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103.「毒瑠璃とスライム」

 息を呑む。


 水辺に生息する無害な魔物――スライム。その生態系に関しては未だ未知の部分が多く、魔力の(かす)を取り込んで成長するとか、湿気を吸って膨れるとか、そもそも魔物ですらないとか。どの研究論文でも曖昧な扱われ方をしている存在。


 それが目の前で巨大に成長した姿をさらしている。その薄水色をした半透明の身体は仄灯(ほのあか)りを照り返してぬらぬらと輝いている。よく見ると、その肉体の内部は(もや)のようなものが渦巻いていた。


 スライムの内部に靄とは、これいかに。


 スライムはじわじわとこちらに接近してくる。走らなければすぐにでも追いつかれそうだ。


 ヨハンは背後に迫るスライムを見てはいなかった。前方を睨み、顎に手を当てている。なにをしているのだ、この男は。


 ヨハンの肩をはたいて振り向かせる。すると、その目はぎょっと見開かれた。「なんですか、あれは」


「多分スライムよ。考察はいいから逃げましょう」


「え、ええ……」


 この妙な危機に直面しても、ヨハンはなにか別のことを気にしているようだった。


 足場は湿地よりも悪かった。岩はところどころぬめっている。何度か(つまづ)きかけたが、姿勢を持ち直して駆け続けた。


 振り向くと、スライムも速度を上げてこちらへ向かってきている。じき追いつかれてしまいそうだ。


 丁度、前方に横穴が見えた。


一旦(いったん)湖から離れましょう!」


 ヨハンは聞いているのか聞いていないのか(さだ)かではない。返事はなく、額に汗を浮かべている。


 様子を見ていると、案の定ヨハンは直進しようとしたので腕を掴んで横穴に引き込んだ。


 横穴はずっと奥へと続いているようだった。助かった、行き止まりじゃない。


 スライムの様子を見ると、奴は穴に蓋をするようにみっしりと入り口を塞いだ。そしてじわじわと穴の中へ侵入してくる。


 スライムには骨もなければ筋繊維もない。従って押し込むように身体のかたちを調整すれば狭い通路であっても侵入することも可能、というわけだ。ただ、奴の移動速度は随分と落ちている。逃げ切るなら今がチャンスだ。


 ヨハンは、ともすれば足を止めてしまいそうな雰囲気だった。


 彼の腕を引っ張って駆ける。一体どうしたというのか。毒瑠璃の煙でも吸い込んだとでもいうのだろうか。


 ふと、嫌なイメージが頭を駆け巡った。その想像はあまりにも不穏で、出来ることなら気付きたくはなかった部類の閃きである。


 スライムの体内に見えた靄。あれは毒瑠璃を溶かした際の毒ガスではないだろうか。それを内部に蓄え、獲物を引き込んで毒で弱らせる。それから先はじわじわと栄養素を吸収する……。


 我ながらおぞましい想像だ。しかし、妄想と一蹴することは出来なかった。


 スライムは攻撃手段を持たない。確か、研究論文のひとつにはスライムを切断したレポートがあったはずだ。そこにはなんと書かれていたか。『真っ二つになったその肉体が蒸発するまでに検出できたのは、微弱な酸のみである。』そう書いてなかったか。


 通常のサイズのスライムが微弱な酸を持つとすれば、巨大になればなるほど酸の量は増えやしないだろうか。そして体内に毒瑠璃の欠片を取り込み、長い年月をかけて溶かしていく。ある時点でそれは猛毒を噴出し、ゼリー状の肉体に充満する。そうなれば全身が凶器だ。


 他の魔物に蹂躙(じゅうりん)されることなく、すくすくと成長したスライム。その事実を(かんが)みれば、わたしの想像は確かな現実感を(ともな)って焦りを(あお)った。


