幕間.「魔王の城~記憶の水盆『明くる城』~」
魔王の城の奥には、『水盆の間』と呼ばれる小部屋がある。
四方は剥き出しの石壁で、床には褪せた青の絨毯が敷かれている。中央にはたっぷりと水を湛えた大ぶりの盆――『記憶の水盆』が鎮座していた。
水盆から顔を上げ、ニコルは荒い深呼吸を繰り返す。過去を覗き込んで、現在に帰ってきたときには決まって眩暈を感じる。殊に追体験する過去が長ければ長いほど、その酩酊感は強くなるものだ。
「……悪い冗談だ」
そう呟いて、ニコルはその場で仰向けに寝転んだ。脈拍が異様に早く、視界は絶えずぐにゃぐにゃと歪んでいて、目を開けていられない。しかしながら水盆に沈んでいた記憶――ラガニア国が滅亡に至るまでの断片的記憶――の醜悪さに比べれば眩暈などほんの些細なものだった。
喜び勇んで魔王討伐の旅へ出た自分を思い出し、ニコルは内心で乾いた笑いを漏らした。魔王はすべての魔物を統べる存在であり、打倒したならば世界は平穏な夜を迎えることが出来る。そんな誰にも証明の出来ない夢物語を信じていた自分は、途方もなく愚かだった。
たったひとりの邪悪な存在によって作られた架空の歴史こそ、魔物以上の異形な怪物に違いない。ニコルは痛切に感じ入り、呼吸の乱れを覚えた。
彼がオブライエンにまつわる記憶を覗き見るのは、これで二度目になる。
「ニコル……! ニコル!」
魔王の声と足音がして、ニコルは少しだけ口角を上げた。
記憶の旅を終えたばかりだからこそ、彼女が生きて動いているという事実がひどく哀しい幸福に感じてならない。
「ここだよ」
そう返事をしてやると、靴音は真っ直ぐに『水盆の間』へと近付いてきた。
「嗚呼、ニコル! 水盆はあまり覗き込むなと言ったではないか……!」
「平気だよ。少し横になってるだけ」
額に手を当てて熱を測ったり脈を確認したりする魔王が面白くて、ついついニコルは笑顔になってしまった。
ニコルの両手が伸び、座り込んだ魔王の頬を柔らかく挟み込む。人間のそれよりもずっと冷たい体温が、ニコルの手のひらを着実に冷やしていった。
「な、なんじゃ」
「いや、別に」
以前魔王から聞いた言葉を不意に思い出し、ニコルは笑みを消した。
事実として、魔王には魔物を統率する力がある。ほかの血族も、知能の残っている魔物と契約して『一部の魔物を統べる力』を得ることが出来るが、魔王の場合は契約など必要なく、無条件にあらゆる魔物を意のままに動かすことが出来るらしい。ただ、彼女を殺したところで魔物が消えることはあり得ない。
そして肝心なのは、彼女が『統べる力』を使って実現したのは王城の守護だけという点である。ほとんどすべての魔物は、体内に刻まれた『グレキランスへの復讐心』をよすがに人間を襲っているに過ぎない。それも完全ではないために、血族を襲う魔物や共食いする魔物もいる。
すべての罪悪がオブライエンに収斂するとしても、彼の影響を受けた人々――つまりはグレキランスの偽の歴史の信奉者は救いがたく澱んでしまっている。罪を清算しないまま罪を重ね続けている。今も。
ニコルは片手で、魔王の髪を梳くように撫でた。紫の頬の奥がほんのりと赤く染まる。
「イブ」
名前を呼ばれた魔王は嬉しそうにはにかんだ。「なんじゃ、ニコル」
「もうじき全部終わる。オブライエンも、グレキランス人も、全部だ」
彼女の笑顔が凍り付くのが分かったが、ニコルは言葉を止める気はなかった。
「戦争ではゾラたち獣人にオブライエンの抹殺を依頼してある。メフィスト経由の作戦だから怪しいものだけど、大丈夫、事の成り行きは僕も確認するよ」
「……ニコル。お主は城に残って、わらわの隣にいてくれぬか?」
魔王の潤んだ瞳を受け止め、ニコルは首を横に振る。「大事な仕事だから」
ニコルがへらりと笑顔を作ると、魔王は対照的な表情を浮かべた。
「しかし、もしニコルが……」
「大丈夫だよ。僕は死なない。必ず目的を達成して戻る。それまでは『庭番』のローゼや『丘』のドゥネが君を守ってくれるから、安心して。美味しいものを食べて栄養をつけるんだよ」
「そうやってお主は、わらわのことばかり心配する……」
「大事だからね。心配もするさ」
