884.「鬼人口論」
「見ちゃいけません」
ヨハンの白手袋が、リリーの視界をサッと覆った。ほぼ裸の青年の上に女性が腰かけている光景を見せまいとする教育的配慮はナイスだ。
「メフィスト、なんで隠すのよ!」とリリーが抗議の声を上げながら、ヨハンの白手袋と格闘している。
「目に毒ですから。……シャオグイさん。そこの青年魔術師からどいてあげてください。あと、服を着る許可も与えてあげてくださいね」
リリーはなにやらもごもごと「ワタクシだって立派なレディだもん」だとかなんとか、曖昧な口調で呟いている。
シャオグイはというと、あっさりと立ち上がった。そうして眉を八の字に下げてみせる。
彼女はあっという間に典型的な被害者面を作り上げた。
「メフィストはん、誤解したら嫌どすぇ? ウチ、魔術師の兄はんを苛めとったわけやないどす。どうしてもウチの椅子になりたい言わはるから、しゃあなしで付き合っとっただけどすぇ。そうどすな、兄はん?」
シャオグイの顔が、ぐいっとシンクレールに寄った。そのせいでわたしからは彼女の表情が見えなかったけれど、シンクレールの凝然と見開かれた目から察するに、脅すような顔を作ったのだろう。
一瞬硬直したシンクレールだったが、すぐさま口を開いた。「そ、そうさ。僕は彼女の面倒を見ると約束したからね。生憎この空間には椅子ひとつないからさ、地べたに座らせるのも忍びなくて僕が椅子になると申し出たのさ。し、紳士だからね」
シンクレールは、やたらとわたしにウインクを飛ばしている。本気にしないでね、ということだろう。
分かってる、という意思を籠めて一度だけ頷いてみせた。
「そういうことどすから、誤解せんといてな? な? な?」
シャオグイは困り眉のまま口元に笑顔を浮かべ、ぴょこぴょこと跳ねるようにしてメフィストに近寄った。先ほどの論争のせいだろう、その仕草がなんともあざとくて腹立たしい。
「……分かりました」ヨハンはため息を吐き、首を横に振る。「しかし、どこでなにをしているかと思えば……リリーさんを巻き込んだのはシンクレールさんですか?」
シンクレールは素早くローブを着込み、答えた。「あ、ああ。シャオグイを匿う最適な場所がほかに思い当たらなくてね」
なるほど。メロに案内されてやってきたから気付かなかったけど、ここはリリーがお得意の魔術『陽気な浮遊霊』で作り出した地下空間か。ヨハンはシャオグイを追って、ようやく今ここにたどり着いたのだろう。ここはいわば秘密の隠れ家であって、わざわざリリーが入り口を作るとは思えない。するとヨハンはなにかしらの魔術を使ってリリーに呼びかけて、地上までの通路を開かせたのだろう。
「ふふん!」とリリーが腰に手を添え、胸を張る。すでにヨハンの目隠しは外れていて、彼女の瞳が誇らしげな輝きを放っていた。「アナタがたを快く受け入れたワタクシに感謝なさい!」
そんな彼女の頭を撫で、ヨハンが「偉いですね。信用の出来る大人にひと言相談したら百点満点です」なんて言う。
それに反論したのはシンクレールである。「心外だな! 僕は信頼に足る立派な大人さ! 少なくとも君よりはマトモだと自信を持って――むぐぅ!?」
「やらこいほっぺどすなぁ」シンクレールの頬を片手で挟み込み、シャオグイは愉悦に満ちた声で言った。「ウチの大切なひとを馬鹿にしたら、必ず天罰が当たるんどすぇ? 水甕で溺死した奴もおったし、四肢もがれて道の真ん中に捨てられとった奴もおったなぁ。こわいこわい」
「ぜ、前言撤回」
「兄はんのそういうトコ、好きやわぁ」
にっこりと微笑んでから、シャオグイは満足げに頷いた。
なんとも毒々しいやり取りである。そして腹立たしくもあった。だからだろう、つい口が滑ってしまった。
「ねえ、ヨハン。あなたはシャオグイと結婚してるの?」
「いいえ。なんの話ですか?」
「ううん、なんでもないの」
なにが伴侶だ、やっぱり嘘じゃないか。――なんて勝ち誇った気持ちになったのは一瞬だけである。シャオグイがまさしく鬼のような形相でわたしを睨んでいた。
