867.「若年獣人の長き旅⑤ ~結婚報告~」
「ナナは俺が獣人であることを見抜いていたのだ。おそらくはじめから」
変装魔術は上手く隠蔽魔術と組み合わせない限り、本来の姿が魔力として表れてしまう。
『最果て』で出会ったカエル頭の魔術師――ケロくんのように。
たぶん、ナナは魔力の察知に優れていたんだろう。正体を知りながら、それでも一日限りのデートをゾラと楽しんだというわけだ。
「彼女のほうは、あなたのことをちゃんと知っていたわけね」
我ながら生意気なことを言ってしまったかもと思ったが、ゾラはすんなりと首肯した。
「お前の言う通りだ。俺はナナを知らず、しかしナナは俺を知っていた」
少なくとも人間でないことはとっくに把握していたわけだ。どうしてゾラが王都にやって来たのかまでは知りえなかったとしても。
「それで、ナナと別れてからあなたはどうしたの?」
肝心の目的はまだ果たされていない。つまり、話には当然続きがあるはずだ。
ゾラは重々しく頷き、再び語りはじめた。
◆
その日、ゾラは路地で夜を明かした。王様をたずねるにはいささか時間が遅すぎたし、ナナと過ごすうちに『目的は明日に延ばそう』と腹のなかで決めていた。
ゆえに彼が焦ることはなかったが、しかし煩悶は確かに存在した。ナナと過ごした時間が、閉じた瞼の裏に幾度も浮かび上がる。あれほど素晴らしかった甘味でさえナナの微笑には遠く及ばない。
硬い石畳に縮こまり、ゾラは何度も寝返りを打った。一向にやって来ない眠気は恨めしくも、逆にありがたくもある。
――遠くへ行きたいと言った彼女に応えていたら、どうなっていただろう。
――彼女の手を引いて、どこまでも駆けていたなら。
――あるいはその身を抱き上げて、故郷へと戻ったなら。
――それとも樹海でも王都でもない辺境の地へ、たった二人、居場所探しの旅に出たなら。
そんなことばかりを空想しては、寝返りを打つ。
いつしか夜は明けていた。
このまま王都にとどまって、もう一度ナナと過ごしたい。本心の欲求を感じたゾラは、なんとか理性によって気を引き締めた。昨日の幸福は事実だが、すでに過ぎ去ったことである。無暗に拘泥して目先の責務をおろそかにするなどありえない。
それに、希望もあった。もし交易が上手くいけば、ルドベキアと王都との間に人間や獣人の行き来が生まれることになる。ナナに再会するチャンスはきっとあるだろう。
預り所で荷物を引き取り、まどろみに揺れる街をゾラは歩んだ。朝靄に鼻先が湿るのを感じながら、王城を目指してひたすら進む。王様はお城に住んでいるということは、王都に入ってすぐに道行く商人に聞き出した情報である。城のおおよその位置も教えてもらっていた。
とはいえ慣れない街で、何度か迷ってしまった。結局たどり着いたのは一時間以上経ってからである。すっかり街は目覚め、どこか浮ついた喧騒があちこちに溢れる時間帯だった。
王城へと通じる跳ね橋を越えると、黒山の人だかりが出来ていた。なんの用で集まっているのか知らなかったが、これが日常的な王城の風景なのだとゾラは思った。
が、ざわめきを耳にしているうちに段々とそうではないことを察した。
『めでたいねぇ、本当に』
『お相手は貴族令嬢のアンナさんだってよ』
『馬鹿、アンナ様って呼べよ。もう王妃なんだからよ』
『これで男子を産んでくれりゃ、グレキランスも安泰だ』
断片的な会話から、なんとなく人だかりの理由は知れた。どうやら王様の結婚式を執り行うらしい。王城前から見えるバルコニーで、王様と妃が民衆へ報告するとのことだ。
めでたいことには違いないが、ゾラとしては困りものである。この騒ぎでは謁見など出来そうにない。とはいえ引き返そうにも難しい状況だった。いつの間にやら跳ね橋を挟んで街のほうにもぎっしりと人だかりが出来ていたのである。
どん、と空砲が鳴り響き、バルコニーにひとりの人間が現れた。真っ直ぐな長い黒髪を風に揺らして優雅に微笑む、なんとも中性的な顔立ちの男である。橙色を基調とした、幾何学模様の刺繍入りのローブを纏っていた。
男は陶器のように白い手で空中をひと撫でする。その直後、天上に巨大な映像が現れた。どうやらバルコニーを映し出したものらしく、黒髪の男が正面から大写しになっている。よく見るとスクリーンは間隔を置いていくつも王都の空に浮かんでいた。
やがて男が下がると、入れ替わるように鎧姿の兵士たちが行進し、中央を開けてずらりと並んだ。携えた槍を真っ直ぐ天へと向けて、直立不動の姿勢を取っている。
やがて王冠を戴いた若い男と、大仰なデザインの純白のドレスを纏った女性が歩み出て――。
割れんばかりの喝采のなか、ゾラはぽかんとバルコニーを見上げていた。
『ナナ……?』
見間違えるはずはなかった。
ドレス姿の女性は紛れもなく、自分がともに過ごしたナナの元々の姿である。装いは違えども、厚く化粧をしていても、ゾラにはその女性がナナであることがはっきりと分かった。
『現王様ー!!』
『アンナ様ー!!』
いくつもの声や拍手の音。それらはまったくと言っていいほど、ゾラの意識には入らない。バルコニーのナナ――否、アンナ王妃。彼の頭にはそれしかなかった。
やがて王様が片手を上げると、喝采が鎮まった。
『ご機嫌よう、都の民よ。諸君が此度の婚礼を我が事のように喜んでいるその心根、しかと我に伝わっておる。空を見よ。本日の快晴は天からの祝福である。グレキランス現王たる我が、この地に一層の発展と変わらぬ安寧をもたらすための伴侶を得た事実を、万物が祝福している。然るに――』
王様の声は天高く反響した。おそらくは王都中に届かせるため、なんらかの魔術が用いられているのだろう。空に浮かんだ映像と同じように。
ゾラは、王様の言葉に真面目に耳を傾けるのをとっくにやめていた。ひと言目から、どうにもその傲慢さに鼻白んでしまったのである。そんなことよりも、一歩引いて隣に佇む妃に意識のすべてを向けていた。
獣人の感覚は人間よりも優れている。嗅覚、聴覚、そして視覚。バルコニーとゾラとの間には随分と距離があったが、彼には妃の顔がよく見えた。
化粧で上手く隠してはいるが、右頬が妙に赤い。そして少しばかり腫れているように見える。
『――それでは我が伴侶からも、民への言葉を授けよう』
波のように高まっては鎮まる拍手。静寂に押されるように、妃は一歩踏み出した。
息を吸う音が拡大され、まるでなにかを暴き立てるように王都中に反響した。
『ご機嫌よう、皆様』
ゾラは口を引き結び、バルコニーをひたすら見上げる。
彼女の声もまた、ゾラの記憶に色濃く刻まれているナナのものと同じだった。しかしながら、昨日聞いた声よりも随分と印象が違っている。
ゾラの知るナナの声は、自由奔放なのに、ふとした瞬間無性に寂しげになる声だった。今バルコニーから響いてくるのは窮屈で堅苦しい調子である。
『わたくしは父であるラインズ卿の娘として、今日まで育てられて参りました。素晴らしい教育を授けてくださった父と母に、まずは感謝を申し上げます。現王様のお傍に仕える幸甚を賜りましたのも、父と母の献身的な教育と、現王様の寛大なお心遣いあってのことでございます』
聞いていられない。ゾラは素直にそう感じた。しかし王様の声とは違って、意識の外側に放り出すことなど出来なかった。
一音一音。わずかなブレスさえも耳が逃してはくれない。
『わたくしは今、幸福の絶頂におります。現王様の、まさしく福音たるお声を傍で聞き、尊き生をともに歩めるのですから。わたくしは幸せ者でございます』
――アタシを攫ってよ。
『王都のため、現王様のため、この身を捧げることが許された幸せを、天に感謝いたします』
――どこか遠くまで、一緒に。
『誠心誠意、王都グレキランスに奉仕して参ります』
最後に、妃は深々と頭を下げた。
一秒。
二秒。
刻々と時間が経過していく。
やがて頭が持ち上がる。そこにはよく躾けられた、行儀のいい笑顔があった。
刹那――。
『何者だ貴様!?』
兵士の槍が目前に迫る。否、ゾラ自身が空中へ躍り上がり、刃へと接近しているのだ。獣人の脚力をもってすれば、跳ね橋付近からバルコニーまでの距離は一度のジャンプで届きうる。
バルコニーまで残り二メートル。背負った籠の中身が宙を舞う。
『エミール……?』
彼女は確かにそう呟いた。それが王都中に拡散されたことは言うまでもない。
槍で突かれる寸前、ゾラの目には驚きに染まったナナの顔と、彼女を睨む現王の醜い表情が映った。
ほとんど直情だけで飛び出したゾラだったが、それぞれの顔を目にした瞬間、自分はなにひとつ間違っていないと悟った。
突き出された槍の穂先を掴み、奪い取る。ほかの槍は空中で身を捻り、見事にかわした。
そうして滑り込むように着地するや否や、妃を片手で抱き上げる。
腕のなかで目を丸くする妃に、ゾラは明瞭な口調で告げた。
『遅くなったが、あんたを攫いにきた』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『変装魔術』→姿かたちを一時的に変える魔術。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『隠蔽魔術』→魔力を包み込むようにして隠す術。術者の能力次第で、隠蔽度合いに変化が出る。相手の察知能力次第で見破られることも
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




