871.「若年獣人の長き旅⑨ ~官吏に必要な感情~」
『アンナが、死んだ……?』
『ああ。だから計画もすべて無駄になった』
ゾラにとってそれは到底受け入れることの出来ない内容だった。
わずか数日前まで笑っていた女性の笑顔が、もうこの世には存在しない。信じがたい話だ。たとえひどい境遇にあったとしてもアンナは王妃で、死とは程遠い立場ではないのか。
呆然と立ち尽くすゾラに、グレガーは淡々と告げる。沈んだ声で。諭すように。
曰く、グレガーは昨夕、城でアンナに会ったらしい。彼女はひどく痩せこけていて、痛々しい青痣があちこちにあった。それでも彼に微笑みかけ、こう頼んだのだという。『エミールをこっそり牢屋から出して、故郷に帰してあげて』と。
どうやらアンナは何度か王様にゾラの解放を頼んだらしく、そのせいでひどい打擲を受けたらしい。
明日にはすべてが好転する。それを分かっていても、グレガーは計画を告げるわけにはいかなかった。小綺麗な応接室で二人きりの状況ではあったが、誰が聞き耳を立てているか分からない。それを考えるとアンナの言葉は迂闊そのもので、グレガーとしてもたしなめるほかなかった。『ご冗談を』と。
アンナと別れて帰宅し、夜が更けた頃、グレガーに呼び出しがかかった。ほかならぬ王からである。計画実行に向けてそろそろ動こうかと思っていた矢先のタイミングだ。
使者の口から告げられた王の命令は実に奇妙だった。王の私室のなかでも基本的に立ち入りを禁じられている寝室に来いと言うのである。怪訝に思いはしても、行くほかない。
『寝室には王がいた。蒼褪めた顔をしてソファで酒を呑んでいたよ。……ひどい状況だった。割れた酒瓶が床に散っていて、それから……』
瓶の破片に囲まれて、頭から血を流したアンナが床に横たわっていた。グレガーが駆け付けたときにはすでに息はなく、心臓も止まっていたらしい。
ゾラは猛烈な怒りを覚えたが、必死で奥歯を噛み締めてグレガーを凝視した。
『王は私の姿を見るや否や、床を指さして命じたんだ。生き返らせろ、と』
『……馬鹿げてる』
グレガーは頷き、短く首を横に振った。
『そう。馬鹿げてる。死霊術がすぐ頭に浮かんだが、私にそれは使えないし、今の王都にも使い手はいない。仮に死霊術を使ったところで、一度喪われた命が戻るわけではない。そう諭すと、王は激昂したよ。役立たずめ、とか言っていたっけね。自分で殺したくせに』
それからグレガーは、アンナの遺体の処理や部屋の復旧を命じられたとのことである。遺体は完全に消滅させ、部屋に血の一滴、酒瓶の破片ひとつ残すな、と。
『そしてもうひとつ、とんでもないことを頼まれた』
『とんでもないこと……?』
ランプに照らされたグレガーの口元が、皮肉っぽく歪む。
『使用人たちの頭に、昨夜獣人の姿を目にした記憶を植え付けるように、と』
『……なぜ』
『牢屋から逃げ出した獣人に王妃が攫われたと思わせるために。……白状すると、君を逃がすのは王の命令でもあるんだ』
ゾラは目の前の男の、ひどく打ちのめされたような憔悴の表情に怒りを感じた。
途轍もなく馬鹿げている。こんなふうに、まるでなにもかも諦めたようにしているグレガーは間違っている。
ゾラは無言でグレガーを押しのけ、廊下を戻りはじめた。
『おい、どこへ行く』
『アンナの無念を晴らす』
『やめておけ。君がなにをしたってアンナ様には届かない。もう喪われてしまったんだ』
『あんたは悔しくないのか』
『……感情を押し殺さなきゃ官吏は務まらないんでね』
ゾラがちらと振り返ると、グレガーがすぐ後ろに佇んでいた。彼の背後に階段もある。何十メートルも進んだ実感があるにもかかわらず、ゾラはその場から一歩たりとも離れてはいなかった。
足を踏み出す。一歩進む。歩行の実感は確かにあるのだが、やはり、振り返ると一歩も進んでいないことになっている。
