104.「ハルキゲニア今昔物語」
浅い呼吸が一定のリズムで繰り返されていた。それが止まってしまわぬことを祈る。
ヨハンが現在、どういった状況に置かれているのか具体的には分からなかった。医学に関しては門外漢だ。それでも、そこに不穏な影を感じないわけにはいかない。
湿原の地下洞窟。すぐそばには地下水が溜まって出来た湖があり、どんな病原菌が潜んでいるのかも分からない。
ヨハンの顔は普段通り不健康そのものだった。病魔に侵されているのかどうかも判断がつかない。
本来は一刻も早くしかるべき人間に診せなければいけなかったが、しかし、今は夜に足を踏み入れた時間である。加えて地下洞窟という環境。どうあがいてもすぐに行動を起こすことは出来ない。非常に歯がゆいことではあるが、ひと晩は足止めだ。
「ごめんなさい。鞄を開けるわよ」
おそらくは意識のないであろうヨハンに断る。そして彼の手からそっと鞄を取った。
中には様々な道具類が詰まっていた。マッチやら黒塗りの小箱やら、用途の分からない物ばかりである。布に包まれた干し肉も見つかったが、今の彼に補給させることは出来ない。
鞄の中には、医療道具はなにひとつ見つからなかった。特に持病はないのだろう。
「……失礼しました」
鞄の口を閉めて彼の枕元に置いた。当然のようになんの反応もない。
ポタポタと水滴が落ちる音。風が遠くで反響する微かな音。静寂といって差し支えない。
寂しさと焦りが心を覆いつつあることに気が付いた。
旅の同伴者は意識不明の状態で、小部屋の外には危険極まりない魔物。こんなときこそヨハンの軽口が必要だった。どれだけ馬鹿にされても構わないから、目を覚ましてくれと祈る。
しかしながら、彼の目は開かなかった。微かな呼吸だけが生命の継続を示している。
ふと、廃墟での一件を思い出す。ケロくんの反響する小部屋にかけられて己を失ったわたしを、ヨハンは救ってくれた。そのときの言葉が、どうしてか耳の奥にはっきりと蘇る。あのときはぼんやりと聞き流していたが、彼はどれほど労りのある言葉を投げかけてくれただろう。それに対して、わたしはなにを返すことが出来ただろう。
まだ借りが残っている。それを返すのは今だ――とは思わなかった。彼の意識が恢復したのち、しかるべきときに返さなければならない。
だから、死なないで。
今は祈ることしか出来なかったが、明日になれば大仕事がある。もしヨハンが引き続き目を覚まさなければ洞窟を通過し、大虚穴を登らなければならない。勿論、彼を背負ってだ。しかも、この毒瑠璃の洞窟には異様に巨大化し、独自の戦闘手段を持ったスライムがいる。奴が出現したのはまだ夜にならない時間帯だったはず。すると、あのスライムも昼夜問わず活動可能な魔物ということだ。
ヨハンを背負ってスライムから逃げ延び、洞窟を突破する。そしてどこまで続いているか分からないような階段を延々と登っていくのだ。
やり遂げてやる。でなければ、ヨハンに恩を返すことすら出来ない。
呼吸を整えるべく、長く息を吐いた。
今後のことは一旦整理できた。
「ごめんなさい、マッチをもらうわ」
念のため断ってからヨハンの鞄を開け、マッチ箱を取り出した。そして机の上のランプに火を灯す。
燈心が湿っているようでなかなか点かなかったが、何本目かのマッチでようやく灯りが移った。彼の鞄にマッチ箱を戻し、その顔をランプで照らす。相変わらずの青白さと濃い隈。骨ばった顔付き。いつもより青白い……のだろうか。分からない。普段通りかそうでないかの判断すら出来ない自分を悔しく思った。
ヨハンはそのまま寝かせておいて、机へと歩み寄る。椅子に腰かけて、ぐるりと周囲を見渡した。
休憩所。ヨハンはそう言っていた。すると、わたしたちのように正規の手段でハルキゲニアに入ることの出来ない人間が使う場所なのだろう。あまり頻繁に使用されている形跡はなかった。
机には引き出しが上下に二つついていた。気まぐれに上段を開くと、一冊の紙束があった。紐で括られた粗い造りである。
取り出してランプの灯りに照らす。随分と傷んだ紙だった。どうやら手記のようである。
