899.「砂漠の先客」
道中で二度の休憩を挟み、運河沿いの廃墟に辿り着いた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
馬を降り、ほとんど風化した建物の残骸を縫って目指すは、比較的まともにかたちを留めている四角形の建造物である。
「砂漠ってのは厄介なものですね。目がしぱしぱします」
砂地に入ってからというもの、ヨハンはそんな文句ばかりこぼしている。まあ、わたしも快い気分ではないけど。
「そばに運河があるから、全身洗えばいいわ」
「流されてしまうじゃないですか」
「岸から離れなきゃ大丈夫じゃない? 浅いところもあるでしょ。心配なら命綱を持っててあげるけど?」
「ご遠慮願います」
「わたしのこと、ちっとも信用してないのね……」
「命を他人に預ける性分ではありませんので」
と、こんな具合に軽口を飛ばし合っているうちに目指す建物が近くなっていく。馬を引いているからか、それとも砂漠だからか――たぶん両方だけど――足取りは重い。ヨハンは見るからにへとへとで、さっきから砂が入るのも構わずに口を半開きにしてぜえぜえ言っている。
「ねえ、大丈夫? あと少しだけど休む?」
「いえ、問題ありません。……それにしても」
「それにしても?」
聞き返したけれど、ヨハンは「なんでもありません」と早口で答えて汗を拭って見せた。
言いたいことは分かる。そして、ここまでの道中で意識的に疑問を口にしなかったことも分かってる。疲れから、ついうっかり口が滑っただけなのだ、彼は。
今朝からわたしはなにも食べず、ほとんど水も飲まず、ヨハンのためだけに休憩を取って進んできた。砂地に入ってからも足に疲労はないし、息だって切れない。これまでの自分の人生を振り返ってみても、こんなことはまず無かった。ゾラと戦ってからというもの、疲労とか眠気とか空腹とか、そういう生きている以上避けられない当たり前の物事がごっそりと抜け落ちてしまっていた。感情だけがちゃんと残っていて、だから自分の身に起きている事実を意識すると、胸苦しい嫌な気持ちになる。わたしの気持ちの動きをちゃんと察しているからこそ、ヨハンは今朝以降食事のことを話題に出さないのだ。それが逆にもやもやを生んでいるのだけれど、彼なりの配慮だと思えば多少鎮まりもする。
「星が綺麗ですなぁ」
喘ぐように言うものだから、思わず笑ってしまった。空を仰ぐと、でも、本当に綺麗だ。『煙宿』の夜景もなかなかのものだけど、天然の星屑はまた違った良さがある。夜空にミルクをこぼしたみたいな壮絶な星の川が流れていて、なんだか圧倒されてしまった。誰かが意図的に作ったわけじゃないからこそ、なお一層綺麗に思えるのだ。
「お嬢さん」
「なに?」
視線を地上に戻して、すぐに気付いた。目的地である建造物から、松明を掲げた人影がぞろぞろと出てくるところが見える。どうやら先客がいたようで、わたしたちに気が付いて外に出てきたのだろう。剣を構えている様子から、警戒心が窺えた。
どうしよう。こっちもサーベルを抜こうか。いや、余計に刺激しちゃうかも。
ちらとヨハンを見て、それからサーベルに視線を落とし、またぞろ彼を見つめる。どうする?
ヨハンは短く首を横に振った。刺激しないでください。
言外のコミュニケーションをしているうちにも人影は近付いてくる。先頭の男が確かな足取りで歩を進め、彼を護衛するように、抜刀した人影が左右に広がっている。総勢九名で、魔術師や魔具らしい魔力は視えない。
やがて先頭の男は、わたしたちの数メートル先で足を止めた。ごつごつした顔立ちで、身体つきも筋肉質。いかにも武闘派な感じだけれど軽率な雰囲気はない。実直な兵士という感じだ。
「ここでなにをしている」
遠くで唸る風の音に負けない朗々とした声。咎めるような強い口調なのは警戒心のせいだろう。
「えっと」と言いかけたわたしを制して、ヨハンが口を開く。
「私たちは旅をしてるんですよ。諸国漫遊なんでさぁ。しかし、この辺は町も村もなくって困ってたんですよ。貴方がたはここの住民ですか?」
とりあえずヨハンに任せておいたほうが良さそうだ。わたしのほうはいざというときに備えて警戒していよう。万が一切りかかられたら、すぐに対応出来るように。
「こんなときに諸国漫遊か」男は呆れた様子を見せ、それからすぐに表情を引き締めた。「王都の回し者じゃないだろうな」
王都の回し者?
随分な言い草じゃないか。ここだってグレキランス領の一部なわけで、彼らも王都と無関係の人間ではないはず。
「王都? いやいや、まさか。私たちは根無し草ですよ。方々の町や村で路銀を集めて面白おかしく暮らす旅芸人です。ねえ、お嬢さん?」
旅芸人だなんて、妙な嘘を……。でも否定するわけにもいかない。却って面倒なことになるくらいなら、ヨハンの嘘に乗るべきだ。
「あー、うん、そうね。旅芸人」
「良かったら一芸披露しましょうか? このお嬢さんの剣舞は見るも涼しげですよ」
ヨハンめ。無茶振りして……。
わたしがムッとすると同時に、目の前の男がぴしゃりと返す。「興味ない」
む。そう言われると傷付くし腹立たしい。告白してないのに振られる悔しさに少し似てるかも。いや、そんな経験はないけど。王立図書館で読んだ恋物語でそんなエピソードがあったってだけで。
「お前らが王都の人間じゃないなら、まあ、ひと晩休んでいくといい。疲れているのだろう?」
おや。案外優しい。王都の関係者だけに警戒してる? でも、どうして?
軽率に疑問を口にするのはやめておいて、男に導かれるまま建物へと足を向けた。
四角形の建造物は、入り口の箇所だけ砂除けの厚布に守られている。そこは前に訪れたときと同じだ。でも、布の先――室内の様相はがらりと変わっていた。
以前はがらんどうの室内だったのに、今はツルハシやらスコップやらが壁際に積まれていて、床の中心に直径五メートルほどの大穴が空いている。覗き込むと、どうやら掘削途中らしく、まだ深くは穿たれていない。そしてどこかに繋がっているようにも見えなかった。
部屋の奥――穴から離れた位置に簡素な木製椅子が置かれていて、そこに目つきの悪い女性が気だるげに腰かけていた。砂色のシャツに、同色の長ズボンを履いていて、黒髪を後頭部でお団子にしている。作業のための出で立ちといった様子だ。
「キャロルさん、旅の者がいたので連れてきました。砂を防げるのはこの建物だけなので、ひと晩だけ厄介になりたいそうです」と、わたしたちを先導した男が言う。砕けた様子はなく、あくまでも実直な言葉遣いだった。
キャロルと呼ばれた女性はひらひらと鬱陶しそうに手を払い、ただひと言だけ。
「好きにすればいい」
いかにも投げやりな言葉だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『王立図書館』→王都グレキランスにある図書館。クロエが好んで通っていた場所
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