「さ、リリーさん。向こうの部屋に行っててください」
「なんで?」
「なんでもです」
「また大人の事情ってワケ? ワタクシを子供扱いしないでって言ってるでしょ!」
リリーが、ぷっくりと頬を膨らませた。一方で、わたしとシャオグイの間に横たわった緊張感というか殺気のようなものも、確実に膨らんでいる。少女の頬の愛らしさとは雲泥の差だ。
「聞き分けのいいリリーさんのことが好きですよ、私は。さ、早くお行きなさい。あとでどうなったかちゃんと教えてあげますから」
「むぅ」
「むくれてはいけませんよ」
それからしばらくリリーは無言の抵抗をしていたが、やがて諦めたのか、部屋を去った。
そうこうしているうちにシンクレールは壁際まで退避している。わたしはと言うと、シャオグイの目を真正面から受け止め、同じくらいの熱量の視線を返していた。
一触即発。というか、もはや衝突は免れない気配が存分に漂っている。
「で」ヨハンが飄々と、どうしてか少しばかり楽しそうにたずねる。「なんですかこの状況は」
「シャオグイが嘘をついたのよ。自分がヨハンの伴侶だなんて見え透いた――」
「ぺったんこ姉はんが滅茶苦茶なこと言うてはるだけどすぅ。ウチは――」
同時に捲し立て、同時に言葉を止めて相手を睨む。
もはやわたしは、どうにも抑えがたく感情的になっていた。伴侶だのなんだの、そんなものは些細なことでしかないはずなのに、どうしても退く気になれない。
徹底的にやってやる。それでシャオグイが恥を掻こうがガッカリしようが知ったことじゃない。わたしだって彼女の言葉でそれなりに戸惑ったり傷付いたりしてるんだ。
そして幸いなことに、物事をはっきりさせることの出来る唯一の人物がここにいる。
「ヨハン」彼へと一歩踏み出す。「シャオグイはあなたのことを『火遊びの好きな男』とか言ってたけど、シャオグイとも色々遊んだわけ?」
負けじとシャオグイも踏み出すのが見えた。「正直に言うてええどすよ? ウチにしたこと言ったこと、ぜぇんぶ小娘に分からせてあげましょ?」
「へー。でも今の時点で『伴侶』って言葉が嘘だったって明らかになってるけど?」
「はぁ!? 結婚してへんことと伴侶であることの違いも分からへんのこの泥棒猫は!? 呆れてまうわ。なぁんも知らんぺーぺーの小娘どすなぁ」
「結婚も伴侶も同じよ! わたしのほうが呆れちゃうわ!」
「同じやないどす! おうちに帰ってパパとママに教えてもろたらええんとちゃう?」
「お生憎様! わたしは孤児だから父親も母親も知らないわ!」
「そんなんだから可哀想なオツムになってもうたんどすなぁ!」
「最低!! あんたって本当にデリカシーの欠片もないのね! ひとを思いやる気持ちもないなんて、本当に可哀想な奴!!」
「デリカシーのなさなら姉はんもどっこいどっこいどす! なんなん!? ウチの気持ちも知らんとぎゃあぎゃあ怒鳴って!」
「アンタの気持ちなんて知るわけないでしょ! というか――なんで黙ってるのよヨハン!!」
「そうどす! なんか言わはったらどうどすかメフィストはん!」
急に水を向けられたヨハンは、べろん、と山羊顔から舌を出した。なんともコミカルで、だからこそ煽っているようにしか見えない。
そして肩を竦めて、ひと言。
「面白かったので、つい聞き入ってしまいました」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『メロ』→人魚の族長。小麦色の肌を持ち、軽薄な言葉を使う。口癖は「ウケる」。なにも考えていないように見えて、その実周囲をよく観察して行動している。地面を水面のごとく泳ぐ魔術を使用。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』『746.「笑う人魚」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『陽気な浮遊霊』→周囲の無機物を操作する呪術。リリーが使用。初出は『618.「大人物の愛娘」』




