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105.「洞窟の逃亡劇」

 手記を読み終え、深いため息をついた。


 途中、魔物の気配に中断されたが、奴らは『休憩所』に入ってくる様子はなかった。思うに、手記の執筆者であるハルキゲニアの魔術師が魔除けの防御魔術を(ほどこ)したのだろう。魔除けの種類なんて山ほどあるので特定することは出来ないが。


 意識を失って眠るヨハンへ顔を向けた。相変わらず、浅く間遠(まどお)な呼吸が微かに聴こえる。


 彼が旅路を急いでいた理由が手記の内容と無関係だとは思えなかった。老魔術師――レオネルの書いた通りなら『最果て』の魔術都市は保守的で支配的な空気に覆われている。そんなところに首を突っ込むとすれば……。


 革命。そんな言葉が浮かんだ。


 ひと眠りしておくべきだと気が()いたが、頭は()えてしまっている。疑問がいくつも浮かんではぐるぐると思考を支配した。防御壁の仕組みについてだとか、なぜ女王が住民投票で勝利出来たのかだとか、ハルキゲニアを襲った疫病の真の理由だとか、諸々(もろもろ)だ。


 ともかく、ヨハンが目を覚まし、充分に恢復(かいふく)した頃を見計らって問い詰めよう。そう決めて、手記をコルセットと身体の隙間に挟み込んだ。


 ランプを吹き消して机に突っ伏せた。そして目を閉じる。


 瞼の裏で細かい光が舞っていた。疲労が蓄積しているのだろう。


 毒瑠璃を呑み込んだスライムから逃げる手段があるだろうか。『休憩所』から『大虚穴(おおうろあな)』までどのくらいの距離があるのかも分からない。『休憩所』に入る直前に見た湖は、薄闇のずっと先まで続いていた。明日、スライムがどの位置にいるかが勝負だろう。


 ヨハンは、あのスライムを目にしたことはないと言っていた。彼が何度このルートを辿ったかは分からないが、その慣れた足取りと落ち着きからはそれなりの経験を感じさせた。


 やがて意識が遠くに引っ張られていった。夜闇の深みに思考が連れ去られていく。




 スライムの夢を見た。


 背後一メートルのところまで迫った巨大な身体。わたしは必死に駆けていたが、スライムは一定の距離から遠ざかりも近付きもしない。呑み込まれる一歩手前。永久に終わらない()物劇(ものげき)。焦りと恐怖は延々と続いていく。悲鳴は喉の奥で潰れ、心臓は痛いくらいに強く打つ。ずるずる、ずるずる、と奴はわたしを追い続ける……。


 ぱちり、と目が覚めた。全身に不快な汗をかいている。深く息をすると、ある音に気が付いた。


 ずるずる、ずるずる。


 夢の中の音が現実まで侵食した――わけではない。小部屋の近くに例のスライムがいるのだ。その不気味な巨体を引きずりながら、獲物を求めて徘徊している。


 息を止めて硬直していると、その音は遠ざかっていき、やがて聴こえなくなった。


 最悪の寝覚めだ。悪夢の続きを見ているようなものである。いや、現実が悪夢的なのか。もう金輪際、スライムを()でる気持ちにはなれそうにない。昔、自分の部屋に置いていたスライムのぬいぐるみは縫い目が(ほつ)れて中綿(なかわた)が出てしまったのでやむなく処分したことを思い出した。


 ヨハンはまだ眠っていた。ベッドに横たわる彼の顔を覗き込む。


 呼吸はまだ続いている。しかし恢復の(きざ)しはなかった。


 周囲に魔物の気配はない――スライムはそもそも気配を感じ取ることが出来なかったので例外だ――ので、今が朝か昼だと判断することは出来た。


 動くなら今だろう。先ほどスライムは『大虚穴(おおうろあな)』とは逆方向に遠ざかっていったが、ああやって動き続けているのならこの好機を逃すわけにはいかない。


「……少し揺れるかもしれないけど、我慢して頂戴。必ずハルキゲニアまで辿り着くから、だから……」


 死なないで。それを口にするのはやめた。


 ヨハンのマッチを使ってランプに火を(とも)す。そして彼を背負い、鞄とランプを持った。


 ヨハンの身体は昨日よりも冷えているように思えた。腕もどこか冷たい。命がランプの灯火(ともしび)なら、ヨハンのそれ(・・)はどれだけ小さくなっているのだろう。少なくとも、前日よりは弱まっている。


