877.「好きにさせてもらいます」
前庭の人ごみにざわめきが広がった。動揺の籠った囁きの波が寄せては返す。
エーテルワースが割って入ったのが意外だったのだろうか。だとしたら、彼の正義感を低く見積もり過ぎだ。
人波の中心でハックやアレク、そしてエーテルワースがどんな顔をしているのかは分からない。ヨハンは相変わらずわたしをがっちりと羽交い絞めにしたまま離してくれない。
「エーテルワースさん、下がってくださいです」
「ハック殿。吾輩は一度口に出したことを曲げる男ではない。貴君らと運命をともにする」
ハックとエーテルワースのやり取りが聞こえた。続いてアポロの呆れ声も耳に入る。
「エーテルワース……君は事実を隠蔽したり、一方的な指示を送ったわけではないだろう?」
「無論だ。しかし、こうして勝利を収めることが出来たのはハック殿とデビス殿の働きでもある。たとえ多くの命が失われるほどの失策を演じたとしても、裁かれるほどの悪ではない」
エーテルワースのきっぱりした口調には覚悟が窺える。自分の決断が正しいと確信を持ち、翻すつもりは一切ない。そんな具合だった。
中心で巻き起こっている論争の行方に意識を奪われていたわたしは、反射的に「ひゃっ」と小さく声を上げてしまった。耳元に、ふ、っと吐息がぶつかったのだ。ぞわぞわと悪寒が広がり、同時に恥ずかしさを感じる。
「エーテルワースさんにお任せしましょう。きっと上手くいきます」
ぼそぼそと耳のそばでヨハンの声がする。一音ごとに息が吹きかかるから、もう少し離れて喋ってほしい。本当に。
首を大袈裟に捻り、言い返す。
「もし上手く収まらなかったらどうするの」
「そのときはそのときです。いずれにせよ、お嬢さんは大人しくしていてください。きっと碌なことになりませんから」
ヨハンめ……なんてひどいことを言うんだ。そりゃあ、わたしは考えなしに感情論を振りかざしがちだ。でも今この場に必要なのは論理なんかじゃなくて感情なんじゃないの?
――そんな想いを籠めて顔をしかめたのだけれど、ヨハンはちっともわたしを離す気配がない。
そうこうしているうちに、人ごみの先でヒステリックな声が響いた。
「そ、そいつの肩を持つならお前も同罪だ!! エーテルワース! いかに我々半馬人の友といえども、容赦されると思うな!」
「そうだ! 俺たちは地獄を見たんだ!」
「勝ったかどうかは結果でしかないじゃないか!」
エーテルワースへのいくつかの反論は、アレクの声でもアポロの声でもなかった。おそらく、アレクの後ろに控えていた半馬人たちのものだろう。末端集落で『緋色の月』と戦い、地獄を目にしながらなんとか生き延びたメンバーだ。
彼らの声には怒りと怯えがふんだんに含まれていた。
「吾輩も同罪でかまわない。もとより、運命をともにする覚悟でこの場に立っているからな」
エーテルワースの返答にざわめきが強くなる。
このままでいいのか。なんとかエーテルワースだけでも退かせるべきじゃないのか。そんな困惑はあれど、なかなか行動には移らない類の喧騒だ。
そしてざわめきは、エーテルワースへの同情ばかりではなかった。先ほどの半馬人の主張と同じく『罪人の肩を持つなら同罪だ』なんて声もちらほら聞こえる。
身じろぎをし、背後へと囁きかける。「ヨハン、いい加減離して」
「無茶なことをするつもりでしょう?」
「もちろん。ゾラに勝った人間が味方をすれば、さすがのみんなも矛を収めてくれるはずよ」
はぁ、と露骨なため息が耳を襲う。
「耳に息を吹きかけないで」
「失礼。でも、ため息も出ますよ」
「なんで。こんなの、どうにかしなきゃいけないじゃない」
「ですから、お嬢さんが無理矢理場を収めたとしても遺恨が残るだけなんですよ。ほかの物事ならさておき、多くの仲間の命が失われています。だからこそ徹底的にやらなければ『灰銀の太陽』は瓦解するでしょうなぁ」
別に喧嘩別れでもいい、とまで思う。少なくとも誰かの犠牲で溜飲を下げるくらいならそのほうがマシだ。
「それで瓦解するんなら仕方ないじゃない。そういう運命だったのよ」
「ところが」ヨハンはさらに耳元へ口を寄せる。「そうなると我々が困る」
「どういうこと?」
「……戦力は多いほうがいい」
ヨハンがなにを言っているのか、分かってしまった。