 倒すことの出来ない魔物だ、奴は。サーベルの刃を入れようものなら噴出した毒ガスであっという間に絶命だ。


 なら、逃げる以外の手段はない。


「休憩所はスライムが侵入出来るような造りになっていないでしょうね!?」


 ヨハンはやはりぼんやりと答えた。「ええ、大丈夫です」


「自分で走れる?」


「走ります」


 腕を離すと、やっと彼はまともな速度で駆けた。この危機にあって心ここにあらずとは。今までの彼の(たたず)まいから考えると随分珍しいことだった。


 走りながら思う。この狭隘(きょうあい)な横穴はどこまで続いていて、果たして通り抜けることは出来るのだろうか。行き止まりをイメージして、背が凍った。


「……知っていたらでいいんだけど、この道って行き止まりじゃないわよね?」


「さあ。横道に()れたことはありませんし、あんなデカいスライムに遭遇したこともありませんでしたから……」


「もし行き止まりだったら、どうすればいいかしら……」


「まあ、そのときは諦めるしかないでしょうね。お陀仏(だぶつ)です」


 自分の軽率を呪った。けれど、あのまま直進していたらいずれ追いつかれていた。湖を泳いで対岸へ渡るという選択肢もあっただろうが、咄嗟(とっさ)の判断は出来なかった。ラーミアのように水中でも活動出来る魔物はいくらでもいるし、水棲魔物は昼夜問わず活動する種が多いと聞く。どの選択をしてもリスクは避けられないというわけだ。


 スライムは遥か後方で、(いま)だにこちらを目指して進んでいることが音で分かった。粘度の高い不快な音は絶えることがない。


 幸運なことに、やや広い空洞に出ることが出来た。スライムの体積よりはずっと広い空間だ。そこからいくつか別の横穴が空いていた。


 立ち止まると、ヨハンは後ろで荒い息を吐いた。


「ねえ、大丈夫?」


「私は大丈夫ですが……。どうもおかしいんです。なんでこんなことになっているのか……」


「一体あなたはなにを気にしているの?」


 ヨハンは返事をせずに首を横に振った。答える気がない、というわけか。相変わらず強情だ。


「……いいけれど、倒れる前にひと声かけなさいよ」


「私が倒れるわけないでしょうよ」


「強がり言わないで。……まあいいけど、どの道に進めば大空洞に戻れるかしら?」


「方向としてはこちらでしょうね」と言ってヨハンは横穴のひとつを指さした。


 後ろからはスライムの接近音が聴こえる。のんびりしている暇はない。


「行きましょう」


 先導して駆ける。すぐ(そば)までスライムが来ているのが音で分かった。


 空洞を突っ切って横穴の入り口まで来たところで、嫌な音がした。振り向くと、わたしたちが抜けた穴からもりもりと膨らむスライムがいたのだ。


 思ったよりも早く追いついてきた。一刻の猶予(ゆうよ)もない。


 急いで横穴に入って少し駆けたところで、足が自然と止まる。


 おかしい。ヨハンの靴音がしない。


 振り向くと、横穴の入り口で倒れたヨハンが目に映った。そして、彼に迫るスライムも。


 考えるより先に身体が動いた。咄嗟にヨハンまで駆け寄る。


「ねえ、大丈夫!?」


 返事はない。目は閉じている。呼吸はあるようだったが浅い。


 その長身を背負い、なんとかスライムに追いつかれる寸前で逃げることが出来た。そのまま湖を目指して横穴を駆ける。ランプを置いてきてしまったことに気が付いたが戻ることは出来ない。


 ヨハンは気を失っているようだった。なんの反応も返さない。そのくせ鞄はしっかりと握っているのだから執念深い奴だ。


 どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からなかった。毒瑠璃の煙にあてられたのなら、わたしも無事ではないはずだ。すると、別の理由が必要である。


 疲労だろうか。それとも、なにか特殊な病でも(わずら)っているのか。


 考えても仕方がない。


 ヨハンを背負って走り続ける。それがハンデであることには代わりなかったが、彼の身体はびっくりするほど軽かった。もっとしっかり食べなさいよ、と今更ながら心配になる。


 このまま休憩所とやらまで進むしかなかった。しかし、場所は分からない。「近付けばすぐに分かりますよ、お嬢さんなら」とヨハンは先ほど言っていた。その言葉を信じるしかない。


