885.「クールダウン」
「どうか落ち着いておくれ、クロエ。冷静な君が一番だ。魔物との戦いだって常に冷静でいなきゃならない。君はいつだってクールに乗り切ってきたじゃないか。いつも通り、今回も冷静に乗り切ろう。ね?」
壁際でシンクレールに諭されているわたし。なんだかひどく情けない感じがするけれど、沸騰した熱はそう簡単には冷めてくれそうにない。
わたしの視線は、もっぱら反対の壁際でこちらを睨むシャオグイと激しくぶつかり合っていた。
あちらでは、ヨハンが宥め役になっている。そのことも気に入らない。
「シャオグイさん。もう大丈夫ですよ。深呼吸深呼吸」なんて、ヨハンが囁くのが聴こえた。そう広くはない部屋だから、微かな声だってキチンと届いてしまうのだ。
わたしとシャオグイに詰め寄られてすぐ、ヨハンはシンクレールの助けを求めたのである。どうにもこのままではヒートアップする一方なので、わたしを押さえつけるように指示したのだ。自分はシャオグイをなんとかするから、と。
かくして、この状況に至る。
「いやぁ、びっくりしたよ。まさか君があんなに取り乱すなんてね。でも、実は少し嬉しくもあるんだ。新たな一面を見るのはいいものだからね。あ! 変な意味じゃないから誤解しないでくれよ?」
先ほどまで素っ裸で椅子にされていた男に、わたしは慰められている。優しい言葉の数々をありがとう。でもかなり複雑な気分だ。
「もう大丈夫よ、シンクレール。というかずっと冷静だったからなんの問題もないわ」
そう、わたしは冷静だ。
「あれで冷静とか、ホンマ都合のいい記憶力してはるなぁ? 姉はん、トロールの頭といい勝負どすぇ?」
「は?」
立ち上がりかけて、ぐっと肩を押さえられた。華奢なのに、シンクレールはなかなか力が強い。いや、本気を出せば簡単に振り払うことが出来るのだけれど、彼がそうやって押さえてくれたおかげで、多少は衝動が収まっていった。
「シャオグイさん。あまり煽ってはいけませんよ。お嬢さんはゾラを倒すほどの実力者ですから、貴女といえども危ないわけです」
「そら却っておもろいわ。地面に額擦り付けて泣きながら謝りはるまでやったろかぁ?」
「シャオグイさん。私は淑やかな女性が好みです」
「ほんならぴったりどすぅ。ウチ、メフィストはんのためならもっともっとお淑やかになれるんどすぇ?」
……あちらのやり取りを聞いていると、どうにも神経が逆立ってしまって駄目だ。
落ち着こう。
冷静に、冷静に。
深呼吸を繰り返しているうちに、段々と気分がまとまっていった。
シャオグイのほうもようやく落ち着いたのか、もうわたしを睨んではいない。
「大丈夫かい、クロエ」
「ええ、おかげさまでなんとか」
にっこりと笑顔を作って見せる。うん、大丈夫。すっかり元通りのわたしだ。
「さてと、そろそろ地上に戻りましょう」と、ヨハンがわたしへ呼びかける。
すると――。
「嫌やわぁ。ウチ、メフィストはんと一緒やないと眠れないんどす」
「少しの辛抱ですから」
「我慢したら、ちゃぁんと可愛がってくれはるぅ?」
「それは、そのときのお楽しみです」
「いやぁん、いけずぅ」
なんだろう。またムカムカしてきた。
おっと、いけない。冷静に冷静に。まずは拳を解こう。
「シンクレールはここに残るの?」
「まあね。一応約束だから」
「ふぅん。……嫌なことされそうになったら、ちゃんと抵抗するのよ」
「ははは……ご心配ありがとう。大丈夫だよ。僕は子供じゃないんだから」
力なく笑うシンクレールが心配だ。彼のことだから、また素っ裸で椅子にされるんじゃなかろうか……。それを思うと、ゾラとの会合がはじまるギリギリまでここにとどまっていたい気もする。ああ、でも、また喧嘩になったら時間を忘れて怒鳴り合う可能性も否めない。情けないことだけれど。
ふ、っと息を吐き出して立ち上がる。そして、ちょうど目が合ったヨハンに頷きかけた。
地上に出ると、思わず吐息をついてしまった。
青々とした新鮮な空気が鼻に心地よい。荒んだ心がみるみる癒されていくような、そんな感覚になる。
ルドベキアの空を覆う濃い枝葉――そこからぽつぽつと下がる『森ぼんぼり』の明滅が、まるで星屑のように見える。地上はというと、緩やかに舞う『ニセホタル』や、わずかな衝撃で発光する『灯り苔』によって、これまた幽玄な光の演舞が展開されていた。なかば自然に侵食された遺跡が広がっていて、中心のあたりにはひとまとまりの青白い輝きが見える。『黄金宮殿』だ。
