幕間1.「家庭教師ラルフ」
これはグレキランスのはじまりとラガニアの終わりの話である。
また、仲の良い兄弟の話であり、悲劇の始点とも言える。
神話ほど遠大ではないものの、貪婪さにおいては勝るとも劣らぬ。
グレキランスにおいて葬り去られた真実の歴史であり、筆者の個人的な懺悔録でもある。
今、諸君らは途方もなく広がる闇のただなかで、この声を聴いていることと思う。諸君らは時間の消失した空間を漂う聡明なる一対の眼差しだ。
さて、それでは記憶の旅をはじめようではないか。
光あれ。
今、諸君らの目に映っている石畳の町並みは、王都と呼ばれる以前のグレキランスである。見ての通り当時は国などではなく、単なるひとつの町でしかなかった。
戸数はおよそ三百。レンガ造りの家々から分かるように、貧しくもなければ取り立てて豊かでもない町。人通りが少ないのは、皆、昼は町外れの広大な農園に出て汗水を垂らしているからだ。町人は大部分が農民で、町長とその家族、そして使用人だけが例外だ。
今ご覧いただいている道は、グレキランスを東西に貫く中央通り――と言えば聞こえはいいが、見ての通り幅広ではあるものの飾りっ気が無く家並も間遠いので、さぞかし殺風景に感じていることと思う。道の向かって左手に、鉄柵で仕切られた邸宅があるだろう。それが町長の住まいだ。町長夫妻、双子の息子、使用人五人。総勢九名が寝食をともにしている。
町長は穏やかで無欲な男だった。今ちょうど戸口から出てきた恰幅のいい紳士が見えるだろう。あれがグレキランス町長のウェルチ氏だ。しもぶくれの呑気な顔が示す通り、突出した才を持つ男ではない。ただひたすらに寛容で人好きのする人間だ。
さあさ、町長殿に挨拶をしておこうじゃないか。過去の事実に則って。
『ご機嫌よう、ウェルチさん』
『やぁ、こんにちは。君が、頼んでいた教師かね? 名前は――なんといったかな』
『ラルフと申します。本日からお世話になります』
『失敬失敬……ラルフ君。こちらこそ息子をよろしく頼むよ。長旅でお疲れだろう?』
『いえ、風の魔術で空を飛んでまいりましたので、体力はむしろ有り余っています』
家庭教師ラルフ。今諸君らは彼の瞳を借りて万事を見ている。庭木から芝、そして邸へと移りゆく視線は彼の関心に基づいているのだ。
ラルフについて、少々の説明が必要だろう。
彼は、この町の遥か遠方にあるラガニア国の中央都市からやってきた魔術師だ。町長であるウェルチ氏の求めでね。なんでも、息子に魔術を学ばせたいらしい。
この頃のグレキランスはラガニアの領地として扱われている田舎町だ。中央から定期的に訪れる使者を通じて、町長は種々雑多な要請を送ることが出来る。ウェルチ氏はその権限を使ったわけだ。
ラガニアにとってグレキランスは、距離の関係もあって辺境と見做されている。大量の農作物を納めているため、町長からの要請があれば一応のところは中央で検討する運びになっているものの、決して重要視されてはいない。
本来、家庭教師の派遣などという要請は却下されるのが妥当である。というのも、中央の人々はもっぱら、田舎者に学問など不要と考えていた。なかでも魔術は高等な学問とされていたため、なおのこと不要論は強い。しかしながらラルフが赴任したのは、彼自身の要望によるものだった。ちょうど彼が魔術学校を放逐されて、今後の身の振り方に困っていたという背景もある。
『住み込みで三年契約だったか。君には期待しているよ』
『ははは……ご期待に沿えるよう、頑張ります。ところで息子さんはどちらに?』
『今呼んでこよう』
使用人を使えばよいものを、ウェルチ氏はなんでも自分でやろうとするところがある。あるときなど、庭木の剪定をやりたいと言い出した彼を、メイドたちが苦笑いをしながら見守っていたことがあった。
どうだろう、聞こえるだろうか。今まさにウェルチ氏はメイド長にたしなめられている。耳を澄ましてごらん。
『旦那様、ご令息はわたくしが呼んでまいりますので、どうぞ楽になさってくださいまし。家庭教師様のご案内もわたくしめがいたします』
『それでは私はなにをすればよいのだ』
『旦那様は、お部屋で寛いでくださいまし。ひと通り邸をご案内してから、旦那様のお部屋にご挨拶に伺うようにいたします』
『私が案内しては駄目なのか? これから一緒に住むんだから家族みたいなものじゃないか』
