幕間11.「靴を舐めろ!」
養子になるか?
はい、よろこんで。
この爆弾発言をバーンズ卿が聞き流すはずがない。たとえ冗談であったにせよ、彼にとっては許しがたいやり取りだったのだ。精神的に矮小な人間は、自分を傷付ける可能性のある刃を見つけるや否や、目を血走らせて逆襲に走るものである。そうした反応は往々にして過剰であるものだが、この場面における激怒は適切だったろう。なにしろオブライエンとドゥネ卿の振りかざした言葉の刃は確実にバーンズ卿の喉元を狙っていたのだから。
『無礼にもほどがある! ドゥネよ! 冗談だろうとワガハイの膝下の者を養子にするなどとよく言えたな!!』
ご愛敬ご愛敬。私とオブライエンはバーンズ卿に忠誠を誓った覚えなどさらさらないが、彼にとってはそう見えていたのだろう。一年間で金貨五千枚の約束など果たせるわけがないのだから、いずれ額を地面に擦り付けて許しを乞うと思っていたに違いない。当時の私としても同じ認識だった。
『オブライエン……さすがに冗談が過ぎるぞ。撤回してバーンズ卿に謝るんだ』
ははは……今やなにも教えていない仮初の家庭教師がお説教をしている。しかしこのときの私にとっては妥当な反応だろうね。
金貨五千枚を稼いで領地を取り戻すという遠大な目的を考えるなら、バーンズ卿の機嫌を損なうなど悪手でしかない。実現の可能性がほとんどないにせよ。
『どうして謝る必要があるんだい、先生。僕は今日からドゥネさんの養子だ。先生も一緒にこの家で住もうじゃないか』
『ラルフ君だったか……そうするといい』
まるで悪い夢だね。バーンズ卿は我慢しきれなくなったのか、椅子を倒して立ち上がってしまったよ。そして、口から泡を飛ばして喚いている。
『誰の許可があってそんな馬鹿げたことをほざくのだ!! ワガハイは許さんぞ!!』
『バーンズさん。落ち着いて話をしようか』
見たまえ、オブライエンの微笑を。なんの陰もない表情だ。グレキランスを出る前は廃人じみた姿だったのに、なんとまあ、おぞましいまでの変わりようではないか。
『オブライエン、貴様……自分の立場が分かっているのか?』
『もちろんさ、バーンズさん。僕はラガニアに魔術を学びに来た書生さ』
『違うだろうが!! 貴様は一年で金貨五千枚を稼ぐためにここまで来たのだろう!! 貴様の間抜けな親父が医者に借りを作ったことが原因でな!』
『ああ、そうそう。そんな話もあったね。実のところ僕は、それだけの金貨でグレキランスをバーンズさんから買うつもりだったんだ』
『はん! 馬鹿なことを! たとえ何千枚の金貨を積まれても領地を手放すわけがない!! やはり貴様は田舎の小僧の視点しか持っておらんようだな! ……いずれにせよ、ここでワガハイの顔に泥を塗った罰を受けてもらおう。今ここで土下座し、ワガハイの靴を舐めるのだ! さもなくばグレキランスが納めねばならん食糧を今すぐ三倍にするぞ!!』
確かこのときの私は、やりきれない苦痛を感じていたはずだ。火に油を注ぐオブライエンをどう窘め、バーンズ卿の怒りをどうやって鎮めようかとばかり考えていた。
『バーンズ卿、どうかお許しください。オブライエンは混乱しているだけなのです』
『ラルフ!! 貴様もどうせグルなのだろう!? この薄気味悪い白髪男と組んでワガハイを侮辱しようとばかり――』
『滅相もない! 私はバーンズ卿を侮辱するつもりなど毛頭ございませんし、オブライエンだってほんの冗談で――』
『先生、僕は冗談なんて言ってないけど』
『オブライエン! 頼むから大人しくしていてくれ!』
いやはや、見苦しいね。失敬失敬。
しかしながら、人間の必死な姿とは大概見苦しいものなのだよ。
『小僧!! ワガハイの靴を舐めろ! 故郷がどうなってもいいのか!? あの馬鹿な兄は貴様を恨むだろうなぁ!? あの貧相な母は、間抜けな親父の後を追って首でもくくるだろう!! すべては貴様のせいになるのだぞ!! ……最後のチャンスだ。土下座し、許しを乞い、ワガハイの靴を舐めろ。そして二度とこのような悪質な冗談は口にしないと誓え!』
バーンズ卿は怒り心頭だ。なんとしてでもオブライエンに謝罪させようとしている。それも、徹底した服従を伴う謝罪がなければ決して収まらないだろうね。
