっきりと自覚的に捉えてしまったのだ。
部屋の外観や空気から気分の悪さを感じていたわけではないのだ、わたしは。それは錯覚に過ぎなくて、本当は――。
「あなたは血族なのね?」
燭台の先で、男がゆっくりとまばたきをした。
「そうだ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




