898.「次なる目的地」
「どうりで朝までぐっすりだったわけですね」
地面にべたりと胡坐をかいて伸びをするヨハンは、いかにも浮浪者然としていた。ただでさえ柔らかくうねる長髪が寝ぐせのせいでくしゃくしゃだし、寝床代わりに使った藁がそこかしこにくっついている。たっぷり眠ったと言う割に、目の下にはくっきりと隈が浮いていた。
ヨハンは傷だらけの鞄からいつの物だから分からない干し肉を取り出すと、もそもそと、あまり音を立てずに咀嚼した。起床して三十分は経過しているだろうに、いまだにどんよりした寝ぼけ眼である。何度見ても不健康そのものの顔なんだから……。
一方のわたしは全快だ。例の睡蓮の塊根で一晩中過ごしたというのに、少しの疲れも残っていない。夢の管理者が白状したところによると、あの場所は紛れもなく現実の空間で、そこにわたしを転移させたのだから肉体的には徹夜明けのはずだ。けれど実感としてはたっぷり眠った感覚である。わたしの体質が特殊なのではなく、きっとあの空間が特別なのだろう。実質的に眠っているのと同じくらいに肉体の消耗を抑えるとか、多分そんな魔術的空間なんだと考えるとしっくりくる。
先ほどヨハンには、夢の管理者にまつわる諸々の情報を共有したばかりだ。寝起きの頭でどれだけ理解してくれたか分からないし、そもそも眉唾ものの事実なのですんなり呑み込めてはいない様子だったけれど、とりあえずは「はぁ、そうですか。信じますよ」と言ってくれた。
「それで」ヨハンは干し肉を食べながら言う。「夢の管理者とやらは我々に協力してくれるんですね?」
彼の口から咀嚼中の肉が見える。げんなりだ。
「口に物が入ってるときに喋らないでよ……。手を貸してくれるって約束してくれたわ」
ヨハンは短く二度ほど頷き、あくびをした。
「つまり、オブライエンに関する問題は考えなくて済むわけですね。そりゃ良かったです」
「やけにぞんざいね……」
「随分と突飛な話ですからね。夢の管理者なんてのは」
む。やっぱり疑ってる?
「信じてくれないの?」
「いや」ヨハンはため息とともに首を横に振った。「信じますよ。ただ、睡蓮の塊根とやらに私も連れて行ってくれなかったので拗ねているだけです」
息を吐くように嘘を言うのがこの男の特徴だけれど、拗ねているだなんて。らしくない言葉を選んだものだ。
「どうせまたわたしが騙されてるとでも思ってるんでしょ」
わたしはこれまで何度となく騙されてきた。洗脳魔術だったり、単に言葉の詐術だったり。そのたびに辛酸を舐めてきたわけだけれど、成長出来ているかというと怪しいものである。
「お嬢さんは真っ直ぐな人ですから」
「へらへら言わないで。まったく……。でも、今回ばかりはあなたの杞憂よ。わたしたちとあのお爺さんは利害が一致してるもの」
夢の管理者もまたオブライエンの被害者だ。今現在の在り方に納得しているとはいえ、『気化アルテゴ』の影響で生き方そのものを無理やり変えられてしまった事実は消えない。そして戦争がはじまれば今いる草地――厳密にはそばにある睡蓮の池――だって戦場になる可能性があるのだ。そのうえで、もし協力してくれるのなら、この近辺への人員配備は避けるという条件を突きつけたのである。そうなれば睡蓮の塊根が破壊されるほど激しい火の粉は被らない。多少悩む様子を見せたものの、最終的に夢の管理者は了承したのだ。
「ま、とりあえずはお嬢さんの天晴な交渉を祝福しますよ」
「あんまり馬鹿にすると怒るわよ」
「まあまあ、お嬢さんも干し肉を食べますか?」
まるで板切れのようなかたちの、黒ずんだ肉が差し出される。
「遠慮しとくわ」
「贅沢ですねぇ」
「いや、干し肉だからじゃなくて、ちっとも食欲がないのよ」
「しかし、昨日の朝からずっと食事してないのでは?」
確かに、『不夜城』で団子を食べたきり何もお腹に入れていない。その団子だって、空腹だったから口にしたというより、作ってくれたカシミールへの感謝を示すために食べたようなものだ。
「でも全然お腹が減ってないのよ」
「そのうち倒れますよ」
「痩せ我慢してるわけじゃないの。本当に。気遣ってくれるのは嬉しいけど、大丈夫だから」
ヨハンは肩を竦めて干し肉を口に運ぶ作業に戻った。
湿った空気が周囲を包み込んでいて、うっすらと霧が出ている。立ち上がって背伸びをすると、数十メートル先が白く曖昧に濁っていた。遠くの山は薄墨を引いたように朧げな輪郭を見せている。
なんとなく手持無沙汰になって馬を撫でていると、ヨハンの声がした。
「オブライエンの問題はとりあえずいいとして、これからどうしますか? 諸国漫遊でもしますか?」
諸国漫遊だなんて、思ってもない冗談を。でも、こういう軽口を言ってくれるのは案外ありがたい。当面の問題は消えないにしても、眉間に皺を寄せて重々しく歩んでいくのは好ましくないから。
「そうね……久しぶりにハルキゲニアのほうに行くのはどうかしら?」
