860.「ジェニーとクロ」
ルドベキアの南端に到着したわたしは、目を見張った。蛍光色の微光を蹴散らし、ふたつの影がとんでもない速度で地をジグザグに駆けていたのである。それらの軌跡に遅れて、グールやら子鬼やら小型の魔物が蒸発していく。
わたしが足を止めてぽかんとしていると、やがてふたつの影は急停止した。
「あ! クロエだにゃ!」
満面の笑みを浮かべるジェニーと、ちらとわたしを見たきり無表情にそっぽを向く黒毛のケットシー、クロ。
二人の首にはそれぞれ深紅のリボンが結ばれていた。――ということはつまり、わたしがやったというわけだ。ジェニーはまだしもクロにまで……。
苦笑いをするわたしの前で、ジェニーはハッと目を丸くする。それから恭しくスカートの裾を摘まみ、心持ち膝を曲げた。
「ご機嫌よう、クロエにゃん」
乾いた笑いが自分の口からこぼれた。
「クロもご挨拶するにゃ!」とジェニーが促す。腕を取り、わざわざわたしの前まで引っ張り出して。
挨拶なんていらないし、なんなら『ご機嫌ようクロエにゃん』については綺麗さっぱり忘れてほしかったけれど、わたしがそれを言うより先にクロが「ご機嫌よう、クロエにゃん」と律儀に呟いたものだから顔が引きつってしまった。
「ごめんなさい、ちょっとわたし酔っ払ってて……。宴会でわたしが言ったことは全部忘れて頂戴」
「忘れないにゃ!」
うぅ……勘弁してくれ。まあ自業自得なわけだけれど。
「ところで」宴会のことは少しばかり脇に置いて、確認しておきたいことがある。「ジェニーはクロのこと、許したの?」
ケットシーの集落はずっと昔に壊滅している。タテガミ族の侵攻と、クロの裏切りによって。族長を手にかけたのはほかならぬクロである。そしてジェニーを集落外に逃がしたのもクロだ。
その悲惨な記憶が彼女のなかでどれほど大きなものかは、樹海へと出発する前に彼女自身が語ってくれた。刺し違える覚悟さえあったはず。
しかしながらジェニーは、実にあっけらかんとした様子で「仲直りしたにゃ!」と言ってクロの手を無理矢理握った。
それだけでは説明が足りないと感じたのか、ジェニーは続ける。
「んにゃ。クロのやったことは全部は許したり出来にゃいけど、ジェニーはそれでも仲直りすることにしたんだにゃ。もう一度友達になったんだにゃ」
そう言ってジェニーは、繋いだクロの手をぶんぶんと振る。されるがままのクロはというと、相変わらずの無表情だった。
彼に会うのはこれで三度目だ。最初は湖に囲まれた平原でオッフェンバックとともに行動していたっけ。次は『黄金宮殿』でジェニーをボコボコにして見せたのだ。いずれも、話の通じない無情な男という印象である。だから少し不安もあった。
「ジェニーを騙してるんじゃないわよね? 隙を見て裏切るつもりじゃないの?」
するとクロは、すんなりと首を横に振った。「そのつもりはない」
湖で邂逅したときと同じように、彼は澄んだ眼差しでわたしを見つめている。奥底までも見通すような透明な視線だ。
「僕は力以外、信じない。ジェニーは僕に勝ったから、彼女に逆らうことはもうないよ」
「つまり、仲良しに戻ったんだにゃ!」とジェニーは腕を振り上げる。クロの片腕も否応なく持ち上がった。
ジェニーの笑顔が簡単に作られたものではないことは、見ていてなんとなく分かった。困難を乗り越えて、それでようやく笑顔を身に着けている。なんだかそんなふうに思った。
二人にしか分からない感情が、言葉が、戦いのさなかに交換されたのだろうと思う。それをいちいち確かめて評価するのは無粋だし、なにより今、百点満点の笑顔を浮かべているジェニーに失礼だ。
「そう、それは良かったわ」
頷いて見せると、ジェニーはまたもハッと目を丸くした。
「そういえば、言っておかなきゃならないことがあるにゃ」
「なにかしら」
ジェニーはクロに目配せをし、息を吸った。「ジェニーはここに残るにゃ。ルドベキアで暮らすにゃ」
「え!?」
