895.「夢の方角」
「寂しくなりますなぁ」
濃い靄の先に四人分の背が隠れると、ヨハンはちっとも寂しくなさそうにそう言った。思ってもないことを軽率に口にするのは普段通りの彼の態度だ。
わたしとヨハンは今、『煙宿』の外れに立っている。もうすっかり日も高いのに周囲は薄靄にどんよりと沈んでいて、遠くからやってくる湿った微風は、湿原特有の土っぽい臭気を含んでいた。
振り返ると、うら寂しい桟橋が町まで伸びている。朝方の『煙宿』は、夜の賑やかさと比べると雲泥の差だ。酔漢は道端で大いびきだし、夜遊びをしない人も早起きなんて滅多にしない。布団の上でぐずぐずごろごろしていることだろう。静けさのせいか、馬のいななきがちょっとびっくりするくらい長く残った。
「さて、我々も行きましょうか」
「ええ」
『煙宿』のトップであるポールから借りた馬に飛び乗ると、やや遅れてヨハンも後ろに乗った。
呼吸を整え、左目のあたりに触れる。滑らかな感触が指先に伝わった。シンクレールたちを送る直前、ココのところに寄って眼帯を作ってもらったのだ。寝起きの彼女は睡魔と戦いつつゆらりゆらり揺れながら、それでも五分と経たずに見事な眼帯を仕上げてくれたのである。ありがたいことこの上ない。
視界が半分になったぶん、どうしたって見える範囲は狭くなる。それでも基本的には眼帯を外すわけにはいかない。うっかり外したままで水浴びなんてしたら、あられもない姿をヨハンに覗かれることになるし、もしかしたらルーカスにだって凝視されるかも……。なんにせよ、外すのはいざというときだけだ。
「落とされないようにね」
「ご心配なく。大丈夫ですよ、多分」
シンクレールたちの去った方角を一瞥してから、前へ向き直る。
これからわたしたちが向かうのは、王都とは逆方向だ。
『不夜城』での会合は、円満に運んでくれたように思う。ラルフの記憶について共有できたし、なによりルドベキアのことも認めてくれた。最低限、すでに交わした誓約書を守る程度だけど。
今後の動きについても簡単に擦り合わせられたのも幸いだ。ノックスとデミアンは当然、速やかに王城へと戻る。血族やオブライエンに関する真相などまったく知らない素振りで戦いに備えてもらうのだ。
アリスはこれまで通り、歓楽街取締役のルカーニアの指示のもとで動いてもらうほかない。
そしてシンクレールには――。
「大丈夫ですかねえ、シンクレールさんにお任せして。かなり面倒な役回りになりますが」
へらついた声が背後から聴こえる。絶えず耳元で鳴っている風音と、蹄鉄のリズム。ヨハンの声がそれらに掻き消されることはなかった。
「大丈夫よ」
きっと大丈夫だ。ルドベキアでは散々な醜態を晒した彼だけれど、ちゃんとしてるときはちゃんとしてるし。そして彼に頼んだことは、間違いなく真剣にやってくれる類の物事なのだ。
今のところオブライエンの正体を知っている人物は少ない。そのうちノックスとデミアンは自由に動けない身分だし、アリスはアリスで別のしがらみがある。
シンクレールは自由だ。しかも、王都で定期的に行われる秘密の会合のメンバーでもあるし、その場にはもちろんオブライエンも出席する。これ以上ないポジションだ。
彼に頼んだのはシンプルで、しかしそう簡単ではない内容である。
オブライエンに決して気付かれないように、彼の動向を探ること。もちろん、可能な範囲でだ。
「下手を打ってオブライエンに気取られたら最悪なことになりますよ」
「分かってる。だからわたしたちは戦いの直前まで王都には戻らないことにしたでしょ。リスクを減らすために」
普段ならともかく、戦争を前にしたオブライエンがどれほど神経を張っているかは分からない。半分とはいえ血族の血を持つヨハンが、オブライエンに見つかったら厄介なことになるだろう。
「お嬢さんは洗脳に弱いですからなぁ。奴に警戒されたら、あっという間に全部喋らされてしまいますね」
「うっ……ば、馬鹿にしないで頂戴! 散々洗脳されてきたから、もう慣れたわよ」
「ほほう」
後ろでヨハンがニヤニヤしているのは振り返らずとも分かる。まったく、どこまでも性格の悪い男だ。
まあ、洗脳系の魔術に打ち勝てるだけの自信があるかというと、残念ながらまったくない。
「なんにせよ、懸案は山ほどありますな。シンクレールさんのこともそうですが、オブライエンの根城に関しても二つ問題がありますからねえ。第一に、どうやって侵入するか。第二に、どうやってゾラさんたちを送り込むか」
どちらも大きな問題だ。ただ、まったく希望がないわけではない。
