100.「吶喊湿原の魔物」
湿気で肌が不快にべとつく。踏みしめる地面は柔らかく、苔のような背の低い下草がまばらに生えている。ひと呼吸ごとに肺まで湿っていくように感じた。
前方で揺れるヨハンの背を見ていると、なんだか自分が死の国に導かれているように思ってしまう。憂鬱な空気に、不健康な男。おまけに不吉な予感が胸に渦巻いていた。
吶喊湿原。ここは大型魔物の縄張りだとヨハンは言っていた。こんな見晴らしの悪い場所で魔物に出くわしたら厄介極まりない。ただでさえ足場が悪いのに、濃い霧で視界まで遮られている。魔物の気配を正確に読み取れば対処も出来るだろうけど、いかんせん集中力が持続しない。ヨハンの揺れる背、もやもやと不確かな視野。自分がどこを進んでいて、それが目的地に近付いているのかどうかも分からない。
気分もまた、それなりの湿度を蓄える。
気晴らしがてらヨハンの隣に並んだ。
「じめじめして嫌な場所ね」
「そりゃあ湿原ですから」
当たり前の返答。ヨハンがなにを思っているのかは知らないが、彼の横顔は相変わらず骸骨じみていて、不吉な雰囲気が漂っていた。
寧ろ、彼にとっては過ごし易い場所なのかもしれない。
そんなくだらないことを考えても気分はちっとも晴れなかった。
「夕方には洞窟の入り口に辿り着くでしょうね」
ヨハンはぼそりと呟いた。
今は昼過ぎだから、残り数時間は歩きづめということだろう。あまり知りたくはなかった情報だ。
「少し不安なんだけど、今は正しい道を進んでいるのよね?」
それが一番の問題だった。景色に変化はなく、ただ真っ直ぐに歩を進めているように見える。
実は徐々にズレているのではないか。もしズレが生じているのなら、それは左右どちらに発生しているのか、どの程度修正すればいいのか。洞窟の入り口に至る方角ではなく、見当違いの方向に進んでいるのではないか。
周囲の眺めに特徴らしいものはない。逆方向に進んでいても全く気が付かないだろう。
ヨハンは呆気ない口調で「大丈夫です。この道を真っ直ぐ行けば洞窟に行き当たります」と告げた。
はて。この道とは。
わたしの目には、道らしい道は一切確認出来なかった。湿った大地が延々と広がっており、目印とするに足る要素はどこにもない。
「どうして大丈夫と言い切れるの?」
ヨハンはニヤニヤと気味の悪い笑いを浮かべる。
そうやって人を煙に巻くといい。いつか足元を掬ってやる。
てっきり教える気がないのかと思ったが、ヨハンは足元を指さした。先ほどから下草がまばらに続いている地面だ。
「道を外れると草なんて見えなくなります。つまり、下草さえ辿って行けばいいだけの楽な道ですよ」
思わず首を傾げた。洞窟までの道に草が点々と続いていると言うが、どうも腑に落ちない。下草なんてそこらじゅうに生えている。
「あちこちに草が見えるけど?」
「あれは草ではないですよ。草胞子は知っていますか?」
書物で読んだことがある。湿度が高く日の射さない、陰鬱な場所に発生する菌類だ。
草胞子は雑草に似た見た目をしている。しかし、分類としてはキノコに近く、雑草に見えるのは子実体である。草と間違えて食した生物の臓器に胞子をばらまくというおどろおどろしい逸話もあった。
目を凝らすと、雑草と比較して表面が肉厚で滑らかなものが道を外れた場所に点在していた。それらが草胞子であり、道を惑わす一因であることは明らかだった。
「草胞子と下草の違いくらいは見抜いてほしいものですなぁ。もしや、騎士様にとって湿原ははじめてでしたかな?」
「もう何度も経験しているわ」
嘘だ。湿地帯を歩んだ経験はない。王都周辺にも湿原はあったが、足を踏み入れたことはなかった。従って草胞子などというささやかで薄暗い菌類については詳しくない。
「疑問なんだけど、どうして洞窟までの道にだけ本物の雑草が生えているわけ?」
「繁殖力がなくて、生命力の強い種類の種を蒔いたんでしょうね。詳しくは分かりません。おおかた、抜け道を作り出した人間の仕業でしょう」