今後王都は血族による大規模な侵攻を受ける。そこで他種族の協力も必要と考えているのだろう。表面上は血族側として戦う『緋色の月』とは別に。
「なんでそう功利的になれるのよ」
「むしろ、なぜお嬢さんは功利的になれないんです?」
耳元の軽口に、思わず舌打ちをしそうになってしまった。なんとか思いとどまったけど。
功利的になりきれないのは性格の問題だ。目の前で命が失われていくということに対して、どうしたって心が動いてしまう。
ただ、ヨハンの考えを頭ごなしに否定することは出来なかった。
彼は大局的に物事を見ることが出来る。少なくともわたしよりはずっと冷静に状況を俯瞰していることだろう。
ただ、否定は出来ないからといって肯定するわけじゃない。
「離し――」
またしても白手袋に口を塞がれた。
しかし、直後わたしは自由になった。パッと身体の拘束が解けて、反射的に『ん?』と思ってしまう。
なんだろう。
そう思って振り返ろうとした矢先、やんわりと肩を押され、わたしは横に数歩よろめいた。
「ちょっと、なに――」
肩を押した主が、わたしの横をゆったりした歩調で通り過ぎていく。紫の着物が、蛍光色の微光のなかで毒々しく映えている。彼女はわたしをちらと見やって、なんとも不機嫌そうに視線を前に戻した。
「シャオグイ……?」
ぽかんとゆるんだ口から、その名が漏れる。
シャオグイの歩みに合わせて人波が割れた。ヨハンとの揉み合いに躍起になっていたせいで気付かなかったけど、彼女はなんとも形容しがたい、肌を突き刺すような異様な気配を周囲に漏らしていた。殺気に近い、ひどく不安定な気配である。
やがて騒動の中心へと通じる短い一本道が出来上がった。物騒なやり取りを繰り広げていた中心人物も含め、誰もが彼女に視線を向けている。
なかでもアポロの目付きはひどく冷ややかだった。
「なに揉めてはるんどすかぁ?」
ガキン、と硬質な音が鳴り、鉄扇が開く。彼女はこちらに背を向けていたけれど、口元に薄笑いが浮かんでいるのは口調で分かった。
「……ヨハン。これは想定通り?」
彼女から視線を外すことなく問うと、思いのほか近くから返事が戻った。
「いいえ。しかし悪くはないんじゃないでしょうか」
「なんでそんなこと言えるのよ。なにを仕出かすか分かったものじゃないわ」
シャオグイのめちゃくちゃさは王都の噂でも、これまでの彼女の行いでも存分に示されているように思う。
このまま放置したら大変なことになるんじゃ……?
「まあまあ、お嬢さんは大人しくしたほうがいいですよ」
「なんでよ」
「より一層めちゃくちゃになりますから」
より一層、ということはすでにめちゃくちゃになりつつあるんじゃないか。
ヨハンの奴、完全に傍観を決め込んでいるに違いない。
「シャオグイさん。今すぐここから離れてくださいです」
少し焦ったようなハックの声が聞こえて、わたしは少しばかり前のめりになった。すぐにも駆け出せるように。
「なんでぼんの言うこと聞かなあかんのどすかぁ? ウチはウチの好きにさせてもらいますぅ」
そう言ってシャオグイはハックたちとアレクたちの間まで進み、ひらりと身を翻した。その口元には思った通りの歪な笑み。しかし、目は決して笑っていなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『デビス』→剥製となってマダムの邸に捕らわれていた半馬人。現在は剥製化の呪いが解かれ、『灰銀の太陽』の一員としてハックとともに行動している。詳しくは『624.「解呪の対価」』にて
・『アレク』→青みを帯びた緑の鱗を持つ竜人。興奮すると鱗の色が変化する。サフィーロ同様、次期族長候補であり派閥を形成している。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『アポロ』→有翼人の族長。金の長髪を持つ美男子。優雅な言葉遣いをする。基本的に全裸で過ごしているが、『灰銀の太陽』に加入してから他の種族のバッシングを受け、腰布だけは身に着けるようになった。空中から物体を取り出す魔術を扱う。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