「それを解決するために今動いてるのよ」
湿原の先――南西の方角へと全速力で進んでいる。このペースなら夜には目的地に到着するだろう。
途中で二度の小休憩を挟み、丈の長い草に覆われた平地へとたどり着いたのは、陽が落ちてすぐのことだった。
馬がすっかり埋もれてしまうほど高身長の雑草。まるで緑の海を渡っているような感覚になる。ときおり馬が、ぶるる、と不機嫌そうに鳴いた。
「ひどい雑草ですね。馬にでも乗っていなければ碌に方角も分からなくなるんじゃないですか?」
「そうね。でももうすぐ目的地よ。確かこのあたりに……あった!」
育ち過ぎた雑草の海に、ぽつんと空隙がある。およそ二十メートル程度の歪な空き地。数週間前に出来上がった空白地帯だ。
馬から降りて、伸びをする。青々とした空気が胸に染み込んでいった。
「ここですか? なにもありませんが……」
「ここで間違いないわ」
ヨハンの言う通り、ここには別段なにもない。少し前に雑草を刈ってこしらえた空間で、早くも脛のあたりまで下草が育ってきている。中心にはこんもりと枯れ草が山を為していた。
馬はきょときょとと周囲に視線を散らしていたが、やがて枯れ草をもしゃもしゃと食べはじめた。
「ここにオブライエン攻略の鍵があると……?」
詳細を伏せてついてきてもらったので、ヨハンの反応は至極当然のものだ。
ふふん。これまでずっと彼の秘密主義に振り回されてきたんだ。たまには振り回される側になればいい。
「なんだか疲れちゃったわ。眠い」
ころん。枯れ草の端に横たわって見せる。
ヨハンは露骨に嫌そうな表情で見下ろしてきた。
「なんの真似ですか、お嬢さん」
「眠くなっちゃっただけ。おやすみなさい」
「ちゃんと説明してから寝てください」
笑いをこらえて、寝たふりをする。数秒おきに繰り返されるヨハンのため息がなんとも愉快だ。
それでもじんわりと、重力に従って意識が落ちていくような感覚になった。
実のところ眠気はちっともなかったのだけれど、一度目をつむってしまうともう開けられないくらいになってしまっている。身体もやけに重たくて、睡眠を受け入れている。
「まったく、どういうことですか」
ヨハンが座り込む音と振動。それらは確かに伝わってきたけれど、すぐに意識から剥がれていく。
本当はすごく疲れていて、睡眠を必要としていた――というわけではないことくらいわたしは知っている。眠りに引き込まれているだけのことなのだ。
やがて思考が千々に乱れ、意識は着実に溶けていき、なにもかもが分からなくなった。
目覚めると真っ白な空間にいた。眩しくはない。そして、驚きもない。
中央のテーブル越しに老人が見える。見事なしかめ面だ。
わたしは身を起こし、微笑みを作って会釈した。
「お久しぶり、『夢の管理者』さん」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『デミアン』→王都襲撃の日を生き残った小太りな大臣。偏狭な性格だが、献身的な面もある。現在はノックスの側近として働いている。詳しくは『590.「不思議な不思議な食事会」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。王都の歓楽街取締役のルカーニアに永続的な雇用関係を結んだ。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ルカーニア』→王都の歓楽街を取り仕切る老人。斜視。王都襲撃の日、武器を手に魔物と戦うことを呑み、引き替えにアリスを永久に雇用することになった。詳しくは『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『ココ』→『煙宿』にある針治療の店『針屋』に居候する女性。気さくで明るい。魔術の才能があり、得意の裁縫と組み合わせ、魔力を織り込んだ衣服を作る。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ポール』→『煙宿』の創始者。水蜜香の中毒者であり、娘を溺愛していた。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『夢の管理者』→人々の夢を管理する老人。詳しくは『第三章 第二話「妖精王と渡し守」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