『今は亡きハルキゲニアについて、まず記す』という序文からはじまっていた。
気を紛らわすためではなかったが、一枚一枚読んでいった。
手記によると、以前のハルキゲニアは家督政治とそれを補う議会によって自治を行っていたらしい。都市防衛を担っていたのは四人の魔術師であり、それぞれ東西南北に別れて夜毎に襲いくる魔物を討伐していたという。魔術師の信頼は厚く、議会の席も与えられていた。魔術師たちは領主の次に発言力が強く、物事によっては彼らの意見が市政に反映されることもあったようである。
魔物についてもいくつか触れられていた。東西南北それぞれに主となるような魔物がいたらしい。それがキマイラ、ラーミア、ルフ、そしてキュクロプス。
そこまで読み進めて、ぞわりと背を這う感覚があった。この地方に来て以降、どの魔物にも遭遇している。主と呼ばれるくらいだから『最果て』ではそれほど数は多くないはずだ。にもかかわらず、わたしはその全てと遭遇している。
疑問は一旦掘り下げず、読み進めた。
五年前に当時の領主が病に倒れて逝去。急遽その息子がハルキゲニアの最高権限を握ることとなった。家督政治とはいえ、補助機関である議会があるので市政は保たれていたらしい。真偽のほどは確かではないが、魔術師たちは皆良識を持って政治の席に就いていたので、がらりと変化が起こることはなかった、と。
領主が亡くなって暫くしてから、その息子は結婚したらしい。それも、ハルキゲニア出身ではない者と。
手記によると彼女はハルキゲニアの北、海峡を船で渡った先の森――『鏡の森』と呼ばれる場所らしい――で倒れているのが発見されたのだという。そのとき保護された人間は二人。息子の将来の結婚相手と、青白い不健康な青年。二人は実に奇妙な存在だった。『鏡の森』には住民はおらず、その先の岩山も同様である。そしてハルキゲニアで二人の姿を見た者はいない。いかに奇妙であろうとも置き去りにするわけにはいかなかったという理由で二人を保護したらしい。
その後、女性と領主の息子は親しい付き合いを重ね、いよいよ結婚かと噂されはじめた折に領主が亡くなり、代わって息子が父の座についたらしい。
亡き領主の息子が結婚して暫くすると、議会に彼女が加わった。彼女の強い要望により一席、かたちだけ設けられたのだという。
はじめはニコニコと意見を聞いているだけだった彼女が、ある機会から発言力を強くしていったのだと手記には記されていた。
その頃、ハルキゲニアでは外交上の課題が持ち上がっていた。以前から『最果て』全体と広く交易関係を結んでいたのだが、交易馬車が盗賊たちに襲われる事件が多発していたのだ。
そこで彼女は早期に交易を停止し、都市内部だけで産業を完結させることを提案した。しかし、それは魔術師たちによって一蹴されたらしい。そこで彼女は代替案として交易相手を絞ることを提案した。いくつかの都市のみと貿易をおこない、交易馬車にはそのぶん手厚い護衛をつければ盗賊たちも手を出せないのではないか、と。これも魔術師たちは是としなかった。『最果て』全体で富を分かち合い、相互に発展していく必要がある、大局的にはそれが最も益が多い、そして文明的だ、と。
議会が紛糾するさなか、ハルキゲニアに疫病が広まった。狂ったように呻いたり、他者を傷付けたりする異様な症状と皮膚の変色。原因追及をおこなっていくと、皆、ある町との交易品である食料を口にした直後に倒れたという。
息子の妻は、議会で声高に叫んだという。これは交易相手が生産品の提供に窮して、質の悪い食料を送ったためだ、と。傷んだ食品を口にしてもこんな症状は起こらない、と魔術師は反論したが、疫病の発生理由については沈黙するほかなかった。そんな魔術師を糾弾するかのように、彼女は交易停止を再度提案した。魔術師たちは「他の議員も我々と同様、そんな提案に乗ることはない」と告げたのだが、意想外にも、魔術師を除く全議員が彼女の提案を受け入れたのである。それでも魔術師たちは反対を続けたのだが、数は権力に勝る、という理屈によって可決された。
