868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」
「やっぱり何度聞いてもいいわ~。ときめく~」
いつの間にやらわたしの隣に座ったミスラが、うっとりと頬に手を添えて言う。夢見るような目付きで。
「クロエもそう思わない?」
水を向けられたわたしは、万感の思いをひと言に乗せた。「分かる……いい」
もうどうにもならないってときに駆け付けてくれる男の子に憧れるなんてのは当たり前だ。大事なのはトッピングである。望まぬ結婚を強いられた令嬢。傲慢な王様。絶望に閉ざされた視界に閃く、ひと筋の光。そしてウェディングドレス姿で抱きかかえられるという状況……いい。すごくいい。
……とまあ、わたしもひとりの乙女としてそれなりに興奮してはいるのだけれど、どうしたって他人事とは思えなくて、少々深刻に捉えてしまう。
王の妃が奪われたなんて話、王都の歴史のどこにもない。そしてゾラが嘘を語る理由はないし、誇張するような性格にも思えない。彼の口調は淡々としていて、まさしく過去の事実を語る態度でしかなかった。
こんな大事件がどの文献にも残っていないとなると、考えられるのはひとつ。
消されたんだろう。権力と、そして魔術によって。
「それで、どうなったの?」
「厄介なことになった」と、ゾラは苦々しく返す。
それはそうだろう。王の結婚式に割って入ったわけで、王都全部が敵になるようなものだ。どんなひどい目に遭っても不思議ではない。
しかしながら、農民とはいえ大の男が全力で振り下ろす鉈さえ効かなかったゾラが、そう簡単に打ちのめされるとも思えなかった。
もしかすると本当に逃げおおせたのかも。
じっと次の言葉を待つわたしを見つめ、ゾラは淡々とした語りを再開した。
◆
『エミール、貴方……どうして』
妃の声は、もう反響していなかった。声を拡散する魔術を解除したのだろう。映像も消えている。
『殺せ!』と王様が叫ぶ。『我の婚礼を侮辱するなど……大罪だ!』
一気に突撃してくるかと思ったが、兵士は槍の穂先を向けて包囲しただけだった。どうやら妃の身を気にしているらしい。
ゾラにとっては、この上なくありがたい状況だった。
『ナナ。しっかりしがみつけ』
胸のあたりで小さな頭が上下する。それを確認してから、彼は深く身を沈め――空中へ躍り上がった。堀の外、豪壮な民家の屋根に着地する軌道で。
『追え! 決して逃がすな! 命がけで捕らえろ!!』
王様の、すっかり余裕を失った怒号がみるみる遠くなる。風音に紛れて消えていく。
『安心しろ、ナナ。全部が良くなる』
着地の瞬間に瓦が砕け散ったが、幸いなことに屋根が抜けることはなかった。ゾラは勢いを保ったまま屋根から屋根へと飛び移る。
目指すは王都の外壁。人間が飛び降りればひとたまりもないが、獣人である彼にとっては無傷でいられる高さである。登るのもわけはない。
『……ずっと隠しててごめんなさい』
『いいんだ。俺だって嘘をついたから』
『嘘?』
『本当はエミールなんて名前じゃない』
ゾラの腕のなかで妃がクスクスと笑う。
『じゃあ、おあいこね。アタシの本当の名前はアンナで、今日王様と結婚するはずだった女よ』
『俺の名はゾラ。王都に来たのは人間と交易をするためで――つまり、人間じゃない。獣人なんだ』
『知ってるわよ、貴方が獣人だってことぐらい。最初に会ったときから』
『すごいな、アンナは。俺が怖くないのか?』
『ちっとも怖くないわ』
二人はすでに、壁と王城との中間あたりまで来ていた。
このままなら問題なく王都を脱出できる――と思った矢先のことである。
『ゾラ、危ない!』
咄嗟に振り返ると、巨大な火球が放物線を描いて迫るのが見えた。なんとか足場で方向転換すると、火球はそのまま家屋を――庭や隣家も含めて木端微塵に消し飛ばした。
歯噛みをして通りに降り、壁へと駆ける。
きっと魔術による大規模な攻撃は王様の指示だろう。アンナが犠牲になろうとも民衆が巻き込まれようとも、知ったことではないというわけだ。自分の受けた汚辱を晴らすことだけを考えている。
『ひどい王様だ』
『ええ……その通りよ。だから、貴方が来てくれて本当に嬉しかった』
火球が滅茶苦茶に街区を破壊してゆく。悲鳴と轟音がこだまするなか、ゾラは柔らかい笑みが口元に広がるのを感じた。それに呼応するように、アンナがもぞもぞと動く。何事かと思ったら――。
『こんなもの、もういらないわ』
銀の指輪が宙を舞う。代わりに彼女の左手の薬指に、昨日ゾラの贈った木彫りの指輪が嵌まった。
指輪が石畳を打つ、きぃん、という金属音が彼の耳に――意識に――大きく響く。これこそが福音だと、ゾラは心から感じた。
『スピードを上げるぞ』
『ええ、お願い』
魔術による追撃も、目前に迫る兵士も置き去りにして、ゾラはついに壁へと到着した。
疲れはない。息切れすらない。むしろ身体は万全の状態だ。アンナを一旦下ろし、今度は彼女を背負った。
『しっかりしがみつけ。落ちるなよ』
『ええ、絶対に離さない』
垂直の壁だが、突起はいくらでもある。いざとなればもとの姿に戻って爪を刺せば、楽に登れるだろう。
ゾラがひと呼吸置いて壁に手をかけた瞬間――。
『おっとぉ! そこまでだ下手人! 我らが王妃を返してもらおうじゃないか。オレの名はシュルト。人呼んで隼のシュルト。王立騎士団ナンバー4の実力者だ。オレの槍の餌食になりたくなければ――』
最後まで口上に付き合う気なんてさらさらない。みぞおちに蹴り一発。それでシュルトとやらは通りの彼方まで吹き飛んでいった。まるで隼のごとく。
これ以上面倒な奴に絡まれて時間を浪費するわけにはいかない。ゾラは壁に手をかけ、リズムよく登りはじめた。
火球が何度か飛んできたが運よく直撃することはなく、衝撃に耐えるだけで済んだ。
――もう少し。
残り五メートルのところを腕力で一気に飛び上がり、壁上に到達する。すると、背中から小さなため息が聴こえた。
『これで王都ともお別れね……』
『寂しいか?』
『ううん。こんなことならいっぱい買い物しとけばよかったな、って思っただけ』
『ご馳走をたらふく食べたんだ。それでいいじゃないか』
『そうね。……アタシ、昨日のことを人生で一番幸せな一日だと思ってた』
『これからは毎日幸福が続くさ』
壁の内側へと視線を向ける。無残に焼け落ちた家屋。破壊された街路。立ち昇る黒煙は新鮮な炎を内に秘めている。
一部ではあるものの崩壊する王都を目にして、ゾラは少し残念に思った。
これで交易はご破算だ。でも、必要なことをしたという実感がある。あのまま王妃を放っておいて、数日後には交易の申請のために謁見する自分の姿など想像もしたくない。
これからどこへ向かうのかも決まってはいない。が、どこへでも行けるのだ。彼女となら。世界の果てまで二人の居場所を探しに行くことだって出来る。
『少し響くかもしれないから、しっかり掴まってろ』
ゾラはアンナを両腕で抱えなおし、壁の向こうへとジャンプした。
およそ数秒間の空中散歩。脱出の実感に、ふわりと心が軽くなる。
やがて、確かな衝撃とともに両足が地面を捉えた。
――異変にはすぐに気付いた。
腕のなかのアンナが消えていたのである。
『アンナ……?』
周囲を見渡す。どこにもドレス姿の女性などいない。それどころか誰の姿もない。
『アンナ!!』
『あまり叫ばないでくれたまえ』
ハッとして声のほうを見ると、ローブ姿の男が壁にもたれて立っていた。
男には見覚えがある。バルコニーで映像の魔術を使った奴だ。顔かたちと同じく、声も優美だった。
『アンナをどこにやった!!』
『どこにもやっていない。そもそも王妃は君のものではないのだよ、獣人くん』
ふ、と男の姿が掻き消えた。刹那――。
『いい加減目を覚ましたまえよ』
耳元で声がした。その直後、視界が真っ暗になって――。
『お目覚めかね?』
鉄格子越しに、例の中性的な男が佇んでいる。顔は、無表情と言ってもいいような微笑未満のものだった。
がらん、と金属音がして四肢に抵抗を覚えた。自分の身体を見下ろしたゾラは、思わず息を呑む。
すっかり獣人の身体に戻っていて、しかも両手両足、さらには首まで、冗談のような太さの鎖で拘束されていた。
『貴様……何者だ!! 俺になにをした!!』
すると男は至極当然のことを口にするように、滑らかに返した。
『私はグレガー。王都で騎士団をやってる者で、ありがたいことに序列の頂点に座らせてもらっている。二つ名は、幻術のグレガー。名前の通り、君には幻に溺れてもらっただけだ』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




