863.「若年獣人の長き旅① ~出立~」
「力というものに憧れがあったかというと、決してそうではない。むしろもっと穏やかで優しいものにこそ憧れていた。弱さが許される世界が欲しかった」
ゆえに俺は、人間の世界に朧な憧れを持っていた――ゾラはそう前置きをして語り出した。過去を忍ぶでもなく、感情を昂らせるでもなく、ただただ淡々と。
「ルドベキアで次期酋長の話が持ち上がったとき、俺はまだ小僧だった。正確には覚えていないが、百年も生きていなかったように思う」
「……あなたは今いくつなの?」
思わず口を挟んだわたしを、ゾラがたしなめる。「忘れた。人間と俺たちとでは時間の流れ方が違う。特にタテガミ族は長命だ」
種族ごとに命の長さが異なるのは、わたしも知っている。竜人も長生きするらしいし、血族はそれ以上の命を持っているだろう。それでも反射的に疑問を覚えてしまうのは、わたしが人間としての物差ししか持っていないからに違いない。
「そうよね。ごめんなさい、続けて」
話の邪魔をしない程度に、それとなく足を崩す。
ちらとわたしの動きを目に留めてから、ゾラは続けた。
「ルドベキアで酋長に選ばれるには、そこに住む者の支持が必要になる。そのためには、明確な実績を得るのがもっとも早道だ。納得のいく材料さえあれば支持は得やすい。先代もそうして酋長になったからな」
脳裏に二体の獣人の亡骸が浮かぶ。先代酋長アルビスと、側近のエルド。
もやもやとした憤りを覚えつつも、そこに拘泥してはいけないと自分自身に言い聞かせた。
「小僧だった俺が閃いた『実績』は、人間との対等な関係構築だった」
ゾラは立ち上がり、小山を為している財宝へと歩んだ。
「ここにある宝はすべて、俺の弱さの証だ」
◆
『それじゃ、行ってくる』
『本当に行くのだな……。充分、気をつけよ』
人間に変装したゾラは、背中の籠を背負いなおし、酋長アルビスへと笑みを向けた。
自分なら問題なくやりおおせる。そう意気込んで、彼は樹海を駆けた。籠には贈り物の食料がたっぷりと入っている。日持ちのする果実やら、干し肉やら、芋やら。
腰に下げた布袋には、アルビスの親書がキチンと収まっている。道中、ゾラは何度もそれらの品々を確認した。不意に消えてはいないかと。
樹海を抜け、尾根を通過し、ゾラはようやく街道へとたどり着いた。全速力で野山を駆け続けて、それでも三日ほど経っている。
さて、親書を届けるべき王様はどこにいるか。それが問題である。なにしろゾラは、人間の世界――厳密にいうとグレキランス――のことはほとんどなにも知らないと言っていい。
誰かに聞けばいいものだが、失敗の許されない物事である。ゆえに往来を行く馬車や旅人に声をかけようとして躊躇い、結局彼はひとりでとぼとぼと歩いていた。
日が暮れても歩き、夜が明けても歩き、人間を見れば身体を竦ませて早足で通り過ぎる。そんな自分を恨めしく思いながらも、どうにもならない。
樹海を出て五日後。街道から離れた草むらで腰を下ろして休んでいると、不意に声をかけられた。
『やあ、旅をしているのかい?』
ゾラはぎょっとして振り返った。すぐ後ろに立っていたのは農民らしき男である。額に汗を浮かべ、ほがらかな笑みを浮かべている。
男の接近に気付かなかった自分自信の油断を呪いながらも、ゾラはそれを好機だと捉えた。
『え、あ、王様の、ところまで、行きたいんだが……』
つっかえつっかえ、なんとか口にする。
男は『ああ』と納得したように頷き、草原の先を指さした。
『あっちへずぅっと行くと王都さ。そこに王様がいる』
『あ、ありがとう』
『お兄さんは、なんで王都まで?』
『え? あー、し、親書を届けに……』
『親書ってなんだぁ?』
『ええと、うちの街を、あー……認める? いや、交流するために、たぶん、親書が必要だと、思って……』
汗が止まらなかった。なにを言えば正解なのかも分からず、もうほとんど逃げ出したいくらいの気持ちだった。
が、男はそれで納得したらしく『なぁんだ』とにこやかに笑った。『誓約のことかぁ。交易するには必要だもんなぁ』
『……交易?』
『そう、交易だぁ。物を売ったり買ったりってことさぁ。そういうのを個人じゃなくて、村とか町とかでやるためには王都で、認めてくだせぇ、ってしなきゃいけねえんだよ』
手を合わせて拝むジェスチャーをする男を見て、ゾラは『へぇ』と嘆息交じりの返事をした。
『せいやく、ってのは難しいのか?』
『いんや、簡単さね。紙にサインするだけ。うちの村長がそう言ってたっけなぁ』
その程度のことで対等な交流が出来る。男の言葉は、ゾラにとって祝福そのものだった。
人間の世界とルドベキアは、ほどなく繋がるだろう。そして交易とやらもはじまるに違いない。
『なあ、あんた。売ったり買ったりってのは、どんなだ?』
『どんなだって……そりゃ、金と品を交換すんのさぁ。品物同士を交換するってこともある』
『なにが価値が高いんだ?』
『そりゃもう金ピカのモンだとか、綺麗な布とか、酒とか、そんなモンさぁ』
うっとりと言う男に、ゾラは少しの落胆を覚えた。食い物こそもっとも価値があると思っていた彼にとっては、いささか残念な事実だったのだ。もしかすると贈り物として持ってきた籠の中身は見向きもされないかもしれない。
『これじゃ駄目か……?』
籠を傾け、食料を男に見せる。と、彼は首を横に振って笑った。『充分充分。食い物だって交易の品にはなるって』
『そ、そうか……!』ゾラは嬉しくなって、果物をひとつ男に手渡した。『ありがとう。やるよ』
『いいっていいって』
『いや、貰ってくれ。俺とあんたとの交易だ』
『んじゃ、お返ししねえと。……こりゃ、なんていう果物だい? あんまし見たことねえが……』
『渋林檎だ。肉みたいな果物で、旨いぞ』
とっておきの品である。なかなか樹海でも採れない貴重な果実。でも今回は、籠のほとんど半分を渋林檎が埋めていた。果実のなかでもっとも日持ちのする品だから、という理由だが。
『へぇ、聞いたことねえなぁ。もしかすると高値で売れるかもしれねえぞぉ』
『ほんとか!?』
『はは。実際にどうなるかは出たとこ勝負だけどよ。なんにせよ、ありがとう』
『おう。どういたしまして』
『お礼に、うちに泊まってくか? 王都まで距離あるし、もうじき日も暮れる』
『いいのか?』
『ああ』
◆
「俺はほとんど、認められた気になっていた。人間を怖れ憎むのは習慣としてのものであり、実態は大したことなどないと、本気で思っていた」
ゾラの表情が、ほんの少しだけ苦々しく歪んだ。
人間と交流したことなど皆無だったのだろう。樹海を出たことさえ、はじめてのことかもしれない。ゾラの語った内容は、無知で無垢な少年を想起させた。
ここまでの話のなかで決定的な悲劇は起こっていない。現在のゾラと、樹海に蔓延する人間忌避の風潮。溝となるべき物事はこれから語られるのだろう。
わたしはじっと、ゾラの言葉を待った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『エルド』→ルドベキアに住むタテガミ族の戦士。アルビスを信奉している。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『アルビス』→ルドベキアの元酋長。優秀な魔術師であり、多くの獣人に魔術の手ほどきをした。戦争への参加に反対したが、ゾラとの決闘に敗れ、地下に幽閉された。温和な性格であり、同じく幽閉された小人族の信頼を得ている。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