そんな激怒を前にして、オブライエンがなんと言ったか。
『靴を綺麗にしたければ自分で舐めればいいさ』
終わったと思ったよ。本当に。
『グレキランスに私兵を送れ! 今すぐにだ! もし課税を受け入れなければ反逆者として殺せ!』
いやはや。なんとまあ速やかな決定だ。室内に控えていたバーンズ卿の従者はみんな大慌てで行ってしまったね。主人から即刻グレキランス行きを伝えられたのは、なんとも不幸なことだ。こんな夜中に出発するだなんて。
すまないね、視界が揺れて。駆け出そうとしたのだよ。しかし、腕を掴まれてしまった。
『どこへ行くんだい、先生』
『離せオブライエン! 私は連中を止めるんだ! あの素晴らしい土地を無茶苦茶にされてたまるか!!』
これは私の本心だよ。あの豊かな土地を守るためなら、私はなんだってするくらいの思いだった。
『ありがとう、先生。僕は幸せだ』
『……なにを言ってるんだ、オブライエン』
『先生。そしてバーンズさん。さあ、テーブルに戻ろう。まだ話は終わってないからね。夜も長いし』
『もうすべて終わっている!! 馬鹿げたことを言うな小僧! もう貴様の顔など見たくない!』
『バーンズさん。僕は親切心で言ってるんだ。さあ、座っておくれよ』
オブライエンはわざわざバーンズ卿の倒した椅子を直し、彼を引っ張って座らせてしまったね。オブライエンに触れられた途端に物理的な抵抗の素振りがなくなったのだから不思議だ。いや、不思議ではないか。どうせ魔術を使ったのだから。
『なにを考えているか知らんが、もうなにもかも手遅れだ! ワガハイの手下がどれほど有能か分かるかね? すでにグレキランス行きの馬を走らせていることだろう!』
『じゃあまずは、有能なお仲間の様子を見ようか』
壁に丸く映し出された光景は、バーンズ卿の従者の視線をトレースしたものだ。いつの間にオブライエンは視界をジャックしたんだろうね。いやはや、恐ろしい男だよ。
バーンズ卿の言った通り、私兵たちは馬で街を駆けている。
確かにバーンズ卿の従者は優秀だ。つい先ほど命令が下ったというのに無駄なく行動に移しているのだから。きっと主が命令を撤回したようなことはほとんどないのだろう。
そら、門が見えるだろう? あれが首都ラガニアの内外を隔てている。
誰か立っているね。
『あれは……ドゥネ、貴様の手下か?』
『いかにも……』
『はん! 貴様なにを考えている!? こうなることを見越してでもいたか!?』
『その通り……』
『お前は底抜けの馬鹿だな! オブライエンなんぞに肩入れして! 貴様は爵位を剥奪されるぞ!』
『剥奪……? なぜだ』
『馬鹿め! 今ワガハイの向かわせている私兵どもは領地への命令を帯びている! つまり、それを阻むことは領地侵犯とも言える! 王室に告げれば即刻罰が下るだろう! たとえ同じ貴族であろうと、ほかの貴族の領地への侵犯は最大級の罪だ! 爵位も領地も兵を持つ権利も、なにもかも没収されることだろうよ! この邸も例外ではない! ハハハハハ!! 貴様は明日から宿無しだ! 乞食め!!!』
『それは常識だ……貴族として当然心得ている……。領地侵犯は大罪……。実行せずとも、意思を示すだけで罰則を受ける……』
『なら貴様の私兵はなんのために門前で棒立ちしているのだ!? ただの見送りか!?』
『ああ、見送りだ……』
壁にご注目。今まさに馬は足を止め、バーンズ卿の従士がドゥネ卿の従士を詰問している。
音がないのがなんとも残念だね。
なにやら揉めている様子だ。今にもバーンズ卿の従士が切りかかりそうな雰囲気さえある。
おや、ドゥネ卿の従士が笑顔を浮かべたね。そうして、ほっとした調子で座り込んでしまった。しかし、バーンズ卿の手下どもはそれどころではない。今に視線が反転するぞ。
そら。
『なぜ近衛兵が……?』
バーンズ卿は驚いているね。まあ、当然だ。私だって驚いた。
どうしてこの場に、王城の警備を司る近衛兵がいるのかと。
そしてなぜ、バーンズ卿の従士を取り囲んだのかと。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域。今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




