874.「若年獣人の長き旅⑫ ~醜い世界の敗北者より~」
『ここは……』
『おお! 目覚めたかタテガミさん!』
ところどころ穴の空いた天井。藁を敷き詰めた寝床。自分を見下ろすキツネ族の男。ゾラは視界に入ったそれらをゆっくりと意識した。
『おぅい! おぅい誰か! 食い物と水を持ってきてくれ!』
男の声にいくつかの返事が戻り、戸外でバタバタと足音がした。何人かのキツネ顔の男女が入り口を覗いては何事か口にして、慌ただしく去っていく。
そばにいるキツネ族の男はなにやら神経質な優しさを見せていたが、言葉は右の耳から左の耳へ抜けていく。意識に定着してくれない。
うつらうつらとしているうちに何体かの獣人が小屋を出入りし、いつの間にやら枕元に干し肉やら水の入った竹筒やらが並んでいた。
『ここはキツネ族の集落だよ、タテガミさん。森の外れに倒れてたアンタをオイラが運んだのさ。いやぁ、目覚めてくれてよかった。オイラ、もうこのまま寝たきりなんじゃねえかと思ったんだ……』
どうやら自分はグレガーの手から逃れたのだろう。
無我夢中で駆けた甲斐があったのは事実だが、生還の喜びなどちっとも感じなかった。
頭に渦巻くのは悪夢のような光景である。王都からの追手を討ったと思った矢先、自分を逃がしてくれたはずの男が立ちはだかった。そうしてひどく打ちのめされ、なかば衝動的に逃げ出してしまったのだ。あれほど身近に死を感じたことはこれまで一度もない。
むくりと半身を起こすと、自分の身体が目に入った。
両の足。腹。右腕。左腕。右の手のひら。そのどれもが粗い金色の毛に覆われている。こうして順番に眺めていると、どうにも奇妙な気分になってきた。
全身から血を流し、まさしく満身創痍の状態だったはずの自分。それがこうしてまったくの無傷でいる奇妙さ。が、疑問は定着することなく解消した。
『幻術か……』
『ん? なんか言ったかタテガミさん?』
『いや、なんでもない』
ゾラは額を押さえ、ため息を吐き出した。
痛みも傷もグレガーの作り出した幻に違いない。しかし、とゾラは思う。しかし、死の恐怖は現実だった。痛み苦しみが存在しないとしても、それによってもたらされた感覚は本物としか考えられない。
『落ち着いたかい、タテガミさん』
『ああ』
『いやぁ、びっくりしたよ。あんなところでタテガミ族が倒れてるなんてよ……。それにしても、どうして森の外れに?』
『特に理由はない。狩りをしていたらつい遠くまで来てしまっただけだ』
本当の理由を律義に話す気にはなれなかった。ゾラにとって樹海の外で過ごした日々はまだ未整理の記憶であり、まだ冷静に話せる類の物事ではなかった。ましてやこのキツネ族の男が理解してくれるとも思わない。理解してほしいとも思っていない。
男は少しばかり訝るような表情を見せたが、すぐにへらへらと脱力した。
『ま、気を付けることさ。アンタらタテガミ族は体格がいいけどよ、それでも限度ってモンがある』
『ああ、気を付ける』
男の恩着せがましさは好ましくあったが、少しばかり幼稚にも見えた。このキツネ族の男は、当たり前だが人間を知らない。連中がどれだけ悲惨な存在か知らない。そう遠くもない距離におぞましい世界が存在しているというのに、こうしてへらへらと笑っていられるのは実に幸福なことだ。決して羨ましくはないが、幸せな在り方には違いない。
『そうそう、アンタが握ってた紙切れなんだけどよ』
『紙切れ?』
『そう、これさ』
言って、男は紐で括られた羊皮紙をゾラに手渡した。
身に覚えのない代物である。王都を出た際ゾラは手ぶらだった。
『これを、俺が握っていた?』
『そうそう。アンタがあんまり目を覚まさないモンだからちょっぴり読んでみようかとも思ったけどよ、ちゃんと我慢したぜ』
へへへ、と男は鼻の下を擦る。そう年少でもない見た目だが、どうも精神に幼いところがあるらしい。
『そうか。ありがとう』
『へへっ。どういたしましてタテガミさん』
『少し一人にしてくれないか? 落ち着いて読みたい』
男はもじもじと興味深そうにしていたが、やがて『了解了解』と呟いて小屋を出ていった。
遠くからキツネ族の会話が流れてくる。喧騒と言うには静かな声。内容までは聞き取れないが、きっと自分のことを噂しているのだろうと合点した。
今は外の状況を気にしている場合ではない。自分が握りしめていたという巻紙。この正体を知らねばならない。
ゾラは慎重な手つきで、羊皮紙を広げた。
『まず、君に謝らねばならないことがある。騎士として徒に傷付けて、本当にすまない。』
一行目を読み、それが誰によって書かれたものなのかはっきりした。
生唾を呑み、続きに目を這わせていく。
『本来、君はすんなり故郷に帰れるはずだった。私もそのつもりでいたのだけれど、生憎、王は恥知らずの大馬鹿者だったようだ。
君を逃がした次の日、捕縛命令が下された。まったくもって錯乱した命令だよ。捕まえるつもりなら逃がす必要などない。要するに王は物事を冷静に見通す眼も、一度は下した決断への誇りもなかったわけさ。
いずれにせよ、私は君を追わねばならなくなった。まさか王都の騎士のうち上位四名を割いてまで躍起になるとは思わなかったが、立場上やむを得ない。我々騎士は身も蓋もなく言ってしまえば、王の手駒に過ぎないのだから。
今、君を追う道中でこれを書いている。ゆえに、この先に記すのは仮定でしかないが、きっと想定通りになることと思っている。
君は三人の騎士を殺す。そして私に敗北し、逃げ出すことだろう。だが、君の爪は私を裂くはずだ。少なくとも一度は。
そして傷を負った私は、君の捕縛を諦めて王都に戻る。
あの獣人には勝てない、少なくとも現状の王都の戦力では太刀打ち出来ない――私はそう報告するつもりだ。さすがの愚王も、とっておきの駒が敗れたとなれば風呂敷を畳む。
だから、君は安心して故郷で過ごすといい。なにもかも忘れて。
君は人間を憎んでいることと思う。無理もない。愚王は極端な腫瘍だが、王都の人々が清らかな存在であるとは言えないよ。私だってそうだ。命令を受けて、君を傷付けようとしている。君が今後手出しされないための説得材料として、三人の仲間を犠牲にしようと考えている。
しかし、私はこうも思っている。君の知る獣人の世界も似たようなものではないか、と。ここ数日君と関わっていて感じた率直な印象だ。人間も獣人も変わらない。ただ、こちら側はどうも君たち異形の種を忌避する下地があるようだ。
今回の一件が向こう何十年、いや、何百年尾を引くかは分からない。もしかすると永遠に我々は相容れないのかもしれない。
お互い報われないね。でも、仕方のないことだと思う。なにもかも諦めて、お互いに別々の世界で生きるべきなんだ。
これを哀しいと思うことも、おそらくは間違いだ。
君が王都で――あるいは人間の世界で経験したすべては、幻だとでも思えばいい。それぞれの世界は分断されていて、決して交わることはない。そう考えてくれ。でなければ血が流れ続ける。今回の一件は不幸な例外ではなく、起こるべくして起こったのだから。独善も偏見も裏切りも、ありふれているんだよ。哀しいことに。
さようなら。
醜い世界の敗北者より。』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『キツネ族』→獣人の一種。読んで字のごとく、キツネに似た種
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