交易を停止してからというもの、ハルキゲニアは元の平穏な都市に戻ったという。発症者は隔離病棟で息を引き取ったらしいのだが、それ以降同様の症状にかかる者はいなかったらしい。
それから彼女は、次々と閉鎖的な案を提出した。交易停止によって盗賊問題と疫病問題の解決を見た以上、議員から批判の声は上がらなかった。魔術師たちが唯一の抵抗勢力と化していただけである。
それから少しも経たないうちに、魔術師のひとりが魔物によって殺された。それを受けて彼女は「魔術師のみではハルキゲニアは立ち行かない」と叫び、都市防御壁の建造を提案した。その頃は彼女の意見なら多少強引な案であっても通るようになっていた。魔術師たちは亡き領主の息子を説得にかかったが、頑として拒絶されたという。ハルキゲニアはもはや彼女の力なくして成立しないとさえ、彼は考えているようだった。
都市防御壁建造の指揮は、彼女と共に『鏡の森』で保護された青年が担うことになった。彼に魔具製造の力があるとして。現に彼の指揮のもと、防御壁には魔力による魔物除けの磁場が施された。魔術師たちはそんなもの到底維持出来ないと言い張ったのだが、そこで彼女は次の提案をした。『アカデミー』を設置し、そこで魔術師の育成を行う。そして彼らの魔力によって防御壁を維持する、と。魔術師たちは猛反対した。それも当然で、魔力を供給出来るようになるまでは相応の研鑽が必要であり、それだけの年月をかけても都市をぐるりと覆うような防壁の維持は不可能だ、と。
――確かに、と思う。王都でも部分部分に魔道具を埋め込んで防衛の一助としているのだ。壁全面を覆う魔力など、魔術師が百人いても足りない。
手記によると、それでも彼女は強引に推し進めたのだという。議員や市民は魔術に対する理解が薄い。そして魔術師の発言力は弱まっている。だからこそ、彼らの語る真実はまるで卑屈な反論のように捉えられてしまったのである。
彼女は市民を大量動員して、防御壁と『アカデミー』を同時並行で建設していった。また、その頃から各地の子供を集める事業も始まったのだという。孤児を中心として『アカデミー』で育成する目的である。それが『ユートピア号』に至るというわけだ。
強行軍で建築された防御壁と『アカデミー』は、一年後には稼働するようになったらしい。その間、壁の魔力を維持する一時的な装置を置く名目で荘厳な城も建てられた。
魔術師たちは失敗を予見して市民に訴え続けていたのだが、防御壁が稼働したその日、彼らの地位は地に落ちた。壁は都市を遺漏なく守ったのだという。近寄るグールは消し飛び、主と呼ばれる大型魔物は防御壁に近寄ることすらなかったとのことだ。
苦痛の籠った筆致で、手記は振り返っている。『その防御壁は完璧であり、魔力維持装置である城から配管を通して万遍なく魔力が行き渡っていた』と。『その仕組みは想像することも出来ないが、我々の敗北には違いない』とも。
防壁が造られてから数日後に都市内部で殺人が起こった。犯人は外部からハルキゲニアに移住した人物である。彼女はその男を処刑し、都市外部の悪意ある人間に対しても防衛手段を持たなければならないと叫んだ。
既に議会は形骸化しつつあった。魔術師たちがなにを言っても相手にされず、亡き領主の息子は彼女の言いなりである。ただ、そのときから彼に変化が起きたという。
ある晩、息子は防壁の外側にある魔術師の小屋を訪れ「彼女はもしかしたら間違っているのではないか」と疑念を打ち明けたのだという。魔術師は彼と手を組んで議会で発言することに決めた。
翌日の議会で彼女は、諸国の有力な兵士を集めて防衛軍を形成する案を提示した。そこに息子と魔術師と、ある議員から猛反対の声が飛んだ。しかし、彼女は退かなかった。そして、現在最も地位のある息子が反対するならば議会内部のみで決定するのはナンセンスとし、市民に決定を委ねるべきだと提案した。
市民の間には亡き領主を慕う声が聴こえていたし、その息子を支持する存在も多かった。魔術師たちは勝利を確信し、その提案に乗ることにした。彼女は加えて、こうも言ったという。負けた側が議会を去り、今後一切政治に関与することは禁ずる、と。魔術師たちにとっては願ってもない言葉だった。
