102.「毒瑠璃の洞窟」
ぺたぺたぺた、と階段を降りていく。一段一段が粗く不揃いな造りになっているので、踏み外さないよう注意が必要だった。天井は低く、横幅も狭い。落盤でも起きようものならひとたまりもないだろう。
鼻腔に広がるのは、埃と黴の臭い。
ヨハンはどんどん降りていく。もう一時間は経ったろうか。
「どこまで降りるの?」
「どこまでも……ってのは冗談です。もうじき大空洞に出るでしょうね」
「大空洞?」
「大広間みたいなもんです。地下水で湖が出来ていますから、いくらか爽やかな場所ですよ」
爽やか、と言われても想像が出来なかった。湿った髪と服。延々と続く狭苦しい下り階段。ランプは階段の終わりまでは照らしてくれない。どうにも今の気分では地下の湖や広々とした洞窟をイメージしづらかった。
ふと思う。外は夜にさしかかっているだろうか。
「洞窟にも魔物は出るのかしら?」
「出ます。グールもいれば子鬼だっている」
「じゃあ夜通し歩き続けるわけ?」
ヨハンは首を振って否定した。「いえ、洞窟内に休憩所がありますからそこで一晩休みましょう。小部屋くらいの大きさでしょうかね」
「魔物の群に襲われたらどうするの? 鉄の扉でもあるのかしら?」
またもヨハンはかぶりを振って否定する。「扉はありません。ただ、入り口に魔物除けの細工がしてありますからご安心ください」
細工、か。それがどれほどの効力を持つのだろう。
あまり肯定的な想像を働かせることは出来なかった。
「……じゃあ、今夜はあなたと小部屋で過ごすの?」
「そうなります」
わざとらしくため息をついてみた。
「わたしが可憐な乙女だってことをお忘れなのかしら?」
「可憐な乙女かは知りませんが、年頃の女性であることは理解していますよ。しかし、やむを得ない状況です。それに、私が妙なことをしようものなら切り伏せるでしょう?」
「勿論」
「なら下手なことはしませんよ。一晩一緒にいることくらい我慢してほしいものです」
仕方がない。我慢して眠るほかないだろう。
寝姿を見られるのは嫌だったが、これまで一緒に旅をしている。言葉で示したほどの嫌悪感はなかった。相変わらず信用ならない男ではあったが。
「お」とヨハンが声をあげた。何事かと思って前方を見ても、ランプの光が届く範囲には全く変化が見られなかった。不揃いな階段と低い天井。そして階下の闇。
「どうしたの?」
「坊ちゃんたちがようやくアカデミーに到着したみたいです」
そうだ。ヨハンはノックスに二重歩行者をつけている。彼の状況は逐一把握出来るのだろう。
「随分遅かったわね」
「ええ。ずっと馬車の中に閉じ込められていましたから。使者が事務手続きでもしていたのでしょう」
「ところで、二重歩行者は表に出て動いているの?」
「まさか」とヨハンは笑う。「坊ちゃんの影の中で待機させています。詳しく周囲の景色が見れるわけじゃありませんが、おおよその状況は掴めますよ」
ヨハンが二重歩行者の潜伏箇所を告げるのはこれがはじめてだった。信頼されているのか、それとも口が滑っただけなのか。どちらもしっくりこない考え方だった。それよりも、実は虚言を吐いていると考えるほうが自然な気がする。
「……ダフニーでのわたしや廃墟でのケロくんにも、影に仕込んだのかしら?」
「ええ、そうですよ。全く気付かなかったでしょう?」
「そうね。多分、今同じことをされても気付けない」
本来感知出来る魔術に気付かないとなれば、巧妙に隠蔽されているわけだ。アリスとの視覚共有を隠すためにケロくんが隠蔽魔術を使用したように、ヨハンも自分自身の魔術を気付かれないように細工をしているに違いない。
だとすると感知するのは難しい。少なくとも、今のわたしにとっては。
そう考えると、ヨハンは呆気なく真実を語っているのかもしれない。どうせ察知されないのなら、と。
小狡い奴だ。
「お嬢さん。長い長い階段もようやく終わりですよ」
階下にはごつごつした地面が広がっていた。冷えた空気が下から流れてくる。
「ようやく底に辿り着いたのね」
「ええ。そこの横穴を出れば大空洞です」
ヨハンが指さした先――その横穴を出ると思わず足が止まった。息を呑む光景が広がっている。
巨大な空洞。先まで見通すことは出来なかったが、遠方には地下水の溜まった湖が広がっている。高い天井からは幾本もの岩が針のように垂れ下がっており、そのひとつひとつが仄かに青く明滅していた。