『では、家長として奥に控えてくださいまし。どうかわたくしどもの仕事を奪わないでくださいますよう、お願いいたします』
『ふむ。お前がそう言うなら仕方ない。どれ、家内と散歩にでも行ってこよう』
『そうしてくださいまし。ただ、くれぐれも農民の方々のお手伝いに精を出してはいけません。彼らには彼らの領分がございますから、視察にとどめてくださいますよう、お願いいたします』
『あい分かった。日暮れには戻るようにしよう』
お分かりいただけただろうか。万事、ウェルチ氏はこの具合なのだ。だからこそ愛される。
『家庭教師様。どうぞ、お入りになってくださいまし。まずはお茶でも飲みながら、ご令息との顔合わせを』
さあさこれから邸のなかへ、というところだが……気付いただろうか。メイド長に呼びかけられたこの瞬間にはもう、ラルフはすでにウェルチ氏の息子と顔を合わせていたのである。
まず屋根にご注目。膝小僧を出した釣りズボンの、十歳に満たない程度の子供が、じっとこちらを見下ろしているのが分かるだろうか。そして二階の窓の端からは、こっそりと好奇心旺盛な目が覗いている。ラルフはそのどちらにも気付いていた。
屋根の上の子供は、双子の兄スタイン。溌溂とした性格がピンピンと跳ねた黒の短髪に表れている。あの家庭教師をどうやってからかってやろうかと、今から楽しみで仕方ないという顔をしているじゃないか。微笑ましい限りだ。
それとは対照的に、窓の子供は明らかに控えめな性格だ。しかし物事への興味や熱意はこちらのほうが強い。のめり込めば寝食を忘れて熱中してしまうという性格が、動きの少ない瞳に表れていると思わないかね?
こちらが弟のオブライエンである。
もちろんこのときのラルフは、のちに兄弟がラガニア国の崩壊を呼び込むとは思いもしなかった。この牧歌的な地方で、穏やかな雇用主のもと、のびのびと仕事が出来るとしか考えていなかったのだよ。
応接間に通されたラルフは、ご覧の通り、きょろきょろと視線を移して落ち着きがない。しかし緊張しているわけではないのだ。メイド長が引っ込んだ隙に、応接間の情報を可能な限り頭に詰め込もうとしているだけのことだよ。
漆塗りの重厚なローテーブル。革張りのソファ。南向きの窓から差し込む光が、半透明の花瓶と一輪の可憐な花とを照らしている。
本棚は、ない。
ラルフが一度頷いたのが分かったろう。ここには知恵を強いるような、ある種、気詰まりなものはなにもない。以前暮らしていた魔術学校の宿舎と比較して、その気楽さをありがたく感じたというわけだ。
『お待たせしました。お茶をどうぞ。申し遅れましたが、わたくしはメイド長のアンジェラと申します』
『これはこれはご丁寧にどうも……。僕は今日から家庭教師として住み込みで働かせていただきます、魔術師のラルフと申します』
『ラガニアから遥々ご苦労様でございます。ご不便があれば、なんなりとわたくしどもにお言いつけくださいまし』
『いえいえ、そんなそんな。むしろ対等な立場でいたいものです。私は雇われ人ですから』
足音が聴こえるだろうか。廊下をどんどんこちらへ進んでくる、ひとまとまりの音だ。小さな足音がふたつ。それよりもやや重みのある音がひとつ。
『さあさ坊ちゃん、ご挨拶ですよ。お行儀よく出来ますね?』
若いメイドの声に、クスクス笑いがふたつ。
そら、ノックの音がしてドアが開く。
『ご機嫌よう、家庭教師様。こちらが旦那様のご令息――兄のスタイン様と、弟のオブライエン様です』
さぞかし驚いただろう。先ほどは窓の先でよく見えなかったろうが、弟の髪は兄とはまったく違う。雪より儚い白とでも言えば聞こえがいいだろうが、なに、先天的な病なのだ。
知識としてはラルフも知っていたが、実際にアルビノを見たのははじめてだった。
だから随分興奮したものだ。人と異なる性質がどれほど魔術に影響を及ぼすのか、と。
今こうして一冊の書物に記憶を――語りを含んだ懺悔録を――吹き込みながら、改めて思うよ。このときの興奮がすべての間違いの元凶だったのではないかと。
そうそう、ラルフについて語るべきことがあった。
些細なことではあるが、筆者であるこの私が家庭教師ラルフである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域。今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』