リリーの作り出した地下空間はルドベキアの末端に位置していたようで、宮殿までは随分と離れていた。
「会合までに間に合うかしら」
「いざとなれば文字の魔術を使いますよ。『もうすぐ到着するからちょっと待ってて! クロエより』と」
軽口を叩いて肩を竦めるヨハンに、なんだか苦笑が出てしまう。
昼になれば、『緋色の月』および『灰銀の太陽』の主力を交えて今後のことについて取り決める運びになっている。
『灰銀の太陽』側の代表として、わたし、ヨハン、デビス、サフィーロが出席する予定だ。ハックが出ないのは、すでに彼の役割はほぼ終了しているかららしい。これ以上ハックに余計な負担をかけないよう、ヨハンが根回しをしたんだとかなんとか……。
『緋色の月』側の出席者は聞いていないけれど、おおかたの想像はつく。ゾラはもちろんとして、オッフェンバックとミスラが出るかどうかだろう。
とまあ、ちょっと真剣なことに思考を向けてみたわけだけれど、どうにも集中して物を考えられない。それもこれもシャオグイのせいだ。
せっかく二人きりでこうして歩いているわけなのだから、聞きたいことを聞けばいいのに、とは思う。でも、やだ。なんか気にしてるみたいじゃないか。さっきは言い合いみたいになってついつい止まらなくなってしまっただけであって、他人の色恋なんてわたしには無関係だし。
「ふふ」
隣から、こらえきれず溢れ出したような笑いが聴こえた。
「……なにがおかしいのよ」
「いえ、なんだかさっきのお嬢さんを思い出してしまいまして」
「あれはシャオグイに乗せられて引っ込みがつかなくなったのよ」
あんなふうに言葉をぶつけ合ったのはいつぶりだろう。もしかするとはじめてかも……。そう思うとひどく恥ずかしい。騎士として規律正しく過ごしていた昔のわたしからすれば、信じがたい行動だろう。
「なにか質問があればどうぞ」
「特にないわ」
「本当に?」
ヨハンは狡い。まったくもって嫌になってしまうほど狡い。そんな彼を嫌いになれない自分がいることが、なおのこと腹立たしい。
絶対聞いてやるもんか、なんて一瞬思って、待てよ、と思考が立ち止まる。
今はこうして彼と歩いているけれど、いつまた離れ離れになるか分からないじゃないか。ヨハンはいつだって勝手な行動ばかりする。なんの相談もなしにいなくなって、ふとしたときに現れる。
もしかすると、こんなふうに話を出来る時間は思っている以上に少ないのかも……。
「ヨハン」
「なんでしょう」
「あなたとシャオグイは……その……恋人同士なの……? いや、全然興味ないんだけど、なんとなく、せっかくだから、知りたいなー、とか、なんて……」
うぅ。なんだかすごく惨めな気持ちだ。でも、ようやく疑問を吐き出すことが出来て、どこかすっきりしてる自分もいるのだから困る。
ヨハンは隣で薄気味の悪い笑いを漏らした。彼が身の毛もよだつほど不愉快な要素をたっぷり持っているのは今さら驚くことじゃない。むしろ、懐かしささえある。
「彼女と恋人になった覚えはありませんよ」
「あ……そうなんだ。よ――」
んえ。なんでわたし『よかった』とか言おうとしたんだ。わけが分からない。
わたしの失言の断片に、ヨハンは反応しなかった。ひたすら前を向いてゆっくりと足を運んでいる。こちらの歩調に合わせて。
「ただ」
「ただ?」
「誤解させるようなことを口にした覚えはあります」
「詳しく教えて」
ヨハンは少しのタメを作ったのち、べろりと唇を舐めた。
「私が夜会卿に捕まっていた頃の話になりますが――」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『デビス』→剥製となってマダムの邸に捕らわれていた半馬人。現在は剥製化の呪いが解かれ、『灰銀の太陽』の一員としてハックとともに行動している。詳しくは『624.「解呪の対価」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『灯り苔』→刺激を受けると光を放つ苔。初出は『201.「森の中心へ」』『205.「目覚めと不死」』
・『森ぼんぼり』→樹に寄生する植物。樹上から球状の灯りを垂らす。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ニセホタル』→森に住む昆虫。発光しながら飛翔する。詳しくは『201.「森の中心へ」』『205.「目覚めと不死」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




