873.「若年獣人の長き旅⑪ ~幻覚領域~」
遠くで低い音が鳴っている。
長く長く間延びして、途切れたと思えばすぐにまた鳴って。
音に耳を澄ましていると、やがてそれが段々と大きくなり――。
『ガララララララァァァァアアアアア!!!』
自分が咆哮していると知っても、ゾラは抑えようとは思わなかった。身の内が沸騰して、感情が出口を求めて濁流のように押し寄せてくる。
視界は赤々と燃えていて、自分を始末しに来た三人の騎士の姿が陽炎のように揺らいでいた。
身を焼く炎を熱いとは思わなかった。高速の槍に突かれた箇所は、すでに痛みが消えている。雷は今も注いでいるが、痺れすらない。
現実の痛みの数々は、もはやゾラにとって取るに足らない些事だった。
アンナを返せ。そう叫んだつもりだったが、咆哮にしかならなかった。が、雄叫びは確かに彼の力にはなってくれた。
『うぉ!? マジかコイツそんな速く――』
言葉が終わる前に、シュルトの首が飛ぶ。
『嘘でしょ、そんな――』
シュルトの末路に目を奪われたのだろう、イライザは次の標的が自分であることを察してから矢をつがえるまでの時間を稼ぐことが出来なかった。ようやく矢筒に手をかけたところで、彼女の胴に大穴が空いた。
『汚らわしい獣め! 成敗!!』
グレッチだけがゾラの速さに対応出来たものの、放った火炎は獣人の身を焼き尽くすには至らなかった。炎の先から飛び出したゾラがグレッチの首に噛みつき、食い千切る。
ぼとり、と肉片が地に落ちた。
『不味い。食えた物じゃない。俺がアンナを食った……? ふざけたことを……!』
あっという間に出来上がった三体の亡骸を、ゾラは順繰りに、猛烈な憎悪を籠めて睨んだ。
追手を差し向けたのは、きっとあの最低最悪な王に違いない。だが、どうにも腑に落ちない点があった。
『こんなことになるのなら、なぜ俺を逃がした』
なぜこんな馬鹿げた捕縛劇をしなければならなかったのか。捕まえるなり殺すなりしたいのなら、そもそも逃がさなければいい。
虚しい自問だと思って口に出した言葉だったが、意外にも返答があった。それもゾラの背後で。
『逃がした? 君が逃げたんだろう』
咄嗟に距離を取り、振り返る。
『グレガー……?』
自分を逃がした張本人がそこにいた。
冷厳な無表情。長髪が風に揺蕩っている。
ここ数日でグレガーの姿は見慣れている。が、目付きが明らかにおかしかった。獲物を前にしたときの獣によく似ている。
『気安く私の名を呼ぶな、ケダモノめ』
『グレガー……これはいったいどういうことだ』
答えることなく、グレガーは片手を上げた。すると彼の背後に――まるではじめからいたように――巨人の魔物キュクロプスが現れた。
幻術に違いない。だからこそ、ゾラはその場で呼びかけ続けた。
『どうしてあんたがここにいる? あんたは俺を逃がしてくれたんだろ? もうアンナを救うことが出来ない、俺に出来ることはないって――がっ!』
やがて振り下ろされた巨人の腕が、ゾラの身体を大地に押し潰した。幻覚とばかりに思っていたそれは、確実に現実の痛みを伴っていた。
地に伏したゾラが顔を上げると、すでに巨人は消えていた。グレガーだけが最前同様、冷え冷えとした無表情で佇んでいるばかり。
『逃がした? なにを抜かしているんだ、君は。どうやら私の幻術がよほど効いたらしい。真実を教えてやろう』
グレガーの片腕が下りる。すると、遠方にずらりと黒い影が出現した。それらがタキシム――魔力の塊を弾丸のごとく射出するのを得意としている厄介な魔物――であることはゾラも心得ていた。ただ、一度にこんな数は見たことがない。
タキシムの指先が、一斉に自分へと向くのが見える。それから間を置かず、一気に魔力の塊が放たれた。
立ち上がって回避する時間などない。ゾラは立ち上がりかけた姿勢のまま、全身を撃ち抜かれた。
『君は自ら鎖を破壊し、地下牢を登り、城で暴れたのだ。その末に王妃を攫い、王都を脱した。道中、君が王妃を食料にしたことは農民が証言してくれたよ。なんて惨いことを……』
