幕間2.「奇跡」
健康的でやんちゃなスタインと、内気だが利発なオブライエン。二人の魔術教育は私――ラルフの赴任翌日からはじまった。
どちらに手を焼いたかは言うまでもない。諸君の目には今、茶革のソファに寝そべった黒髪短髪のスタインと、同じソファの隅にちょこんと腰かけている雪のような白髪と赤い目を持つアルビノのオブライエンが映っているだろう。ソファの前のテーブルには魔術の基礎について記された書物が二冊、教科書代わりに置いてある。もちろん、出立前に私がラガニアで用意した物だ。ページに刻まれた細々とした文字を熱心に読むオブライエンに対して、スタインは見向きもしない。ひどくつまらなさそうにしていたかと思えば、突然オブライエンの脇を足蹴にしたりする。
ほら、今に蹴るぞ。
『ん!』
『痛っ。……やめてよ、スタイン』
双子の兄にちょっかいをかけられるときのオブライエンは、いつもこんな顔をする。嬉しさ半分、遠慮半分。そして決まって上目遣いに私を見るのだ。
この頃のオブライエンは、兄がかまってくれるというだけで嬉しかったに違いない。なにせ私が家庭教師として来るまでは、スタインは外で遊ぶことが多かったし、当然友達だってたくさんいた。オブライエンはというと、アルビノゆえ日光を浴びることが出来ず、したがって兄と一緒に外で遊べない。いつも家にいて遮光カーテン越しに外界を眺める生活だ。
もちろん、そんな彼に対して使用人たちは優しかった。メイドはいつも彼を気にかけているようで、引っ込み思案なくせに好奇心の強い性格を知ってか、『坊ちゃん遊びましょ』なんて年若なメイドが誘うこともしばしば。庭仕事を任されている年配の男は、彼のために花を摘んできてやったりする。
ウェルチ氏も奥様も、オブライエンを気の毒に思っていた。酒を呑むとウェルチ氏は決まって私を自室まで呼び込み、『オブライエンは可哀想な子だ。きっと長生きも出来ん』だとか『昼の世界に身の置き所がないなんて、まるで生まれてきたことが刑罰ではないか』などと繰り返して涙を流したものだ。温和な顔付き通り、感傷的で押しつけがましいところのある男なのだよ。
おや、スタインがついに嫌になったようだね。出ていってしまった。
『スタイン、駄目だよ! 先生に怒られるよ! ……ああ、行っちゃった。ごめんなさい、ラルフ先生』
『いや、いいのさ。気にしないでおくれ。君も疲れたらいつでも休んでくれてかまわない』
『ううん、僕は勉強する』
殊勝な子だよ。こういうところがメイドたちの心をくすぐるのだろう。ははは……失礼、少し嫌なことを言ったね。
『よし、それじゃあ続けよう。魔術を使う方法はいくつかあるが、もっとも一般的なのは自分の魔力を消費し、それを魔術として発現する方法だ』
『僕にも魔力があるの?』
『……もちろん。誰の身体にも魔力が宿ってるのさ。量はそれぞれだけどね』
このときの私の顔を見せてあげられないのが残念だ。
この瞬間、私はひどくばつの悪い気分になっていたのだよ。理由は単純だ。
オブライエンの身体からは、ほとんど魔力が感じられなかったからさ。兄のスタインのほうが魔力的に恵まれていたし、もっと言えばメイド長のアンジェラがもっとも豊富な魔力を持っていた。
オブライエンは、ラガニアの魔術学校では入学すら断られる程度の魔力しかない。残念ながら素質なしだ。一生かかっても魔力球ひとつ出せやしない。
『魔術って、どんなことが出来るの?』
どうだい。彼の赤く充血した目の輝きは。希望に溢れた好奇心とは、このことだ。
『色々出来るよ。物を移動させたりだとか、水を生み出したりだとか』
『外に出られるようにもなる?』
『あー、そうだな……。君次第かな』
未熟者、と若き日のラルフ君を叱りつけてやりたくなるね。言葉に困惑が滲んでしまっている。思ってもないことを口に出すときは、むしろ堂々とするのが得策なのだ。
実を言うと、ウェルチ氏が家庭教師を呼び寄せたのはそもそもオブライエンのためなのだ。魔術によって彼の先天的な不幸を取り除くことをウェルチ氏は期待していたらしい。半年ほど経った頃に打ち明けてくれたよ。
日光を克服する方法として、いくつかの魔術的可能性は事実として存在したが、残念ながらどれも子供に扱える代物ではない。日光の刺激から肌や視界を守る程度であれば、防御魔術を繊細に組み上げれば実現出来る。ただしそれを常時施すには無意識下で魔術を操る術が求められるわけで、年端もいかない子供にはどうすることも出来ないのだ。そうした背景を簡単に説明すると、ウェルチ氏は当然のようにがっかりし、また、当然のように寂しく笑った。それでも家庭教師を解任しなかったのは、その頃の私が二人の子供にとって年上の友達みたいになっていたからだろう。
さて、思い切って半年後まで時間を進めてみよう。私が子供や使用人たち、そしてウェルチ氏やその奥様、あるいは町の人々の信頼を勝ち得た経緯を見せたい気もあるが、それは本筋ではないからね。
重要なのは、私の味わった驚きと期待だ。
さあ、暗転ののち、緞帳を上げようではないか。
『ラルフ先生、見て!』
邸の廊下を歩いていた私は足を止める。時刻は夜明けで、まだ朝食係のメイドが目覚めた頃だ。窓越しに、遠くの山並みが赤紫に染まっているのが見えるだろう。
朝食前に外でも散歩しようと考えていたのだろう。当時の私はなにかと散歩が好きだったのだ。田舎の空気は半年経過してもまだ新鮮に感じられ、このままこの地でのんびりと生涯を過ごすのも悪くないとまで思っていたほどだ。
そんな私に声をかけたのが誰か分かるね?
振り返ってみよう。
そう、オブライエンだ。
視界がやや大きくなったのが分かるかね? 目を見開いたのだ。理由は単純。
『オブライエン……どうやって魔力球を……』
『えへへ。頑張って練習したんだよ。パパにも見せてあげるんだ。――あっ! 消えちゃった……』
耳を澄ませてみるといい。心臓の音が聴こえるだろう?
徐々に早く、強くなっていく鼓動だ。
諸君は魔力をほとんど持たない――つまりは魔術師としての才能のない人間が、どうにかして魔術をかたちにする瞬間を見たことがあるだろうか。
私はあとにも先にも、この奇跡を起こした人間を知らない。努力ではどうにもならないからだ。
オブライエンは紛れもなく、特別なものを授かっていた。魔力を創造するとでも言えば、その途方もなさを分かってくれることと思う。
『オブライエン』
途方もなく巨大な奇跡を前にして、私は心の底から興奮していたのだよ。だからこんなにも声が震えている。
そして、こんなにも皮肉なことを口走ってしまう。
『君は世界一の魔術師になれるよ。きっと』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域。今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』