 背後にはスライムの接近。背にはヨハン。全身に汗が噴き出す。全力で駆けなければ、横穴を進行するスライムにさえ追いつかれる。


 背に心臓のリズムが伝わる。ヨハンの鼓動は随分と静かだ。奇妙なくらいに。


 その理由や、訪れるかもしれない結果からは必死で目を逸らした。考えると足取りが乱れる。


 やがて大空洞に戻ることが出来た。しかし、足を止めるわけにはいかない。すぐそこまでスライムは迫っているのだ。


 湖に沿()って走り続ける。途中で足が滑って倒れそうになったが、なんとか持ちこたえた。


 背後でずるずるとスライムが接近してくる。振り向く余裕すらない。今どのくらいまで迫っているだろうか。音から判断するに、五メートル、いや、四メートルくらいか。数分で追いつかれるに違いない。そうなれば、わたしもヨハンもスライムの胃の中だ。毒を肺いっぱいに吸い込んで、意識が消える。そして半透明の揺り籠で徐々に身体を失っていく。


 息が切れそうだった。それほど長い距離を走っているわけではなかったが、焦りや心配で呼吸が乱れているのが原因だろう。冷静さを失えば体力も加速度的に消費されていく。魔具訓練校時代、繰り返し叩き込まれた常識だった。それが今になって思い出される。『どんな状況でも冷静であれ』と教官は何遍(ねんべん)も叱咤したのである。まだその境地に至っていない自分を思うと悔しくなった。


 スライムはすぐそばまで来ていた。あと二メートル弱といった距離だろう。


 幻想的な仄灯りの中で、別種の灯りを感じた。それは視覚を通して()ているが、決して共有出来ない類の光――魔力だ。


 力を振り絞って駆ける。わたしとスライム。この距離を縮めさせてはいけない。


 しかしスライムも速度をあげたらしく、ずるずるという音はやはり一定の距離から聴こえ続けていた。


 足が痛む。転倒間際(まぎわ)で変に踏ん張って(こら)えたせいだろう。喉は乾き、鼓動は早鐘のように打っている。それでも意識を保ち、全身を駆動させる。走れ。走れ。走れ。


 そこは確かに小部屋だった。入り口はぽっかりと穴が開いており、それを(ふち)どるように魔力が感じられる。


 入り口付近で足を滑らせ、わたしとヨハンは転がり込むように小部屋に入った。呼吸が乱れ、視界がぶるぶると震える。部屋の入り口にはスライムの半透明の肉体が見えた。


 来るな、来るな、と念じ続ける。ここで奴が侵入してきたら全ておしまいだ。わたしもヨハンも命はない。


 やがて入り口からスライムが消えた。


 そして奴の音が徐々に徐々に遠ざかっていく。ずるずる。ずるずる。ずるずる。


 助かった……のだろう。気付くと、頬に熱い涙が流れていた。魔物から逃げ去って安堵(あんど)の涙を流すことなんて随分久しぶりの経験だった。


 身を起こし、ヨハンを見る。彼はやはり身じろぎひとつしなかった。呼吸は浅い。


 ベッドがひとつ、壁際に寄せてある。他には簡素な書き物机と椅子。机の上にはランプとインク壺、そして羽ペンが残されていた。


 ヨハンを抱え上げ、ベッドに横たわらせる。


 脈は間遠(まどお)い感覚で、それでも確かに打っていた。止めどなく流れる涙は、やはり安堵からだろうか。自分でもよく分からない。


 それからは声を(おさ)えて泣き続けた。彼の耳に届かぬように。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。



・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて


・『毒瑠璃(どくるり)』→瑠璃に良く似た鉱物。毒性あり。詳しくは『96.「毒瑠璃と贖罪」』にて

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