872.「若年獣人の長き旅⑩ ~追跡者たち~」
王都を出たゾラは、真っ直ぐに樹海へと突き進んだ。もちろん、街道を避けて。今はとにかく人間を見るのも嫌だったからだ。
人間への失望には、当然アンナの死が影響している。ただ、それだけではない。
『獣人は悪だ、殺せ』
『なんておぞましく醜い生物だ』
『劣等種は駆逐しなければならん』
――これらはいずれもグレキランス内で公然と叫ばれた罵詈雑言の数々である。耳に浴びた黒い言葉が、ゾラの心に諦めを添えていた。王だけではなく、平穏無事な顔で日々を送っている者まで、直接目にしたこともないであろう獣人を簡単に憎悪してしまう。その事実は、彼らの根っこの部分が醜怪であることを示しているようにゾラには思えた。
しかしながら、ゾラの抱いた印象は徐々に収まっていった。
樹海への道をたどるにつれて、例外的な反応にも思考を向けるようになったのである。
アンナは、こちらが獣人だと知っても恐れや怯えを見せることなく、ひとつの個として扱ってくれた。
グレガーもまた、アンナへの感情という共通点はあるにせよ、こちらが獣人であるだけで無暗に傷付けたりはしなかった。
つまり、絶対的に相互理解が出来ないわけではないのだ。今は困難だとしても。
そのように考えてはみたものの、今すぐに踵を返して友好を図ろうとは思えない。そもそもグレキランスへの貢ぎ物は回収されてしまっている。親書は焼き払われたとグレガーから聞いていた。もはや交渉の拠り所はない。ましてや、あの王に謁見する気など絶対に起きなかった。
ゆえにゾラは、ただひたすらに樹海への道をとぼとぼとたどるほかなかった。道々で野鼠を捕らえて食ったり、野草を食んだりして飢えを凌ぎながら。いかに丈夫でも、このところマシな食事を摂っておらず、足取りは重かった。
ようやく尾根が見える頃、ゾラは異変に気付いた。誰かに見られているのをはっきりと自覚したのだ。それまでの道中も違和感はあったものの、空腹からくる体調不良や様々な煩悶でぼやけてしまっていたのだが、尾根にやって来てからは肌を刺すような視線を感じるようになった。
視線の正体についてゾラは、半馬人かもしれないと思った。尾根から高原まではさほど離れてはいないし、半馬人たちのテリトリーと言っても不思議はない。
もう周囲はすっかり夜でいつ魔物が出てもおかしくない。幸い一時間も登れば頂上に着く。頂上には広々とした洞窟があり、魔物の出現する気遣いのない小部屋があることをゾラは知っていた。
急ごう。
そう思った矢先のことである。
びくりと肌が震えた。振り返ると、光り輝くなにかが猛烈な勢いで向かってくるのが見える。
それはみるみる接近し――。
『ぐっ!!』
咄嗟に身をかわした直後、閃光は重い破砕音とともに、先ほどまでゾラの立っていた場所に突き刺さった。
落雷のごとき光が急速に収まっていき、残ったのは一本の矢である。
矢の飛来した方角を見ると三人の人影が見えた。おそらく、ずっと姿を消して跡をつけていたのだろう。彼らのうちひとりが消えたかと思った瞬間、背後で声がした。
『やるじゃないか下手人! オレは騎士団ナンバー4、隼のシュルトだ。この名を地獄まで持っていけ!』
振り返ると槍の穂先が目前に迫っていた。咄嗟に避けようとしたが――。
『ぐ、あ……』
初撃は回避した。だが、ほとんど同時に放たれた残り四発の刺突が直撃し、ゾラは後退を余儀なくされた。相当な勢いで放たれたようで、突かれた箇所が鈍く痛んでいる。貫通していないことが幸いだった。
『硬いなケダモノ! いいぞ、もっとだ!』
そういえば、とゾラは思い出す。