もちろん、旅行ではない。
オブライエンのほかにも、戦争にあたっての問題はある。なかでも大きいのが戦力問題で、今のところグレキランスがかき集めた兵士はせいぜい一万程度と聞いている。騎士団長が中心となって兵力を増やすべく動いているようではあるが、今のところ目途は立っていないらしい。そのあたりの事情はこの間デミアンが教えてくれた。
まだ交渉を行っておらず、かつ人員の豊富な土地として真っ先に思い浮かぶのが『最果て』――正式名称ハルキゲニア地方だ。
わたしたちならハルキゲニアにゆかりがある。きっと交渉だって上手くいくだろう。
ナイスアイデアだと思ったのだけれど、ヨハンは首を横に振った。
「ハルキゲニアに行く必要はありません。あっちのほうはすでに根回ししてありますので」
「根回し? いつの間に?」
「これですよ、これ」
ヨハンは鞄から手のひらサイズの真っ黒な小箱を取り出し、軽く振って見せた。
漆黒の小箱。対になる小箱を持つ相手と交信出来る魔道具だ。確かもう片方を持っていたのは……ええと、誰だっけ?
わたしが露骨に首を傾げたからか、ヨハンはへらへら笑いながら答えた。
「気球職人の空の旅は、つつがなく完了したようですよ」
気球職人ロジェール。ああ、そうだ。そうだった。彼に小箱を渡していたっけ。で、ヨハンはとっくに彼と連絡を取っていて、ハルキゲニアの人々を巻き込むべく今動いて貰ってるんだろう。
「なるほどね。じゃあハルキゲニアに行く必要はないとして……」
一部を除き、グレキランス領内のほとんどの町や村は協力に応じてくれたと聞いている。まあ、なかには知らぬ存ぜぬ勝手にやれ、という態度の町もあったみたいだけど……。
もちろんそれは、交渉出来た範囲の土地に限る。物理的な障害があって交渉すら出来ていない場所は存在するのだ。
「じゃあ、西に行きましょう」
グレキランスの西方に広がる運河は、つい最近『渡し守』を失っている。運河を渡る鍵を持つわたしでなければ、その先へは行けないのだ。
いくつかの幼い記憶が脳裏に浮かぶ。
トードリリー。わたしの故郷。いや、厳密にはそうではない。記憶にある限りの故郷だ。わたしは物心ついたときには孤児院にいて、ニコルをはじめとする孤児たちとともに過ごしていた。それ以前の記憶がまったくない……というと嘘になる。少なくとも、夢の中で断片的な、とても現実的な光景を体験している。
わたしを藁に押し込む女性。まどろみと、ひどく厭な笑い声。
わたしはわたしについて、もっと知らなければならない。ゾラとの戦闘で起きた身体変化を無視するなんて出来ないのだから。
「いいんですか」とヨハンは呟く。
トードリリーがわたしの故郷であることは、ヨハンも知っているわけだ。なにせ、ほかならぬわたしの視界を半分だけ共有していたのだから。
そして故郷へ向かうということが単なる兵士のスカウトに留まらないことも予感しているのだろう。
馬の背に乗り、ヨハンへと目配せした。「行きましょう」
ほどなくしてわたしたちは西へ西へと、蹄の音を鳴らした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『デミアン』→王都襲撃の日を生き残った小太りな大臣。偏狭な性格だが、献身的な面もある。現在はノックスの側近として働いている。詳しくは『590.「不思議な不思議な食事会」』にて
・『騎士団長』→名はゼール。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『カシミール』→マダムの養子であり、レオンの弟。血の繋がりはない。粗暴な性格だが、料理の話になると打ち解ける。人形術により自身の肉体を強化する技を得意とする。現在は『煙宿』で料理人をしている。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『気化アルテゴ』→オブライエンの発明した生物兵器。『液化アルテゴ』が気化したもの。膨張を繰り返し、急速に広がる。吸引した人間は多くが魔物となり、一部が他種族に、ごくごく一部が『黒の血族』へと変異する。オブライエンは双子の兄であるスタインの体内に『液化アルテゴ』を設置し、生命活動の停止に伴って外気に触れるよう仕組んだ。スタインが処刑されたことにより、ラガニアは滅亡することとなった。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。箱同士がペアになっており、握ることで交信が可能。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『夢の管理者』→人々の夢を管理する老人。詳しくは『第三章 第二話「妖精王と渡し守」』にて
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