「一応、宝石の一種ですね」ヨハンは天井を指して言う。「光っているのは虫です。詳しくは知りませんが」
「……アオホタルよ」
「アオホタル? なんですか、それは?」
「特定の鉱石に集まる昆虫よ。アオホタルは無害だけど、鉱石のほうは有害……」
ハイペリカムの村を思い出す。そして、狂気的な衝動を持った初老の女性のことも。
「ああ、なるほど」とヨハンは得心したように頷いた。「毒瑠璃ですね」
「ええ。これだけの量を見ることはなかなか珍しいでしょうね」
天井一面に下がった毒瑠璃。ハルキゲニア付近か、あるいは『最果て』全体が毒瑠璃の一大産地なのかもしれない。だからこそ、ドローレスは破滅の時を想って毒瑠璃なんてものを用意出来たのだろう。
「しかし、お嬢さんは博識ですねぇ。学者みたいだ」
歩き出してから、ヨハンは感心するように言った。本当に感心しているのかどうかは分からない。ただ、いつもの嫌味な口調ではなかった。
「暇さえあれば王都の図書館に行ってたから……」
「友達がいなかったんですか?」
「……湖に落とすわよ」
ヨハンは肩を竦めておどけて見せた。「ご勘弁を」
「わたしは騎士として知識を持つのが重要だと考えたから図書館で勉強したの……! 幅広く色々と。一見無関係に思えても、ふとしたところで魔物との戦闘に役立ったりするんだから……! それに、友達がいないことと図書館通いは関係ないでしょ!」
「あ、やっぱりいなかったんですね、友達」言って、ヨハンはニヤニヤと笑う。
その背を思い切りはたいてやると、「あいたぁ!」とわざとらしい悲鳴をあげた。
「冗談ですって、すみませんでしたよぉ。……大丈夫、私もご承知の通り友人なんて少しもいませんから」
ヨハンはケラケラと笑った。あなたの性格なら当然でしょうね、と返そうかとも思ったがやめた。どうせ不毛な応酬がはじまるだけだ。
「まあまあ、機嫌を直してください。折角の美人が台無しですよ」
「あなたが魔物に襲われても絶対に助けてあげない」
ひええ、とこれまた演技じみた悲鳴をあげるヨハン。口の減らない男だ。
湖の向かい側に休憩所がある、とヨハンは言った。具体的な場所については語らず「近付けばすぐに分かりますよ、お嬢さんなら」とだけ告げる。追及する気も起きない。
「休憩所で一泊した後は湖に沿って進みます。途中で岩壁に阻まれますが、湖自体は続いていますから、迂回しても湖沿いに進めば問題ありません。湖の途切れた場所に横穴が空いていますから、それを通れば次の場所に出ます」
「次の場所?」
「大虚穴と呼ばれる場所です。真っ直ぐ上へと伸びた筒状の空洞ですよ。その周囲を削って階段が掘られていますから、それをひたすら登ります」
下った以上登ることは予想していたが、それでもげんなりした。一時間以上かけて降りた場所を登るとなると大仕事だ。
「登りきったところに扉がありますから、そこに入ります。それからまた暫く進めば目的地到着、というわけでさあ」
「ハルキゲニアに入るためにこんな苦労をするなんて思わなかったわ。後出しの説明どうも」
「事前に伝えていたら正門を無理やり突破しないとも限らないでしょう?」
確かに、一度は交渉するだろう。それで門番が通してくれるならいいが、そう上手くいかないからこそヨハンはこの面倒な道を辿っている。いや、道と呼べるものではない。
不意にヨハンが立ち止ったので、思わずその背にぶつかってしまった。
「ちょっと、どうしたの?」
「いやぁ、少し不穏な感じがしまして」
どういうこと、と訊ねる前に背後の音に気が付いた。
粘度の高い巨大な物体が、その身を引きずりつつこちらに接近しているような、そんな音。
ずるずる、ずるずる。
振り向くと、一瞬思考が止まった。
それは家屋ほどの大きさの、巨大に成長したスライムだった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『二重歩行者』→ヨハンの魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『毒瑠璃』→瑠璃に良く似た鉱物。毒性あり。詳しくは『96.「毒瑠璃と贖罪」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて




