869.「若年獣人の長き旅⑦ ~幻術使い~」
「いつ聞いても気分が悪くなるわ、そのグレガーって奴。最低!」
憤るミスラの気持ちはよく分かる。決して人格者ではなかったし……。わたしも彼には煮え湯を飲まされている。
『幻術のグレガー』。魔術都市ハルキゲニア沿いの海峡を越えた先に広がる『鏡の森』を支配していた魔術師だ。魔物を操り、他者の魔力を吸収することで疑似的な不老を可能にした男。あやうく彼の餌食になるところだったわけだけど、逆襲して二度と『誰かを犠牲にして命を延長する』ような真似はやめるよう誓わせたけれど……今はどうなっていることやら。あの親切な魔物たち――バンシーに囲まれて、誰かを脅かすことのない穏やかな生活を送ってるといいんだけど。
こうしてゾラの昔話に知人が出てくるとは思わなかった。だから、憤りとかよりも純粋な驚きのほうが大きい。
ただ、引っかかりもある。王都の記録に残っている限り、グレガーの序列は騎士団ナンバー2だったはず。ゾラの話ではグレガーは『序列の頂点』と自称しているわけで、矛盾している。ゾラの話が真実であれば、なにかがあって記録が修正されたのだろう。
グレガーの現在について口に出そうとして、やっぱりやめておいた。もし彼が生きていると分かったら血相を変えて復讐に行くかもしれない。
「クロエはそいつのこと知ってる?」とミスラはなんの悪意も算段もない口調でたずねる。
「グレガー? えーと……王都の本にちょこっと書かれてたような。有名な騎士団員は名前が残ってたりするから」
「ふぅん」
ミスラのじっとりとした視線を受けて、乾いた笑いが出てしまった。わたしの言い淀みを疑っているのかも。
「そ、それで、続きは?」
ゾラはわたしの態度をなんとも思っていないようで、あっさりと返した。「幾日も牢屋で拷問を受けた。大抵は拷問具のほうが先に駄目になったのだが、奴の拷問だけは違ったな」
「へ、へぇ……」
◆
牢屋に入れられたその日から、ゾラは拷問を受けた。王妃との関係性についてしつこく聞かれたが、ゾラはひたすら『関係性などない。ただ興味が湧いて奪おうとしただけだ』とだけ返した。
水責め、火炙り、鞭打ち、滅多切り……物理的な拷問はいずれもゾラにとって脅威ではなく、むしろ拷問吏が先に根を上げてしまった。
攻撃専門の魔術師がやってきて拷問したりもしたが、結局のところ、ゾラの耐久力に軍配が上がったのである。
かくしてゾラを捕らえた張本人――グレガーに拷問のお鉢が回ってきた。
『獣人みんなが君のように強いのかい?』
グレガーはほかの拷問吏と違って、至って穏やかに、むしろフレンドリーと言っていいほど気安い口調で話しかけた。ゾラとしては彼さえいなければ今頃アンナとともに壁の外に出られたのだから、相手にするまいと決めていた。
『ところで君は不思議に思ったりしなかったかい? いつ自分が術中に嵌まったのか』
いつの段階であろうとも現在の状況は変わらない。だとしてもゾラは少しばかり興味を覚えた。
自分の言葉がアンナにどれほど届いていたか。それは状況にかかわらず、自分が知っておくべき物事にさえ思える。
『知りたいのなら取引をしよう』
そう言って、グレガーは懐から赤黒い果実を取り出した。ゾラが王様に献上するつもりでルドベキアから遥々運んできた渋林檎である。
『これは毒物かい? それともただの果物?』
『……果物だ』
その程度のことは言ったところで別段問題もない。それと引き換えに情報を得られるのなら、むしろ好都合でさえある。
『ありがとう』グレガーは無表情で、赤黒い果実に齧りついた。最初は硬くて上手く噛めない様子だったが、何度か歯を立てているうちに上手く果肉を齧り取ることが出来ると、ほんのりと、本当に微かではあったが笑みを浮かべた。『これは旨いな』
さっさと答えを寄越せと思ってやきもきしていると、グレガーが懐からもうひとつ、今度は艶やかな赤い林檎を取り出した。見るからに瑞々しく、はちきれんばかりに果肉と蜜が詰まっているであろうことは一目見た瞬間に分かった。
『君も腹が減っているだろう。ここ数日、阿呆な拷問吏ばかりを相手にしていたことは私も知っている。連中は、罪人に食い物を渡すなんてとんでもない、って考えの愚物だからね。まったく参ってしまうよ。ほら、お食べ』
ゾラの鼻先に、グレガーの生白い腕が伸びる。手のひらに乗った林檎が首を傾げるように、ころりと微動した。
――腕ごと食い千切ってやる。
ゾラは大口を開けて勢いよく、グレガーの腕ごと林檎に噛みついた。
果たして、彼の口内に迸ったのは甘い蜜である。
グレガーはずっとそうしていたかのように両手で渋林檎を持って、少しずつ果肉を齧っている。どうやらまた幻術にかけられたらしい。
『今朝市場で買ってきた林檎だ。旨いだろう?』
『……』
ゾラが咀嚼をやめて睨みつけても、グレガーは幻術についてなにも言わなかった。あたかも不思議なことはなにひとつ起きていないように振る舞っている。
これがこの男のやり口なんだろう、とゾラは察した。どうしてもこちらが疑問を抱かなくてはいけないような物事を次々にぶつけて、心を崩していく。肉体をどうすることも出来ないからこそ、内側から瓦解させようとでも目論んでいるのだろう、あの王様は。
『最初の言葉だけだ』
『……?』
反応するまいと決めていたのに、つい眉根が寄った。この男はなにを言っているのか。
『君がバルコニーに降り立ち、アンナ様を抱き上げてなにやら口にしていただろう? それ以降は全部、私の幻術だ』
驚くな、とゾラは自分自身に強いる。落胆するな、とも。
せいぜい街なかか、あるいは壁上で魔術をかけられたものとばかり思っていたが、逃走中の親密な会話は全部幻でしかなかったらしい。
『君は、君の思い描く理想を体験したに過ぎない』
徒労感が一気に身体に溢れる。魔術などではなく、精神的な反応として。
『ところでアンナ様が今どこでなにをしてるか、気にならないかい?』
その問いは、これまでの拷問吏も発したものだった。王妃は貴様を軽蔑していたぞ、なんて言う奴もいた。王様との結婚を邪魔されて、可哀想に毎日泣いておられる、なんて見え透いた虚言を吐く馬鹿もいた。
ただ、ひとりとして王妃が死んだだとか、あるいは同じように拷問を受けているだとか、そんなことは口にしなかった。おそらく、王族への侮辱にあたるからだろう。たとえ拷問の道具であっても、それを口にするわけにはいかないという理屈に違いないと、ゾラは悟っていた。
だから、グレガーが言った台詞に思わずハッとしてしまった。
『随分と悲惨な目に遭っている。現王の暴力は日増しに激しくなっているな。とてもじゃないが表に出られる姿じゃない。これまで顔には手出ししなかったのに、君の一件でタガが外れたみたいだ。今では顔も身体も青あざだらけ――』
厚化粧でようやく誤魔化した右頬の赤みと、少しばかりの腫れ。バルコニーで見たアンナの姿が脳裏に蘇る。
『……嘘だ』
嘘じゃないことは分かっていた。それでも否定したかった。
普段のゾラならば、直情をそのまま言葉にすることなどない。が、一度は人間に手酷い目に遭わされ、それでも理想を失わずにたどり着いた目的地で得たかけがえのない人間――アンナに関して、彼は冷静ではいられなかった。
たった一日過ごしただけの相手にどうしてそこまでの情が抱けるのだろうと、ゾラは自分のことながら奇妙に感じはしたものの、それは決して説明のつかない感情だった。
『君がアンナ様に対して出来ることがある、と言ったら興味あるかい?』
そう言って、グレガーは皮肉っぽい笑みを浮かべる。これまで彼が見せた表情のなかで一番人間味があった。
『出来ることはふたつ。けど、両方をすることは出来ない。でもきっと、どちらの方法もアンナ様を救うことになるだろうね。少なくとも今よりはマシになる』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