ハルキゲニアへの抜け道、か。もし種を蒔いたのが本当だとしたら、そうまでする理由があったのだろう。往復することを意識して、道を誤らぬように。
「抜け道を作った人間ねえ。どんなならず者なのかしら」
「いやいや、そうとも限りませんよ。悪党でなくとも、なにかから逃げる必要があり、また、必ず帰還しなければならない人間はいくらでも想像出来ます」
「たとえば?」
ううむ、とヨハンは唸った。言葉に詰まるくらいなら言い出さなければいい。
「たとえば……まあ、いいでしょうよ」
全く。ヨハンはどこまでも秘密主義者で困る。教えられることとそうでないことは当然あるだろうけど。
しかし、こればかりは知っておかなければならない。「雑草の種蒔きについては別に教えてくれなくても構わないけど、魔物については詳しく話すべきじゃない?」
そう。この湿原を無事通過するためには、ヨハンに先導されるばかりでは不充分だ。不測の事態を想定しつつ足を前に踏み出す必要がある。脅威についての事前情報はあるに越したことはない。
「昼夜問わず現れる魔物のことですか?」
「そうよ」
ヨハンは歩みを止めず答えた。
「キマイラです。……遭遇することはないでしょうが」
キマイラか。獅子の頭を持ち、胴は山羊、尻尾は蛇に似た魔物である。獰猛で俊敏、おまけに尻尾の蛇は毒牙を持っている。
何度か討伐したことがあったが、ラーミアと同程度には厄介だろう。キュクロプスには及ばないまでも強力な魔物であることに違いはない。
気になったのはヨハンの言葉尻だった。「遭遇することはない、ってなんで言い切れるのかしら?」
ヨハンは困ったように顎を掻いた。
「ここのキマイラは習性が特殊でして、ある匂いに強く惹きつけられるんです。逆に、それ以外のものには見向きもしない」
「ある匂い?」
個別に習性を持つ魔物は存在したが、キマイラも同様だったろうか、と記憶の中で書物を捲る。
思い出すより前にヨハンは答えた。「血の匂いです」
あっけらかんとした口調だったが、随分と異様な言葉だ。魔力に寄せられる魔物は一般的だが、血液に惹かれる魔物は数少ない。吸血蝙蝠くらいだろう。キマイラにそんな加虐的な嗜好はないはずだ。個体別の習性と断じてしまうにはあまりに異様である。
「そんな話、聞いたことないわ」
「そうでしょうね。ここらの魔物は特別なんです。キマイラも勿論ですが、他の連中も。……話すときりがないくらいです」
「きりがなくたって話してほしいわ。今後の道のりに関わってくるもの」
特別な魔物。その言葉で納得出来るほど無知ではない。特殊な性質や行動、あるいは変異が起きているとすれば、そこには原因があるはずだ。
「たとえば、ここのグールは人を襲わない個体もいます」
「人を襲わないグール?」
見たことも聞いたこともない。それはもはや魔物としての在り方とかけ離れている。人にあだなす存在であるがゆえ、人間はそれを魔物と呼んでいるのだ。
「ハルキゲニア近辺のグールは、人を見ると逃げ出す個体もいます。あとは、無抵抗の個体も」
「……なにそれ」
「私だって知りませんよ。異常だと思いますが、その理由が分からない。となると、あるがままに捉えるほかありません」
率直にいって気味が悪い。タソガレ盗賊団のアジトに出現したキュクロプスと同種の異様さだ。
「まあ、キマイラに関しては安心して大丈夫です。傷さえ作らなければ無事洞窟まで辿り着けます」
ヨハンの言葉が真実ならそうなのだろう。しかし、にわかには信じられなかった。
霧の先、キマイラの姿を想像してみる。昼夜を問わず活動し、血液の匂いに目がない。個性で片付けられるレベルではない。キマイラは夜行性であり、血液に関係なく人を襲う。
文献がわたしを裏切っているのか、それともこの土地が異常なのか、判断がつかない。
あるいは、両方かもしれない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。『86.「魔力の奔流」』に登場。
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場。