『嘘、だ……』
『嘘ではない。もし嘘が存在するとしたら、君自身の頭にあるストーリーこそが虚偽だ。おおかた自分の精神を守るためにでっち上げた妄想なのだろう。ところで、妄想のなかで君はヒーローになれたか?』
次々と魔力が放たれ、ゾラの身がいとも簡単に貫かれていく。痛みは本物で、流れる血も現実そのものだった。
『グレガー、俺はあんたを……』
『黙れ、人食いのケダモノめ。私の仲間をよくも!』
間断なく注ぐ魔力を浴びながら、ゾラは立ち上がった。足に力を入れると血が噴き出し、ひと呼吸ごとに全身に激痛が走る。
『あんたはアンナを愛していなかったのか? 俺と同じように』
『呆れたケダモノだ。君の言う愛とは、食い物に対する執着のことだろう?』
『ふざけるな! 貴様、自分がなにを言ってるか分かってるのか!?』
『私は正気だよ、愚かなケダモノくん。狂っているのは君のほうだ』
なにが正しくてなにが間違っているのか、ゾラにはもう分からなかった。痛みも苦しみも、激しく摩耗しながら消えつつある命も、なにもかもが不確かだった。
だから、ゾラは吼え、我を忘れてグレガーに飛びかかった。再び現れた巨人の腕に阻まれようと、タキシムの弾丸に貫かれようと、何度でも立ち上がり、吼えた。
やがて痛みを振り切り、グレガーへと爪を振り下ろす。真っ二つにするつもりだったが、浅く、袈裟切りにしただけだった。それでも鮮血が迸るあたり、人間の身体はあまりに脆いと、ゾラはひとりごちる。
命が消えていく感覚がある。巨人もタキシムも依然として連撃を放っていて、グレガーは血を流し、蒼褪めた無表情で佇んでいるだけ。
もはや限界だった。もう一撃グレガーに食らわせてやりたかったが、死があまりに目前まで迫っている。
ゾラは歯を食いしばり、尾根を真っ直ぐに登った。何度も背を攻撃されたが、それでも足を止めず、必死で進む。
尾根を越え、崖から落ち、それでもゾラは逃げ続けた。迫り来る死のイメージは濃厚で、走り続けていないと正気でいられないほどである。
グレガーの追撃はとっくに止んでいて、キュクロプスもタキシムも影すらないというのに、ゾラは駆け続けた。痛めつけられた肉体が悲鳴を上げていたが、それでも足は止めない。
湖のそばを通過し、樹海にたどり着いても、彼は進み続けた。朝が近くなった頃、ゾラは木の幹に足を取られて転び、そのまま意識が途絶えてしまった。
◆
「それで、どうなったの?」
息を呑んで先を促す。すると玉座の黄金色の獣人は、ほんのりと苦笑して続けた。
「通りすがりの獣人に助けられ、近くの集落に運んでもらった。もちろん、意識を失っている間に」
「で、手当てもしてもらったのね?」
ゾラは満身創痍だったはずだ。手厚い治療を受けたに違いない。
しかしゾラは首を横に振る。
「いや、俺は無傷だった」
「つまり――」
「傷も痛みも、すべて幻だったということだ」
なんだ、それなら大したことはないじゃないか――なんて思えない。ゾラが逃げ出すほどの痛みを、幻であるにせよ与えられるなんて。もし『鏡の森』で会ったグレガーが、当時の本気をわたしに見せつけていたら……ちょっと想像したくないくらいだ。
「とりあえずは無事だったわけね。でも、グレガーはどうしてそんなことしたのかしら……」
わたしの疑問が宙に浮かんで、答えを得られないまま消えていく。
ゾラはたっぷり沈黙したのち、話を続けた。
「目覚めた俺に、獣人が荷物を渡してくれた。手ぶらだったはずなのだが、気絶した俺はどうしてか、巻紙を握りしめていたらしい」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『タキシム』→人型の魔物。全身が黒い靄に覆われている。指先から高速の呪力球を放つ。警戒心の強い魔物で、なかなか隙を見せない。詳しくは『341.「忘れる覚悟」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