 なんとしてでも辿り着く。それも、可能な限り早く。ヨハンが息を繋いでいるうちに。


 大空洞に出ると、冷えた空気が肌を撫でた。それと同時に、昨日の焦りと恐怖が蘇る。そういうときこそ冷静に、()つ身を引き締めなければならない。


 体力を消費し過ぎてはいけない。けれども、のんびりしてもいけない。加減が難しかったが、バランスを意識して足を動かし続けた。


 注意していても足が(すべ)ってしまう箇所はあったが、意識しているぶん、比較的負担を少なく踏みとどまることが出来た。しかし、滑るたびに心臓が跳ねるのは嫌な感覚である。


 暫く走っていると、わたしの耳は決して聴きたくなかった音を拾った。その音は遥か後方から、わたしたちを追って来ている。


 ずるずる、ずるずる。


 落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ湖の先まで見えない。しかしながら、スライムはずっとずっと後ろだ。可能な限りの速度で駆ける。ゴールが見えない以上、呼吸と速度のバランスは維持し続けた。


 ずるずる、ずるずる。


 音はほんの僅かずつ大きくなっている。洞窟の反響具合だ、なんて楽観的な考え方は出来なかった。間違いなく距離を詰めてきている。落ち着け、落ち着け。


 ごつごつとした地面に(つまず)かず、そして足を滑らすことなく駆けるには冷静さと集中力が必要だ。敵と対峙したときの感覚を思い出せ。それを逃走に応用するだけだ。


 自分に言い聞かせつつ、駆け続けた。思考は一旦停止させ、目の前の道と体力配分に意識を注ぐ。


 やがて前方に岩壁が見えた。そこで湖が途切れている――ように見える。ヨハンの情報通りなら迂回して進めば湖は続いているはずだ。それが途切れるまで進み続けるだけである。


 大きく左に迂回して進んだ。道幅は狭くはなかったが、ごつごつと不揃いな岩がそこかしこにあり、スピードを緩めざるをえなかった。


 ずるずる、ずるずる。


 その音に気を取られてはいけない。地形に合わせた充分な速度を維持するだけだ。速度が落ちたからといって殊更(ことさら)に焦っては自分の首を絞める結果にもなりかねない。


 迂回路はゆったりとカーブを描いて湖へと続いていた。


 よし、正規の目印に戻ることが出来た。


 しかし、そこから先も足場は悪かった。それまでの駆け足を維持することが出来ない。徐々にスライムの音は近寄ってきている。奴には地形が関係ないのか、接近速度は一定であるように思えた。


 背後の音は随分と近付いていた。おそらく、二十メートル以内には入っているはずだ。


 しかし、こちらにも光明が見えている。前方二百メートルほど先だろうか、湖が途切れていた。足場の悪さはあったが、なんとかそこまで辿り着けば、あとは横穴目指して更に進むだけだ。


 湖の末端まで辿り着くと、前方の巨大な壁にぽっかりと穴が空いているのが見えた。その先は漆黒であり、一体どうなっているのか知りようがなかったが、それでも一旦の目的地が見えたことによって随分と励まされた。


 上手くいっている。――スライムの接近距離を除けば。


 奴は背後三メートル強の位置まで近付いていた。もはや肉体に気を(つか)っている余裕はない。一気に速度を上げて穴へと駆ける。


 ずるずるずるずるずるずる。


 スライムも速度を上げて迫ってくる。息が上手く出来ない。頭には恐怖が芽を出している。それでも足を動かし続けた。最高速度で駆け抜ける。


 ひやり。


 地面を蹴った足先が冷たいなにか(・・・)に触れた。


 凍りつくような恐怖が一瞬のうちに全身へと広がり、そのためか、岩に足を取られて転んだ。


 運が良かったのか、はたまた悪かったのか分からない。転んだ勢いでわたしとヨハンは投げ出され、丁度横穴へと滑り込んだ。


 ただ、息をつく暇もなかった。


 転んだ勢いでわたしより前方へ投げ出されたヨハンが落ちていく(・・・・・)


 咄嗟に彼の手を掴み、その身体を支えた。呼吸は激しく、思考はノイズが走っている。肌に感じる嫌な風が、噴き出した汗を急速に冷ましていった。


 背後のスライムは遠ざかっていくようだったが、それを意識する余裕はなかった。


 横穴の先。そこは天地を貫くような大穴だった。その(ふち)で、わたしは腕を限界まで伸ばしてヨハンの手首を掴んでいる。


大虚穴(おおうろあな)』。


 まさしく、なにもかも虚無に還してしまうような、虚ろな大穴である。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。



・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて

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