850.「肌の色と睡眠時間」
壁際のテーブルを挟んで、わたしとミスラは向かい合っていた。
彼女の唐突な疑問を遮って一旦服を身に着けてから、ドレッサーで姿を点検し、それからテーブルへと促したのである。
似合ってるかどうかをたずねたいものだったけれど、さすがにそこまで無神経にはなれない。なにより先ほど彼女の発した疑問は、ドレッサー越しの個人的なファッションチェックの間も胸に引っかかって取れなかった。
『貴女って血族なの?』
彼女は確かにそう言ったのだ。
咳払いをひとつして、たずねる。「それで、どういうことなの?」
ミスラは困ったように視線を泳がせた。迂闊なことを聞いてしまったという後悔が表情に出ている。
やがて彼女は観念したのか、それとも腹を決めたのか、ゆっくりと口を開いた。
「ゾラと戦ってる最中の貴女は、その、人間に見えなかったのよ。具体的には――」
「具体的には?」
ミスラの喉が上下する。
「あの最後の瞬間……ゾラの喉を打った瞬間の貴女は、その……」
本当のところはわたしには分からないけれど、少なくとも『黄金宮殿』ではじめて会った彼女は口籠るような性格に見えなかった。プライドが高く、隙を見せたがらない、竹を割ったようなきっぱりした女性だと感じたものである。それが正しい理解だとすると、彼女がまごつくだけの姿をわたしが見せたのだろう。
心当たりはある。あのときわたしは――。
「入ってよいか?」
不意に声がして、入り口を見やる。布の切れ間に金の毛が見えた。
「どうぞ」
わたしの返事から間を置いて部屋に現れたのは、案の定ゾラだった。全身に負った傷はまだ生々しい。
彼は怪訝な顔でわたしを見やる。
「加減はどうだ」
「え、ええ。おかげさまで」
「諸々勝手な真似をした非礼を詫びよう」
ぺこり、とゾラが頭を下げる。
「い、いえ、こちらこそ、こんなによくしてもらって……。とにかく頭を上げて頂戴」
一体全体なんなんだ。彼は本当にゾラなのだろうか。失礼極まりない解釈だけれども、こんなふうに恭しく言葉を発したり頭を下げたりするタイプだとは思ってなかった。ましてや殺し殺されるような決闘のあとだ。恨みのひとつやふたつくらいあるのが自然なのに。
顔を上げた彼は、柔らかな無表情だった。
「寝心地は悪かったか?」
「え? いいえ、むしろすごくふかふかで気持ちよかったわ」
「……そうか。ミスラが起こしてしまったのだろう。申し訳ない。我々は退散するので、ゆっくり眠るといい」
さっきからミスラといいゾラといい、なんで睡眠のことばかり言うのだろう。人間を甘く見過ぎなのではないか。まあ、獣人に比べれば貧弱な生き物であるのは間違いないけど。
「たっぷり寝たから平気よ。お気遣いなく」
するとゾラは妙な具合に口を歪めた。たぶん、苦笑なのだろう。
それはそうと――。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「なんだ」
わたしの向かいではミスラが俯き気味に顔を逸らしている。ゾラの来訪にばつの悪さを感じているのだろう。あるいは、疑問が解消されないまま遮られてしまったことに不満を覚えているのかもしれない。だとしたらなんの心配もない。
「ゾラ。あなたの率直な感想を聞きたいんだけど、決闘中のわたしは人間に見えたかしら?」
一番近くでわたしを見ていたのは紛れもなくゾラだ。彼の意見を聞くのが一番早い。
「……なにが聞きたいのだ」
なかば無意識に唇を噛んでいた。わたしはまだ決定的な問いを口にするのを避けている。不愉快なものを見ないふりするように。臭い物に蓋をするように。
そんな態度じゃ、真実なんて決して得られないだろう。
長いまばたきののち、ゾラの瞳を覗き込んだ。
「最後の瞬間、わたしの肌は紫色だったかしら?」
目の前でハッとミスラが顔を上げる。
やっぱりミスラはそれを口に出そうとしていたのだろう。
「そうだ。お前は――血族の色をしていた」
ゾラの口調は軽くもなく、しかし重くもなかった。一定の配慮が籠められた声。
