866.「若年獣人の長き旅④ ~はじめての喧嘩~」
たとえ悲劇が待っていることが約束されていても、ゾラの話にのめり込んでしまった。
理由はひとつ。わたしが乙女だからだ。
「王都でデート! どこに行ったの?」
わたしの勢いに引いたのか、ゾラは少しばかり顔を引きつらせ、それから苦笑した。
「食堂だとか、服屋だとか……あとは装飾品屋や雑貨店、露店を冷やかしたりもしたな」
「いわゆるお買い物デートね」
「……物識りだな」
「乙女のたしなみよ」
まあ、わたしの頭にある恋愛関係の知識なんて、王立図書館で読んだ甘酸っぱい恋物語だとか、こぼれ聞いた噂話の断片だとか、その程度のものでしかないけど。
わたし自身は、ハッキリと意識してデートなんてしたことがない。騎士としての矜持を第一に考え、カチコチに凝り固まった日々を送ってきたのだから。振り返ってみると少し――否、だいぶ――寂しいものだ。
「それで、どこまで進展したの?」
「どこまでとは?」
「あるじゃない、ほら、恋のステップアップとやらが」
「……クロエよ。お前はなにか勘違いしている。俺がしているのは浮ついた恋の話ではない」
そうだった。近頃めっきりそんな話と出会わなくなっていたから、ついついのめり込んでしまった。
「そうだったわね。続けて頂戴」
クスクス笑いを漏らすミスラを咳払いでたしなめ、ゾラは昔話を再開した。
◆
『嗚呼、楽しいわ! 素敵なお店がたくさんあるんだもの、とてもじゃないけど今日一日じゃ回り切れない!』
嬉しそうに破顔するナナの隣を歩きながら、ゾラはかつてない満足を感じていた。王都には実に様々な品がある。ルドベキアと比較するのもおこがましいほどに。
特に、食事にはびっくりしてしまった。豚のステーキも付け合わせのサラダも濃いソースを纏っていて、舌に刺激的な体験をもたらしてくれた。それだけでも頭がくらくらするくらいだったのだが、デザートのアイスクリームには卒倒しそうなほどの衝撃を受けたものである。王都のなかでは粗野な部類の店構えの食堂だったが、それでも彼を驚かすには充分だった。
昼食のあとに露店で買った、小さい透明な容器に入った水飴も絶品だった。肉や野菜ならゾラも生活の延長線上で理解出来る代物だったが、甘味だけはそうもいかない。果実とはまったく異なる幸福な味に、ゾラはすっかり魅了されていた。
だからこそ申し訳なくもある。
『全部払ってもらって悪い』
物々交換が出来るのならば食料を差し出すのだが、食堂も露店も貨幣での支払いである。したがって持ち合わせのないゾラはナナの好意に甘えるほかなかった。
『いいのいいの。いつかお返ししてくれれば』なんて彼女は上機嫌で言う。代金の多寡もさして考えてないみたいな振る舞いだった。食堂でも露店でも、彼女は必ず金貨を出して店主を困らせたのである。そして『お釣りはいらないから』なんてウインクする始末。
物には相応の値段があることくらいはゾラも知っている。つまり彼女は、金銭面ではまったくと言っていいほど困っていないのだろう。
そう考えると不思議なことがある。衣服、装飾、小物、雑貨――要するにかたちのある物はこれまで購入していない。せいぜい香水を買うかどうか迷った程度である。それも結局、買うことはなかった。
『服や小物は買わないのか?』
路地を歩きながら、ゾラは思い切ってたずねる。するとナナは、小さくため息をついて空を見上げた。
実際のゾラなら彼女を見下ろせるくらいの身長があるものの、変装している状態では彼女より頭ひとつ分も小さい。だから、表情はよく見えなかった。
『持ち帰ったら、きっと見つかっちゃうから。せっかく買ったのに捨てられちゃうのは嫌だもの』
『……それはどういうことだ?』
『さあ、どういうことかしら。アタシにも分かんない』
せっかく買った品物を捨ててしまうようなひどい真似を誰がするのだろう。
そういえば、と思い、ゾラはもとの姿の彼女を頭に浮かべてみた。年齢はよく分からないが、子供とも大人とも言えない感じだった。伴侶がいるのかどうかも分からない。父母のことも。そして彼女自身のことも、ほとんど知らない。
『あんたは、どういう人間なんだ?』
『楽観的な人間だってよく言われるわ』
『そういうことじゃなくて、どういうところに住んでて、家族はどんなで、それと――その、は、は、伴侶は、いる、のか、とか』
落ち着け、と自分自身に言い聞かせても声が上擦ってしまった。なにを気にしているんだと我ながら馬鹿馬鹿しく感じながらも、冷静さを装うのは難しかった。
不意にナナの視線が落ちる。
彼女の左手の、絹のように滑らかで繊細な白い指。そのひとつに素っ気ない指輪が嵌められている。ゾラが魔術をかけたのは大雑把に顔と衣装くらいのもので、装身具についてはそのままだ。つまり指輪は、彼女がもともと身に着けている物である。
顔を上げたナナは、歩きながら弾けるような笑顔を見せた。
『明日結婚式なの。だから、幸せいっぱい』
ゾラは思わず足を止めた。
数歩先で彼女も歩みを止める。
振り返る。
やはり、笑顔。
人間の世界の有り様などゾラには分からなかったが、結婚前日に見知らぬ男と歩き回るなど言語道断だと思ったし、なんとなく裏切られた気にもなっていた。ただ、彼が足を止めた原因はそれではない。
『笑わなくていい』
『え?』
『そんなふうに笑わなくていい』
彼女の笑顔はとても自然で、手慣れた表情で、ほとんど破綻なんてない。顔立ちだって、もとのそれとは違う。けれどもゾラは、その笑顔が決して純粋なものではないことを直感したのだ。アイスクリームを頬張ったとき、あるいは気に入った洋服を見つけて駆け寄るとき――そういうふとした瞬間に見せる笑顔とは決定的に違っている。
ナナは手を後ろで組み、ツン、と口を尖らせた。そして拗ねたように俯く。
『じゃあ、貴方がアタシを攫ってよ』
唐突な言葉に、今度はゾラが『え』と返す番だった。
『どこか遠い場所までアタシを連れてってよ』
『遠い場所……』
青々とした木々が――見慣れた樹海の景色が、ゾラの脳裏に蘇る。人間にとって、樹海は途轍もなく遠い場所だろう。距離的な意味ではなく。
これまでゾラは両者の世界がさほど離れていないとおぼろげに想像していたが、実際に人間の世界を目の当たりにして違いを実感した。こことあちらでは、なにもかも違う。交易を諦めるつもりはさらさらないが、それでも互いの生活にどこまでも隔たりがあるのは事実だった。
『……あんたには、あんたの居場所がある。それに俺は、あんたとは、あまりにも違う。だから――』
『違ったっていい。だって貴方はアタシを人間扱いしてくれたもの』
『なにを言ってるんだ……? あんたは人間じゃないか』
『そういうことが言いたいんじゃないの』
『じゃあどういうことが――』
不意に、彼女の手が拳を握った。目付きも鋭くなる。そして――。
『うるさい! 貴方になにが分かるって言うのよ!!』
急に怒鳴られたものだからゾラは面食らったし、冷静さも吹き飛んでしまった。
だからだろう。安直にムッとしてしまった。
『俺は当たり前のことを聞いているだけだ! 急に大声を出すな!』
『貴方だって大声じゃないの!』
『先に叫んだのはあんただ!』
『なにもかもアタシが悪いって言うの!?』
『そうは言ってない! なぜ俺の言葉を取り違える!』
『誤解されるようなことを言うのが悪いのよ!!』
『誤解するほうが悪いに決まってる!』
ときおり、ひょいと路地に顔を出して二人の喧嘩を眺める者がいた。いつの間にやら野次馬根性たっぷりの連中が現れて、遠巻きに観察してもいる。
しかしそんなこと今の二人にはおかまいなしだった。
『アタシの奢りで美味しいもの散々食べたくせに怒鳴りつけるわけ!?』
『それとこれとは話が別だ! 食事は感謝してる!』
『どういたしまして! じゃあ謝って!』
『なにを!?』
『怒鳴ったこと!!』
『先に怒鳴ったのはそっちだ!』
『もう!! 貴方はなんにも分かってない!』
『そっちだって、俺のことをこれっぽっちも知らないじゃないか!!』
あちこちの窓や、路地の角、あるいは店先から野次馬たちの視線が飛ぶ。へらへらと笑っている顔もあった。
喧嘩が佳境に達するとき、ナナに唐突な変化が起こった。
『――アッハッハッハ!』
笑い声が路地に反響していく。ナナの目尻には涙が浮かび、口はぷるぷると微動していた。お腹を抱え、身を捩り、果ては路地の壁にもたれて空を仰ぎながら笑う彼女を、ゾラはぽかんと見つめるしかなかった。
なんだか先ほどまでの喧嘩が無性に馬鹿馬鹿しくなって、ゾラも一緒に笑ってしまった。
やがて笑いが引いていき、彼女は指先で目尻を拭う。『あー、おかしい』
『まったくだ』
『誰かとこんなふうに喧嘩したのはじめて』
『もう少しで掴み合いになりそうだったな』
『ほんと、それ』
呆気に取られたのは野次馬たちである。傍から見れば、なんともふざけた二人だった。
『ありがとう、エミール』
『どういたしまして……でもなぜ感謝を?』
『アタシと喧嘩してくれて、ありがとう』
『あ、ああ』
彼女は『さて、と』と呟いて壁から身を離した。『もう帰らなくちゃ』
もう時刻は夕方で、一日一緒に遊び回ったのは事実だった。
ゾラは咄嗟に布袋に手を突っ込み、なかから小さな木彫りの指輪を取り出し、彼女の手に握らせた。ほとんどなにも考えていない反射的な行為だった。
『……これは?』
『やる。本当は王様に渡すつもりだったけど。……王都じゃ安物にしか見えないだろうけ――』
気が付くとゾラは、ぎゅっと抱きすくめられていた。
驚き、戸惑い、しかし、どうにも心が温かい。
『ありがとう。今までもらったどんな贈り物よりも嬉しい』
何秒経ったろうか。
ゾラは、この瞬間が永遠に続くよう強く強く祈った。しかし、当然のことながら祈りは通じない。
身を離した彼女は少し泣いていた。でも笑顔だった。作り物じゃない、本物の笑顔。
『じゃあね、エミール。貴方に会えてよかった』
言って、彼女はゾラの頭上、ずっと高い位置を撫でた。あたかもそこに誰かの頭でもあるように。
ナナが撫でた位置がちょうど本物の自分の頭のあたりだと気付いたのは、彼女がいなくなってからだった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『王立図書館』→王都グレキランスにある図書館。クロエが好んで通っていた場所
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