「わらわはニコルが心配じゃ! わらわを想うなら自分のこともちゃんと大事に――」
ニコルは言葉の途中で身を起こし、魔王の唇を塞ぐ。すると、途端に彼女が脱力するのが分かった。
魔王の唇が緩く開くのを感じると、二コルは顔を離した。
とろんと夢見がちな魔王の眼差しに、たちまち抗議の色が浮かぶ。ニコルはなんとか微笑を返し、彼女の頭を撫でてやった。
血族同士も一枚岩ではない。特にラガニア国崩壊直後はひどいものだった。
オブライエンとスタインにより『気化アルテゴ』が散布された晩、ラガニアには多くの理性なき魔物と、わずかに理性を残すケダモノと、ほんのわずかな死体が生まれた。人間として生きている者は皆無。
朝が訪れて魔物が蒸発する頃、死体たちは目を覚ました。眩暈も頭痛もなく、五体もそのまま、記憶さえ引き継いで。ただ全身が紫色に染まり、説明のつかない異能を手に入れていた。
彼らは一度確実に死んでいたが、しかし再び命を得た。それが『気化アルテゴ』の例外的作用だということを把握していた者は誰もいないだろうと、ニコルは推察している。少なくとも水盆による追体験では、即座にはっきりと物事を理解していた者は誰もいないようだった。
人が人であり得た昨日と、人ならざる生命を宿してしまった今日。その分水嶺の正体は、冷静な考察や事実の確認によって徐々に共有されていったのである。要するに血族が生まれた朝には、誰もなにも知らず、ありうべからざる崩壊劇の名残と、自身の肉体の変化が現実を掻き混ぜ、混沌とした状況を生んだのだ。
ラガニア国で生まれた血族は等しく王城へ向かった。彼らの信仰の中心ゆえに。
直系の王族で生き残ったのはイブただひとり。分家ではヴラドが生存したが、ドラクルの姿は消失してしまった。
血族たちは部屋の隅で怯えているイブを見つけると、玉座へと引っ張っていった。そして愚かにも説明を求めたのである。何故ラガニアがこのような悲劇の朝を迎えたのか。グレキランスに勝利したのではないのか。これはいったい、なんの呪いなのか。
イブは幼く、ただ泣きじゃくっていた。
皆、弱かった。皆、怯えていた。皆、理由が欲しかった。
誰かが「天罰だ」と叫んだ。「王族に天罰が下ったのだ」
誰の心にも王族への敬意と崇拝心があったのは違いない。しかし、異常な悲劇を前にして、『信じる力』は恐怖と混乱に蹂躙されてしまった。
はじめにイブを殴った血族が誰かは分からない。水盆越しに見た限りにおいては、その手つきがひどくおっかなびっくりだったことだけがニコルの脳裏に焼き付いた。
最初の殴打がイブを襲った後、紫色の人だかりから「イブ様は出来が悪かったから天に容赦されたのだ。王族と見做されなかったのだ。その証拠に、イブ様以外は皆死んでおる」と怒号が飛んだ。
かくしてイブは堰を切った暴力の波に揉まれ、半殺しに遭ったのである。人間ならばとうに死んでいるほどの暴力だった。現に死んだと勘違いして、血族たちは王城を後にし、思い思いの地へと足を運んだのである。
城に残ったのはメイド数名、料理長、女庭師、ドゥネ侯爵、そして『夜会卿』の蔑称を望んで名乗るようになったヴラドのみ。その数人の中には恐怖に流されてイブを殴打した者もいたが、彼女の知るところではない。彼女にとってあの日の出来事は消し去りたい悪夢で、それを堅実に保存している水盆はおぞましい物でしかないのだとニコルは察していた。だからイブは水盆を決して覗き込まない。少なくともニコルの知る限りは。
魔王が魔王になるまでには悠久の時が必要だった。改めてそれを想い、ニコルは彼女をひしと抱きしめた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『ヴラド』→別名『夜会卿』。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『記憶の水盆』→過去を追体験出来る魔道具。魔王の城の奥にある。初出は『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域。今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