……思わず驚いてしまったけど、考えてみればそう不思議なことではない。ジェニーにとってクロは唯一の同胞だ。これまで人間の世界で暮らしてこれたのは、毒食の魔女の保護があったからである。本来彼女の生きる世界は、やっぱり獣人たちの住む樹海なのだろう。
でも、大丈夫だろうか……。
不安が顔に出てしまっていたのだろう、クロが一歩前に出た。
「ここで暮らすことについてはゾラの許可をもらってる。それに、ジェニーはもう誰かに一方的に虐げられるほど弱くない。僕だってちゃんと、守る」
わぁ……大胆なこと言うなぁ、この子。守るだなんて。それってもはやプロポーズ以外の何物でもないじゃないか。
とまあ、こんな具合にわたしがどぎまぎしてもジェニーはちっともその意味に気付いていないようだし、クロもクロで、そう深刻で素敵な意味として口にしている様子ではない。まったくもう……。
「分かったわ。ウィンストンにはそう伝えておくけれど……いつか自分の口からちゃんと説明するのよ」
もう戻らない。ジェニーはそう宣言して魔女の邸を発ったのだ。ウィンストンとは犬猿の仲に見えるけど、奇妙なかたちの絆めいたものはあったろう。あれで永遠にさよならなんて寂しいに決まってる。
「にぇぁぁ……しょうがないにゃ」とジェニーは渋々言ったけれど、それほど不快そうには見えなかった。
ジェニーなら耳と尻尾を隠して、気軽にイフェイオンを訪れることが出来るだろう。けれども、それじゃ足りない気がした。クロも一緒にいて、二人で和音ブドウを味わってほしいものである。
……そのためには途方もない苦労が必要だ。他種族への先入観を変えるなんて、生半可な努力では出来ない。かつてそれを志した冒険家がいたけれど、結局人間と他種族との関係性に決定的な歩み寄りは生まれなかった。
けれども。
彼の意志は書物として遺され、それを愛読した人間は何人もいる。かくいうわたしもそのひとりなわけだ。
どれだけの時間と労力がかかろうとも、両者の距離を縮めてやる。そんな思いで、わたしはひっそりと拳を握った。
「ミスラには会った?」
クロの言葉で、思考が中途で絶える。
「会ったけど……なんで?」
ミスラには目覚めてすぐに会っている。わたしがなにを仕出かしたかたずね、そして武器を見繕ってもらった。
「怒ってなかった?」
「そこまで怒ってるようには……」
愉快そうな調子ではなかったけど、露骨に怒っている感じはなかった。寝起きだから気付かなかっただけだろうか。
でも、なんで彼女が怒るのだろう。ミスラにもなにかとんでもないことを仕出かしてしまった、とか……?
「このリボン」クロは首元を指さし、淡々と告げる。「宮殿で保管してた布を君がざくざく切り裂いて作ったんだ」
わたしの予感はどうやら的中したようである。
「ミスラは宮殿で衣服だとか織物だとか、そういう手仕事をしてるし、自分でも服を作って楽しんでるから。それに衣装は『四季歓待』でも使う大事なものだし、おおもとになる布も大事な宝物だ」
「え、と……それについて、宴会中にゾラとミスラはなんて言ってたかしら……?」
「無言だった。ひたすら」
どうやらわたしは朝一番でゾラに謝罪しなければならないようだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『クロ』→ケットシー。ジェニーの幼馴染。ルドベキアの獣人とともにケットシーの集落を滅ぼした。詳しくは『Side. Etelwerth「集落へ」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『ケットシー』→獣人の一種で、猫に似た姿をしている。しなやかな毛で小柄。五感が優れている
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて
・『和音ブドウ』→イフェイオンの特産品。皮から果肉を出す際に独特の音が鳴ることから名付けられた。詳しくは『230.「和音ブドウと夜の守護」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