『忌々しい幻術を……邪魔をするな!』
『悪いけど、これでも王都に与する立場でね。今君に好き放題されたら王城が大変なことになる』
『ならはじめからアンナを救い出す提案など――』
『あのときはそうするのがベストだった。けれどもう状況は違う。私は、アンナ様の遺した願いを実行するだけだ』
ゾラを逃がしてほしい。アンナがそう願ったのはすでに聞いている。皮肉にも、王もまた同じ命令をくだしたわけだ。
ゾラは立ち止まり、目前の闇を睨む。
自分はアンナのために、あの王を殺そうとしていた。だがアンナは死んだ。自分としては王を是が非でも殺してやりたいのだが、生前のアンナはそれを望んでいない。願わくば故郷に帰るようにと願った。グレガーもまた、彼女の願いを支持している。
ゾラはふと自分がここに来た理由を意識し、振り返った。そして決然とした口調で言う。
『アンナのために出来ることはないとしても、王には償いをしてもらう。俺が王を殺し、成り代わる』
『そして交易を開始するために動くのかい? 君が当初思い描いていたように』
『そうだ』
ゾラを眺めるグレガーの目は、哀れみに満ちていた。物分かりの悪い子供を見るように。
『無理だよ。もう王都中に今回の話が知れ渡ってる。つまり、悪しき獣人が王妃を攫ったってことがね。……払拭は不可能だ。もともと君たち獣人は化け物として認知されている上に、今回の事件だ。これが表の歴史に残るかどうかは別として、何百年後も君たち獣人への偏見は残るだろう』
だとしても成り代わる――と返すことは出来なかった。
あらゆる希望が閉ざされ、ひと筋の光すらない真っ暗闇。そんなイメージがゾラの脳裏に浮かぶ。
どうすればよかったかを振り返ってみたところで、なんの実りもない。
『グレガー』喉から溢れた自分の声は、ひどく弱々しかった。『人間は、弱くても生きていける種族じゃなかったのか? 俺の勘違いだったのか?』
『さあ、どうだろうね。ひとつ言えるのは、アンナ様は決して例外ではないってことだけだ。虐げられて死んでいく存在はいくらでもいる』
『醜いな』
『ああ、醜いよ。でも現実なんだから仕方ない』
◆
「変装魔術を使って人間に化けて、俺は階段を登った。やがて光が見えて、気が付くとグレキランスの路地裏にいた。探しても、どこにも自分が登ってきたような階段は見当たらない。あれもグレガーの魔術だったんだろう。俺は真っ直ぐ外壁へと向かった」
往来のそこここで交わされる話題はすべて、王妃と、彼女を攫った獣人についてだった。種族全体を口汚く罵る言葉ばかりだったとも、ゾラは語った。
言葉を切って深く息を吐くゾラを見つめ、わたしは胸がざわつくのを感じていた。
王の発表は民衆にとって事実となる。わたし自身、それを味わったのだ。つい最近まで王都最大の裏切り者に仕立て上げられていたからこそ分かる。
今でこそ払拭出来たものの、わたしの場合は運が良かったとも言える。決定的な転機が訪れ、誤解を解消し、敵の存在が明るみに出たからだ。結局のところ、物事が上手く転がったというだけの話でしかない。
わたしのような幸運なケースは、そう多くないだろう。
「それで、人間に対して絶望したのね。殲滅したってかまわないと思うくらいに」
ゾラは首を振り、否定した。ひどく薄暗い瞳で。
「それはきっかけのひとつに過ぎん」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『死霊術』→死者を蘇らせる魔術。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『変装魔術』→姿かたちを一時的に変える魔術。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




