870.「若年獣人の長き旅⑧ ~二度と会えない人~」
王の妃――アンナ。彼女の奪取に失敗したゾラにどんなチャンスが残されていたというのか。グレガーの口にした『アンナ様を救うふたつの方法』には、どうしたって胡散臭さがつきまとう。
じっと続きを待っていると、やがてゾラのωが持ち上がった。
「グレガーの提示した方法はふたつ。俺が王に謝罪し、その場で自害するか。あるいは王を殺すかだ」
前者は予期していたから、やっぱり、という感想だったのだけれど、後者については疑問しかない。話によると、この時期のグレガーの立場は騎士団のトップなわけで、王の殺害を提案するなんて信じがたい。
だから、なかば反射的に言った。
「王を殺すなんて、グレガーは革命でも起こそうとしたのかしら……?」
ゾラはやんわりと首を横に振る。「本意は定かではないが、俺の知る限り、奴は純粋にアンナを救いたいと思っていたようだ」
「あなただけじゃなくて、グレガーも王妃を救おうと……?」
「奴はアンナに思い入れがあったようだな」
思い入れか。『鏡の森』で会ったグレガーは、そんな素振りなんて見せていなかった。まあ、彼の過去について根掘り葉掘りたずねたわけではないので、わたしが知らないのも無理はないけど。それにグレガー本人がアンナのことを忘れていても不思議はない。なにせ途方もない時間が経っているのだから。
「それで、あなたはどちらを選んだの?」
肝心なのはゾラの選択だ。だいたいの想像はつくけど。
「王を殺すことを選んだ」
やっぱり。謝罪はともかく、自殺するような真似をゾラは選ばないだろう。
「でも、殺したあとのことは……」
「俺が変装魔術で王に成り代わり、アンナに幸福な生活を与える。グレガーとは最終的にそう取り決めた」
「ルドベキアのことは考えなかったの?」
「もちろん、その点もグレガーと詰めた。外遊と称して一時的にグレキランスを離れ、ルドベキアで獣人を説得したのちに正式に交易を開始する手はずだった。外遊の過程で獣人に命を救われただとか、それらしい理由を作れば交流のきっかけにはなる」
しかし、そうはならなかった。ルドベキアの現状をみれば明らかだ。問題は例の提案の行方にある。
「……ゾラ。あなたは王を殺したの?」
長いまばたきののち、黄金色の獣人は慎重に口を開いた。
「そうはならなかった。作戦実行の日、俺が王のもとに向かうことすらなかったのだから」
◆
『ごきげんよう、獣人くん』
『……随分と遅いお出ましだな。作戦決行は深夜から早朝にかけてと聞いていたが、今は昼だ』
『少し手違いがあってね』
牢に姿を見せたグレガーは、どうにも声の調子が変だった。やっとの思いで言葉を紡いでいるような、そんな憔悴が見える。
ゾラにとって、グレガーの言葉と様子は不穏以外のなにものでもなかった。いよいよ今日アンナを救い出してやれると、そう思って心を弾ませていたのだ。約束の時間が過ぎても姿を見せないグレガーに対して、やきもきした気でいたのである。
『手違いとは、なんだ』
そうたずねたゾラを無視して、グレガーは檻に入る。そうして彼の身体を拘束していた鎖を次々と外した。
『……なんの真似だ?』
『ついておいで』
グレガーは短く言うと、さっさと檻を出て、振り返ることもなく廊下を歩いていった。人影はなく、あたりは静寂に包まれている。それも当然のことで、ゾラの入れられた牢は地下深くに作られた特別なものだ。今のところ彼以外に幽閉されている者はいない。
檻を出たゾラは、グレガーのあとに続いて歩き出した。
魔術師の背は無防備そのもので、爪で軽く触れただけで簡単に裂けそうに見える。が、彼はちらともそんなことは考えなかった。
ここ数日、二人はアンナの救出について随分とやり取りを重ねたのだ。信用と呼ぶには大袈裟だが、少なくともアンナに関する物事であれば双方の想いは一致している。限定的なパートナーともいえるわけで、今のところ協力関係は続いているようにゾラは思っていた。
廊下は真っ直ぐ続いていて、光源はグレガーが手にしたランプのみ。
計画がバレて、王の命令で自分を殺そうとしているのかもしれないとゾラは訝ったが、それにしてはやり口が妙だった。わざわざ拘束を解く必要はないし、背を向けてひたすらに歩くのも道理に合っていない。今目の前にあるのがグレガーの幻という可能性はあるにせよ、やはり動機が不明瞭だった。
『計画はどうなってる?』
『それはナシになったよ』
聞き捨てならない言葉である。ゾラは足を早め、グレガーの顔を覗き込んだ。そこには、先ほどと同じ疲労に満ちた無表情があるだけだった。
『……どういうことだ』
たずねても返答はない。
が、沈黙に甘んじているつもりはなかった。ゾラはグレガーの肩を掴もうと手を伸ばし――。
『大人しく故郷に帰るといい。君がアンナに――この国に対して出来ることはなくなった』
『……アンナになにかあったのか? 詳しく話せ』
やがて階段が見えた。わずか数段が心許ない光に照らされているだけで、どれほど長く続いているのかは見通せない。闇に慣れた獣人の目であってもまるで分からなかった。樹海の夜の暗さとは質が異なっている。
グレガーは階段の下で足を止めると、くるりと振り返った。
『ここから先は君ひとりで行くんだ。なに、罠はないよ。ランプを貸すわけにはいかないから、暗闇は我慢してくれ。そう長い階段じゃないから不安に思わなくていい』
『グレガー。なにがあったのか話せ』
『獣人くん。なにも言わず、なにも聞かず、ただ帰りたまえ。これは君への恩情だ』
『恩情だと? そんなものいらん! あんたの知るすべてを今ここで話せ! さもなくば――』
ゾラの爪がグレガーの喉元寸前で静止する。彼自身の意志で止めたのだ。
グレガーは蒼褪めた無表情で、じっとゾラを見やっている。
『さもなくば、殺すのかい?』
『……そうだ』
『僕を殺したところで真実は君のものにはならない。いいかい。本来なら君は、陽の目を浴びることなく死ぬはずだった。牢に残れば必ずや、そうなっていたんだよ』
『だからどうした。俺が知りたいのはアンナのことだけだ。今すぐ城に戻ってでも俺は――』
刹那、ゾラは両の肩をグレガーに掴まれた。縋るように。
俯いたグレガーの表情がどうなっているのかは分からなかった。
『君の解放は、アンナ様の願いだ。……知っての通り僕は騎士であり、王の従僕でもある。君を逃がすのがどれほどの重罪か分かるか? ……それでも決断した事実を受け止めてくれ』
そんなもの納得出来ない、とゾラは反射的に思った。願いとやらが事実だとしても、直接確かめるまではなんとしてもここを離れるつもりなどない。
『アンナと会話する。それで殺されてもかまわない。もとより王を殺すつもりだったのだからな。さあ、戻るぞ』
肩を掴むグレガーの腕を払おうとしたが、叶わなかった。鋼鉄のごとく、びくともしなかったのだ。
グレガーが顔を上げる。その目はひどく虚ろに沈んでいた。ほんの少しだが赤く腫れているようにも見える。
『君がアンナ様に会うことは二度とない。君だけじゃなく、あらゆる人々がそうなのだ』
『それは――』
身体の力が抜けていく。口元が震える。
『アンナ様は今朝亡くなったのだ』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『変装魔術』→姿かたちを一時的に変える魔術。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