決闘の最後――ゾラの喉へと突きを繰り出す瞬間、紫色の左手を、わたし自身の意識が捉えたのだ。ゾラにもミスラにも同じように映っていたのなら、わたしの錯覚ではない。現に、疑いなく、わたしの肌は血族の色に変化していたのだろう。
「……大丈夫か?」
視界にはテーブルの木目だけがある。
せっかくの服が皺になるのも理解しながら、自分で自分をきつく抱いていた。
全身が震えていることも気付いてる。でも抑えが利かないのだ。
「……平気」と、たったひと言返事をする。冷や汗が背を伝った。
今のわたしは当たり前の人間の肌をしている。けれどもそれは、なんの慰めにもならない。
「……わたしは人間よ。わたしの知る限り」
ベッドからゾラとミスラを見上げて言う。
あれからゾラは、震えるわたしを抱き上げてベッドまであっという間に運んでしまったのだ。少しだけ抵抗したのだけれど、甲斐はなかった。彼はわたしを横にすると素早くシーツを掛け、こうして落ち着くまでベッドサイドにいてくれたのである。ミスラも彼に倣って、そばにいてくれた。
取り乱して泣いたり叫んだりしなかった自分を褒めてやりたい。実際、つい先ほどまで感情が爆発しそうになっていたのだから。それも、横になって深呼吸するにつれて落ち着いていった。
「それについて我々は評価しない。お前がどうあろうとかまわん」
そう言ってゾラは腕組みをした。
「え、ええ、そうよ」とミスラも同意する。
ゾラの淡々とした言葉も、ミスラの曖昧な同情も、等しく心に染み渡る。それで真実の尾を掴めるわけでもなければ、ましてや事実が変わることはないのだけれど、やはり慰めは偉大だ。必要な言葉が自分の引き出しにちゃんとあることが分かっていても、それを誰かから言ってもらえることで救われるときもある。今のわたしみたいに。
だからわたしも素直に返す。
「ありがとう」
香炉から漂う豊かな香りが、優しく鼻を撫でる。
しばらく横になっていたい気分だけれど、あいにく眠れそうにない。やっぱりわたしは寝過ぎているのだ。たぶん、一週間くらいは経過しているんじゃないか。ハックやヨハンはどうしているだろう。
「『灰銀の太陽』のみんなは、どこに?」
「ルドベキアで休息している。今後のことは明日話す段取りだ。今はお前も休むといい」
「いえ、もう充分休んだわ」
ベッドに横たわっているのも悪くないけれど、彼らも暇ではないだろう。こうして面倒をかけているのが今さらになって申し訳なく思えてきた。
とはいえひとりになりたくはない。つまり、わたしは起きて『灰銀』のみんなのところへ行くべきなのだ。
ベッドから降りるわたしを、ゾラがしげしげと見やる。そしてぽつりと漏らした。
「ミスラから聞いていたが、傷はもうないのだな……」
「ええ。完治したわ。たっぷり寝たおかげよ」
むしろ、ゾラの傷がまだ生々しいことが気がかりだ。おそらくはこれまでほとんど無傷で生きてきたのだろう。肉体が傷に慣れていなくて、やたらと治りが遅いのかもしれない。
ゾラとミスラが顔を見合わせ、互いに怪訝そうな表情を浮かべた。
「女よ」
「わたしはクロエよ。ちゃんと名前で呼んでくれないかしら?」
さすがにいつまでも性別で呼ばれるのはちょっと複雑な気分になってしまう。
「クロエよ」
「なに?」
首を傾げる。するとゾラは、やけに神妙な顔をした。
「お前の傷は、湯殿に運んだときには完治していた。傷ひとつなかった。――そうだな、ミスラ」
「ええ。……包帯を巻く必要もなかったけど、ゾラ、貴方に命じられた通りに一応巻いたわ」
……どういうこと?
「湯殿に運んだって……それはわたしが気絶してから何日も経ってからのことよね?」
でないとおかしい。二日や三日で完治するような傷ではなかったはず。これまでもわたしの治癒力は素晴らしいものがあったけど、それはあまりに異常だ。
が、ゾラは首を横に振った。
「俺とお前の戦いに決着がついてから、まだ二時間も経っていない」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