こいつの姿には覚えがある。グレガーの幻術に登場した間抜けだ。幻のなかでは雑魚同然だったが……冗談じゃない。現実は比にならないほど強いではないか。
『勘弁してよね、シュルト。アタシにも愉しませてよ。獣人の相手なんてなかなかできないんだから』
声のほうをちらと見ると、大仰な弓を手にした女が得意気に髪を掻き上げた。その隣で、つるりとした頭部が特徴的な大柄の男が、こちらを拝むように手を合わせる。
『イライザさん、愉しむなどと言ってはいけません。大罪人とて命ある存在。敬意を持って命を頂くのです』
『しゃらくさいこと言わないでよ、グレッチ。最近骨のある魔物にも、骨のあるオトコにも当たってないんだからさァ。ちょっとぐらい愉しんだってバチは当たらないって』
『イライザさん。貴女の序列は3。拙僧は2。力ある者の言葉は聞くべきですよ。それに、貴女は拙僧よりひと回りも幼いではありませんか』
『でも禿げてるじゃん』
『頭髪で人を判断してはいけません。あまり口が過ぎると天罰が当たりますよ?』
『おぉ恐っ。天罰とか言ってアタシを焼き殺すつもりでしょ? アンタが部下を生きたまま焼いたって話、結構有名だけど』
『焼き殺してなどいません。普段の行いが悪かったので、拙僧が浄化したのです』
『マジかよ……洒落にならないじゃん』
追跡者の二人が会話している間も、ゾラは攻撃を受け続けていた。シュルトの槍は軌道が単調で予備動作も見えたが、なにより速度が尋常ではなく、回避しきるのは不可能だった。ゾラが肉体に恵まれていなければ、今頃穴だらけにされていただろう。
『オラオラオラ! 変装を解きやがれよケダモノちゃん! 魔力が獣の輪郭してんの丸見えだぜ!?』
腹部に重い一撃を受け、ゾラは大きく吹き飛ばされた。宙を舞っている間、彼は思う。バレているのなら仕方ない。もはやここは人間の住まう土地ではない。姿を見せたところで問題ないだろう。
空中で身を翻し、着地する。両の足で立つゾラの姿は、本来の獣人のそれに戻っていた。
『いかにもな化け物じゃん。滾っちゃうわ』
見ると、イライザと呼ばれた女が弓に矢をつがえたところだった。みるみるうちに矢が光を帯びて――。
『ボルト・レイン』
女が矢を天へと放ち――やがていくつもの雷がゾラの周囲に降り注いだ。
早くこの攻撃から脱さねば、とゾラは思ったが、身体が言うことを聞いてくれない。間断なく訪れる雷に次々と貫かれて身動きが取れなかった。それでも目はしっかりと見開いている。ゾラの視界に映えたのは――。
『お前の大罪、拙僧が洗い流して進ぜよう。轟炎球』
グレッチの頭上に巨大な火球が出現していた。
なんとしてでも避けなければ。そうは思っても身体が動いてくれない。依然として注ぐ雷に慣れることなど出来そうにない。
『獣よ。攫って食った王妃は旨かったか?』
グレッチが確かにそう言ったのを、ゾラは聞き逃さなかった。
『……なんだって?』
『おお、なんておぞましい声だ。居直りは罪であるぞ』
『俺が、王妃を、攫って、食っただと?』
誤解されているとしたらどうでもいい。馬鹿にしているとしてもかまわない。ただ、物事には許容範囲というものがある。
ゾラにとって、アンナに関する物事は聖域だった。決して侵されてはならない大切な記憶。
『アンナを殺したのは貴様らの間抜けな王だ! 真に罪があるとしたら、王しかいない!!』
『おお……獣よ。お前は今まさに罪を重ねた。生きている限り、お前の罪は積もっていくようだ。拙僧が浄化せねばなるまい。その身に溢れる穢れを思いながら、滅されよ』
やがて太陽のごとき火球がゾラへと迫り――その身を包み込んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




