882.「椅子、または楽器」
『灰銀の太陽』のメンバーは穏やかな空気感のうちに散会した。ハックはカラフルな鳥――ポルカを肩に乗せたままエーテルワースとともに去っていき、シンクレールは急にわたわたとどこかへ駆けていった。
今や前庭は、ぽつぽつと人影が見える程度である。宮殿の放つ厳かな魔力の輝きと、生物的な微光に彩られていた。
一件落着と言って差し支えないだろうけど、すべてが丸く収まったわけではない。
つい先ほどルドベキアを飛び去った翼を思い出す。
『僕たちはこの地を離れようと思う。ここでお別れだ』
目を赤くするハックと、彼を眺めて和むわたしたちに、有翼人の長――アポロはそう告げた。穏やかな空気を損なわない程度に冷静な声で。
『それって――』
『有翼人は灰銀の太陽から抜けるよ。もう樹海に来ることも、人間の土地に姿を見せることもないさ』
口調は落ち着いていたし表情も微笑交じりだったけれど、アポロが口にしたのは紛れもなく絶縁宣言だった。
彼の言葉が悲劇に裏打ちされていることはもちろん分かっている。先ほど目にしたイカロスの姿は、安易な綺麗事を拒絶するだけの説得力があったから。
『またいつか――』
『いつかなんてないんだよ子猫ちゃん。残念だけどね』
いくつかの短いやり取りを最後に、アポロたち有翼人はルドベキアを飛び去った。
アポロの諦めに対してわたしが投げた言葉はどれもちっぽけな力しか持っていなくて、結局のところ彼の決断を覆すことは出来なかったのである。
そうは言っても、これっきりにするつもりはない。いつになるか分からないけれど本当の和解がどこかにあると信じているし、そのために必要な行動はするつもりだ。
すべてを一度に清算しようだなんてのは傲慢で、それこそ別の軋轢が生まれかねない。時間をかけて、ゆっくりと確執を乗り越えていけばいい。わたしは諦めが悪いのだ。
「さて、と」
大きく伸びをすると、様々な匂いが鼻をくすぐった。トロールの臭気、半馬人の野性的な匂い、有翼人の清潔な香り。それぞれの種族の持つ芳香は刻々と薄まっていき、代わりに青々とした自然の香気に上塗りされていく。循環という一語が頭に浮かんで、少しだけ前向きな気分になった。
ゾラとの会合は昼頃と聞いている。まだ少し時間があるけど、どうしよう。
「ギャハハ! だーれだっ!」
急に背後から抱き着かれ、視界が塞がれた。滑らかな感触が背に伝わる。
「誰かしら。うーん。素敵な素敵な人魚さんだといいんだけど」
「なに言ってんのさクロエちゃん。ギャハハ! ウケる」
視界が戻り、ささやかな重みが背中から離れる。振り返ると案の定、人魚の族長であるメロがいた。ひどく機嫌がいいようで、満面の笑みである。小麦色の肌を微光が滑らかに照らし出していた。
「上機嫌ね、メロ。なにかあったの?」
「いいモン見たのさ。ギャハハ! マジウケる!」
「いいものって?」
なんだろう。トラブルの種とかじゃないといいけど。
メロは口元を片手で隠して、やけに意地悪そうな顔をする。
「そういえばさぁ、クロエちゃんとシンクレールちゃんって恋人なの?」
「違うわ」
「即答かよ! ウケる! ギャハハッ!」
違うものは違うんだから、即答もなにもないと思うけど……。
わざわざそんなことを確認するメロがなんだか奇妙だ。もしかしてシンクレールになにかあったとか……?