その晩、ハルキゲニア内の時計塔から住民投票の告示が行われた。広域放送用に作成された魔道具がそこに設置されていたからである。この道具の使用に関して、魔術師は異論を示さなかった。それは単に声を届けるのみの作用しかなかったからだ。その翌日に投票、そのまた翌日に開票されたという。
結果として九割の市民が彼女を支持した。魔術師たちは愕然と膝をついたという。投票前日の晩、領主側への支持を約束した有力市民までも彼女に賛意を示していた。一夜で市民の頭が丸ごと入れ替わってしまったように感じた、と手記は語る。
そしてハルキゲニア防衛軍――『騎士団』が結成された。それとともに、息子と彼女は正式に離婚し、家督政治の交代を告げた。
その日から毎日のように政治に関する放送が拡声器から流れた。はじめは政策に関するものだったのだが、やがてそれが彼女を讃えるものに代わった。外界を憎み、ハルキゲニアを礼賛する。そしてこの魔術都市の頂上に君臨する彼女――その頃から、彼女は『女王』を自称しており、周囲も違和感なくそう呼んでいたという――を愛さなければならない、と。
亡き領主の息子はハルキゲニア内の貧民街区に追いやられた。
『騎士団』の戦力が明確に整った頃、彼女――女王は魔術師たちにある取り引きを持ちかけたという。
曰く、現在は防御壁もあり、魔物を引き寄せるだけの魔術師は邪魔でしかない。なんの功績も残さないなら存在意義が皆無だ、と。そして三人の魔術師それぞれに告げた。『騎士団』に加入するなら居場所を与えてもいい、と。それは女王への服従を意味していた。
そこからは一層苦々しい筆致で書かれていた。
魔術師のうちひとりは軍門に下り、残り二人は拒絶した。結果、女王は魔術師それぞれの小屋を焼き払って門外に放り出したという。ハルキゲニアからの追放だ。
そこで全ては終わらなかった。更にそのうちひとりの魔術師は門の突破を目論んで騎士団と戦闘になり騎士団長を任ずる人物――『帽子屋』と呼ばれているらしい。妙な名前だ。――に殺されたという。その魔術師は逆賊として処理され、女王のプロパガンダに利用されただけだった、と。
手記はこう結ばれていた。
『最後のひとりは消沈のままハルキゲニアの地下に潜り、いつ死ぬともしれない惨めな生活をしている。地下空間はハルキゲニアの貧民街区と繋がっており、近々そこへ行って対抗勢力を整えなければならない。
出発は早いほうがいい。そうだ、今夜でも構わない。
こんな長い手記を遺した理由はたったひとつだ。もし私の命が途絶えることがあるとすれば、以前の、精神的な豊かさを湛えた魔術都市を偲ぶ人間がいなくなってしまう。それは大変な損失である。だからこそ遺す必要があった。
誰がこんな陰鬱な地下に訪れるだろう、という感覚は確かにある。
しかし、遺さずにはいられなかった。もしこの手記によってハルキゲニアが昔の健全さを取り戻してくれるなら、私の命なんて消えて構わない。
それでは、もう行こうと思う。後悔はない。死ぬことがあるとしても本望だ。
過去の遺物 老魔術師 レオネル』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒塗りの小箱』→ヨハンの所有物。用途不明。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『廃墟での一件』→第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」参照
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。詳しくは「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」にて
・『反響する小部屋』→ケロくんの使う洗脳魔術。詳しくは『65.「反響する小部屋」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて




