862.「ユグドラシル」
「お前が裂いた絹はルドベキアで保管しているなかでも上等品だ。むろん、ここにある杯や冠には及ばぬが」
ゾラの口調は不思議なほどゆったりとしていた。恩着せがましさなど欠片もない。
わたしはというと、さぞや間抜けな顔をしていたことだろう。
それだけ貴重な布をバラバラにしてしまったというのに、請求しないとはこれいかに。ゾラなりの優しさってこと? それともほかに――。
「本当になんにも覚えてないのね」
玉座の隣で、ミスラがくすりと笑う。
なんだか彼女の笑みを見ていると、くすぐったいような、座りが悪いような、そんな気持ちになった。ミスラにもゾラにも怒りの片鱗は見えない。酔っている間にとんでもないことを次から次へと仕出かしたというのに、だ。朝を待つことなくルドベキアから追放されたって文句は言えないくらいの、数々の暴挙である。
なのに――。
「きっとみんな、あなたに感謝してるわ」
感謝される覚えなんてこれっぽっちもない。いや、そもそも酔っ払っている間の記憶はほとんどないんだけど。
「え、っと……それはどうして?」
そうたずねると、一拍置いてミスラとゾラは顔を見合わせ、ほとんど同時に苦笑した。
「あれだけの大演説、なかなか聞けないわよ」
そしてミスラは、しっとりと落ち着いた口調で語りはじめた――。
『なにやってるのよ!? 大事な布を――』
『呑み比べに勝ったんだから、これぐらいいいでしょ』
『ちょっと本当に――ああ!』
『もー、叫ばないでミスラにゃん。大袈裟よ。ゾラにゃんを見倣いなさい。まるで石像よ』
『呆れているだけだ。お前の横暴を止める気力もない』
『つまりオッケーってわけね』
『どう解釈したらそうなるのよ!? ああ、もう、せっかくの絹がめちゃくちゃ……』
『めちゃくちゃじゃないわ。はい、ミスラにゃん。リボン結んであげる』
『はぁ……もう好きにすればいいわ』
リボンを大量生産したわたしは、次々とそれを結んでいったらしい。そばにいた獣人たちはもちろんのこと、宴席に参加していなかった者までわざわざ呼びつけて、ルドベキアにいた全員に深紅の上等な布切れを巻き付けたのである。
『これで全員ね。よしよし』
『クロエ……満足したかしら。いったいなにがしたかったのよ……』
『ふふふ……注目!!!』
『なによっ、大きな声出さないで』
『オホン! わたしがリボンを巻いたのは、もうみんなが仲間だからでーす!!』
『……は?』
『わたしがゾラにゃんに勝ったので、緋色の月と灰銀の太陽は晴れて運命共同体になったのです! 病めるときも健やかなるときも、ふかふかベッドで夢を見ているときも、こうしてお酒を呑んでいるときも、寂しくてたまらないときも、不安で涙が止まらないときも、ずっと一緒なの』
『なに言ってるのかしら……』
『ミスラにゃん。わたしは大真面目よ。わたしたちは本当の意味でひとつになったのよ。バラバラの方角を向いていても、ちゃんとひとつなの。で、ひとつになったからには証が必要。獣人も、半馬人も、有翼人も、竜人も、小人も、トロールも、人魚も、人間も――血族だって。強いとか弱いとか、大きいとか小さいとか、男とか女とか、欠けてるとか、老いてるとか、そんなの全部関係なしにわたしたちはひとつなのよ。この場所でひとつになったの。これって奇跡的なことじゃない? でも現実なのよ。わたしたちは奇跡を現実にしたのよ』
『それって、なんだか――』
ミスラはまるで物語を読み聞かせるような、満ち足りた、遠い眼差しで語った。それを聞いているうちに段々と記憶の断片が蘇り、我ながら大層なことを口にしたものだと苦笑したくなった。
「――ユグドラシルみたい、って。そう思ったのよ」
その言葉を最後に、ミスラはにっこり微笑んで口をつぐんだ。
ユグドラシル。
その名は何度か耳にしたことがある。確か、今はなきラガニア――魔王の城を中心とした地域で語り継がれていた伝説だったはず。具体的な内容については分からないけれど、そういえばテレジアもその単語を口にしていたっけ。
「ユグドラシルって……」
なかば呆然と口に出すと、わたしの言葉をゾラが引き取った。
「空想上の国だ。天にも届く大樹を中心とした地で、緑は瑞々しく、実り豊か。争いなど存在しない。そして……あらゆる種族が共生している」
嗚呼、と開いたままの口から音が漏れる。
『へー。ユグドラシル。そんな場所があるの? え? ないの? 伝説だから? ふぅん……じゃあ、ここが名乗ればいいじゃない。ルドベキア改め、ユグドラシル! 悪くないわ』
昨晩のわたしの声が、じんわりと耳に浮かび上がった。
「この地を改名することはないが、お前の口にした言葉で理想を思い出した者は少なくないだろう」
あらゆるものを分かち合って生きていく、争いのない世界。……とんでもない綺麗事だ。転じてそれを、理想と呼ぶ。
ゾラは紛れもなく、暴力を含む圧倒的な力で樹海を制圧してきた。そんな男がユグドラシルという理想郷を胸に抱いているのは疑問である。けれども、もし力による制圧をせざるを得ないような理由があるのなら――それを知る必要があるだろう。
「ゾラ。……あなたも同じ理想を持ってるの?」
ゾラはたっぷり十秒ほど沈黙してから、緩慢に頷いた。「そうだ」
「なら、ケットシーの集落を滅ぼしたのは……」
踏み込んだことを聞いている自覚はある。でも、避けては通れない疑問だ。もはやわたしはゾラという男に『暴力的な制圧者』以外の姿を見てしまっている。
彼の瞳は、真っ直ぐにこちらへと向けられていた。そこに映るわたしもまた、微動だにせず彼を見上げている。
「俺たち獣人と血族の関係は分かるな?」
しっかり一度、頷いてみせる。
何度か耳にした話だ。すっかり呑み込んでいる。獣人は――他種族は――夜会卿の玩具にされてきた。異種交配だとか、身の毛もよだつようなおぞましい実験が盛んに行われてきたらしい。
『骨の揺り籠』のリフも、そのひとりだ。
「なら、俺たちと人間の関係はどうだ?」
「ええと……」
そもそも獣人は頑なに人間との交流を拒否してきたんじゃなかったっけ。その結果、トムの足が切り落とされたり、エーテルワ―スが追放される羽目になったのだ。いまさらそれをどうこう言うつもりはないけれど、人間と獣人の関係で思いつくのはそれらの悲劇的な実相でしかない。
沈黙を続けるわけにもいかず、口を開く。
「獣人が人間を拒絶していることしか知らないわ」
「そうか。……もとをたどれば逆だ」
「逆……? それって、人間のほうで獣人を拒絶してるってこと?」
「そうだ」
わたしの知っている関係性と真逆だ。
でも、想像は出来る。王都を中心とする人間の社会では、いまだに他種族を忌避する向きがあるから。エーテルワ―スがペルシカムで味わった悲劇にも、それが表れている。
不意にゾラが片手を上げると――。
「っ!」
黄金色の巨体が玉座から消え、代わりに金髪をツンツンと逆立てた、いかにも活発な装いの青年がいた。反面、顔立ちは利発そのものなので、なんだか少し生意気な感じがある。
目の前の青年には見覚えがあった。ニコルとともに凱旋した姿そのままだったから。
「ルドベキアで変装魔術を使える獣人が何人いるか分かるか?」
玉座の青年は瑞々しい声で言った。声までも先ほどのゾラとはまったく異なる。が、獅子のかたちをした魔力――つまりは彼の実体――はくっきりと浮かび上がっていた。それだけが凱旋式のときとは違っている。おそらく、ニコルが彼の魔力を隠蔽してやったのだろう。
「いえ、知らないわ」
「俺だけだ」
つまり、彼だけが姿を偽って人間の世界に飛び込むことが出来るということだろう。
それがなにを意味しているか。
やがて、ゾラは淡々と語りはじめた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『命知らずのトム』→他種族の生態を記した数多くの書物を残した冒険家。獣人に片足を切られ、それが原因で亡くなった。エーテルワースの友人。詳しくは『436.「邸の半馬人」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『リフ』→『骨の揺り籠』の住民。巨人の魔物キュクロプスと、タテガミ族とのハーフ。巨大な身体を持ち、頭には林檎の樹が生えている。夜会卿の統べる街で女性研究者によって生み出された。夜会卿の妾を誤って殺してしまった結果、使用人をしていたキージーとともに街を追放された。臆病な性格。幻覚の魔術を使うことが出来る。詳細は『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『変装魔術』→姿かたちを一時的に変える魔術。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『人魚』→女性のみの他種族。下半身が魚。可憐さとは裏腹に勝手気ままな種族とされている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『有翼人』→純白の翼を持つ他種族。別名、恋する天使の翼。種族は男性のみで、性愛を共有財産とする価値観を持つ。年中裸で過ごしている。王都の遥か北西に存在する塔『エデン』で暮らしている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『ケットシー』→獣人の一種で、猫に似た姿をしている。しなやかな毛で小柄。五感が優れている
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『骨の揺り籠』→身体的ハンデから、口減らしの目的で『異形の穴』に捨てられた獣人のうち、生き残った者たちで作り出した集落。『異形の穴』の底に存在する。詳しくは『第五話「緋色の月~③骨の揺り籠~」』にて
・『ユグドラシル』→魔王の城の存在するラガニア地方に伝わる、伝説上の大樹。また、大樹ユグドラシルを中心として広がる空想上の国を指す。『幕間.「魔王の城~書斎~」』参照
・『ペルシカム』→『魔女の湿原』の外れに存在した村。ローレンスの故郷。魔術師を忌避する価値観が根強い。ルイーザの魔術により壊滅した
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