わたしの不安を察したのか、彼女はわたしの手を取って言う。
「シンクレールちゃんが大変なんだよ。『クロエごめんよっ! 嗚呼! 僕はもう駄目だ!』って。マジウケる」
「それってどういう――」
言葉の途中で視界がぐんと下がった。あっという間に地上と地中の境目を越えて、わたしはメロの作り出した水中世界に引きずり込まれたのである。
見上げると、地上の景色は相変わらず存在していた。
メロの魔術だか能力だか知らないけど、水中世界に沈むのははじめてのことではない。でも、やっぱり驚きはある。
メロはわたしに笑いかけると、手を引いてぐんぐんと泳いでいった。シンクレールのところまで連れて行ってくれるのだろう、たぶん。
身体を濡らすことのない、けれども感触自体は水そのものの液体。それに包まれながら頭を働かせる。
最後に見たシンクレールは奇妙に焦っているようだった。『ぼ、僕は用事があるから行くよ。じゃあまた』と言うや否や、ろくに振り返ることもなく一目散に前庭を去ったのである。
四六時中彼と行動をともにしているわけではないから、個人的な用事があったって別に不思議でもなんでもない。特に樹海に入ってからは完全に別行動だったのだから。問題は彼の焦りと、メロの意味深な言葉だ。なんだかトラブルの匂いがするし、心配するのも当たり前のことである。
直近で思い当たるのは、やっぱりシャオグイのことだ。なんの対価もなく彼女を自由に出来るとは思えない。途轍もなく不利で悪辣な条件を呑んだんじゃ……。
鼓動が強くなっていく。どうか無事でいてくれるよう願って、拳を握った。
「く、クロエ!? み、み、み、見ないでくれ!! お願いだから僕を見ないでくれ!」
「おもろいわぁ。ふふふふふふふ。兄はん、大好きな姉はんに情けないトコ見られてもうたなぁ? どんな気持ちどすかぁ?」
びっくりだ。色々な意味で。
メロは「ギャハハハハハ!」と爆笑しながらシンクレールを指さしている。
メロに導かれてたどり着いたのは、四方十メートル程度の殺風景な小部屋だった。魔力の塊が宙に浮かんでいて、質素な岩肌を照らしている。家具はなくて、細い通路が部屋の隅に空いているだけ。
そんな空間で、シャオグイは足を組んで座っていた。下着姿で四つん這いになったシンクレールを椅子にして。
直視したくない光景なんだけれど、危惧していたような残酷な雰囲気じゃなかったことにほっとしている自分もいた。いや、厳密には呆気に取られているだけだけど。
「ええと……なにしてるの?」
「なにって、見たまんまどすぅ。椅子に腰かけて、のぉんびりしとっただけ」
椅子って。そんなニコニコ言わないでほしい。
「クロエ、お願いだ。見なかったことにして地上に戻ってく――あうっ! なんでお尻を叩くのさ!」
言葉の途中で、ぺちん、と小気味いい音が室内に反響した。
「ええ音どすなぁ。兄はん、楽器の才能もあるんやないどすかぁ? いけずやわぁ。先に言うといてぇな。『僕のお尻はいい音が鳴るのさ、クロエ! ほら!』って」
「やめてくれシャオグイ! 僕の自尊心を玩具にするなんて――あうっ!」
「椅子は喋ったらあかんのやないどすかぁ?」
「でも――あうっ!」
「ふふふふ」
シャオグイ、随分愉快そうだな……。お尻を叩くたびにメロも爆笑してるし。わたしも真顔を保てているか自信がない。
たぶん、こうなっている理由はさっきの決闘騒ぎにあるんだろう。でも、さすがにシンクレールが不憫だ。
「シャオグイ。その……シンクレールが可哀想だから、そのへんにしてくれないかしら?」
「クロエ。これは代償なんだ。同情は、あうっ、いらないよ。だからせめて、あうっ、見ないでおくれ。大丈夫。僕はちっとも、おおうっ、傷付いていやしないよ。君の心遣いが、はぁんっ、むしろ、あうぅんっ、嬉しいくらいだ」
ちょいちょいシンクレールのお尻を叩かないでほしい。頼むから。笑いをこらえるのに必死になってしまう。
「これは兄はんが望んだことどす。だから姉はんの口出しは無粋どすぇ」
「それじゃまるで僕が愉しん――うぉうっ!」
ぺちぃん、とひと際大きな音が鳴る。シャオグイめ、すっかりシンクレールを玩具として気に入っているようだ。
なんとか解放してあげたいものだけれど……。
「ええと、つまり、さっきの決闘というか、お芝居に付き合ってもらう代わりに、シンクレールは椅子と楽器になってるわけね?」
「姉はん、頭よろしおすなぁ。よしよししたげよかぁ?」
「遠慮しとくわ」
「ウチかて嫌やわ」
おや。
シャオグイの目付きと声色が少し変わった。最前の愉快そうな雰囲気とは趣が異なっている。内側にまとまった不満を抱えているような、そんな具合だ。
シャオグイが足を組み替え、シンクレールが少し呻いた。
「せっかくやし直接聞いたろ。泥棒猫はんの言い分を」
そう言って彼女は舌なめずりをする。
真っ赤な舌が唇を、独立した生き物のように這った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『アポロ』→有翼人の族長。金の長髪を持つ美男子。優雅な言葉遣いをする。基本的に全裸で過ごしているが、『灰銀の太陽』に加入してから他の種族のバッシングを受け、腰布だけは身に着けるようになった。空中から物体を取り出す魔術を扱う。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『イカロス』→有翼人の青年。怠惰な性格で、他の有翼人から若干煙たがられている。実は情熱的だが、なかなか素直になれない。『緋色の月』およびシャオグイによって翼を奪われ、道具として利用された。詳しくは『Side Cranach.「毛と翼の捜索隊」』『Side Icarus.「墜ちた翼」』『Side Icarus.「おしまい」』『Side Gorsch.「集落の夜~飛来する異常~」』にて
・『メロ』→人魚の族長。小麦色の肌を持ち、軽薄な言葉を使う。口癖は「ウケる」。なにも考えていないように見えて、その実周囲をよく観察して行動している。地面を水面のごとく泳ぐ魔術を使用。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』『746.「笑う人魚」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『人魚』→女性のみの他種族。下半身が魚。可憐さとは裏腹に勝手気ままな種族とされている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『有翼人』→純白の翼を持つ他種族。別名、恋する天使の翼。種族は男性のみで、性愛を共有財産とする価値観を持つ。年中裸で過ごしている。王都の遥か北西に存在する塔『エデン』で暮らしている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




