849.「四季歓待の儀」
目が覚めて最初に見えたのは、薄黄色の微光を帯びた天井だった。
顔を動かし、周囲を眺めやる。唐草模様の絨毯の敷かれた、石造りの広々とした部屋だった。四方の壁には赤地の布が貼られていて、金糸で描かれた緻密な曲線が微光を透かして煌めいている。布の一部に切れ込みが入っており、どうやらそれが出入り口であり扉代わりらしい。
室内には机、棚、さらにはドレッサーまで用意されていた。どの家具も重厚な焦げ茶色の木材を使用しており、表面はコーティングされているらしく滑らかである。そしてわたしが寝ているベッドは清潔な白で、三人くらいなら悠々と横たわることの出来るくらいのサイズだった。しかもふかふか。
「ん……」
半身を起こして大きく伸びをすると、背骨がポキリと鳴った。ぐっすりと眠っていたようで、すっかり疲れは取れている。頭痛も眩暈もない。
「……あれ?」
ベッドから抜け出て、自分の身体を点検する。どうしてかわたしは首から上を除いて、全身にぐるぐると包帯を巻かれていた。染みひとつない白に覆われている。感触からするに、どうやら素肌の上から巻かれているようで下着さえつけていない。
確か、と記憶をたどる。『灰銀の太陽』の勝利が確定してから一旦休憩を取ることになって、ゾラに抱き上げられたまま宮殿に入っていったような……。
そこから先はどうしても思い出せない。たぶん、そのタイミングで気を失ったんだろう。
ベッドに腰をかけると心地よい弾力を感じた。その素敵な感触とは裏腹に、わたしの気分はみるみる沈んでいく。
誰かがわたしを裸にして、治療した上で包帯を巻いてくれたのだろう。そして、こんなにも豪華な部屋で寝かせてくれた。申し分ない厚遇だけれども……情けなさと恥ずかしさで胸がいっぱいだ。
不意に靴音がして、慌ててシーツのなかに飛び込んだ。たとえ包帯に覆われているとしても、誰かに見られたくはない。包帯は衣服ではないわけで、つまりわたしは裸同然なのだ。我ながら妙な理屈だけれど、そう感じたのだから仕方ない。
「あれ、起きてるじゃない」
肩まですっぽりとシーツにくるまったわたしが見たのは、銀の盆を手にしたミスラの姿だった。
彼女は部屋の真ん中まで来ると急に口元を引き締め、その場に硬直した。視線はじっとこちらに向いている。
それから彼女は、どうも緊張した様子でわたしのそばまで来ると、盆からサイドテーブルへなにやら手のひら大の銀器を置いた。上部に放射状の隙間があって、そこからうっすらと煙が上がっている。
「ミスラ」
「ひっ」
どうしてか彼女はびくりと身体を震わせた。目付きもなんだか怯えている。
なんでだろうと思った矢先、自然と答えらしきものが頭に浮かんだ。
ああ、そうか。今のわたしはゾラを倒した相手で、しかも戦闘模様も普通じゃなかった。びくびくしてしまうのも無理はない。
「それ、なに?」
シーツから手を出して銀器を指す。するとミスラは、ほっと息をついた。
「香炉よ」
言われてみれば、なんだか空気がまろやかに華やいでいる。
香炉自体はわたしも知識くらいはあった。王都では一部の富豪が嗜むくらいで、一般的にはあまり使われていない。もちろんわたしもお香を経験するのははじめてだ。
「へぇ……ルドベキアでもお香を焚くのね」
「滅多に焚かないわ。儀式のときだけ」
「儀式?」
「四季歓待の儀。一年に四回、この部屋に四季を招くのよ。それで、今貴女にしているみたいにおもてなしするわけ」
「四季って季節のことよね? それを招くっていうのは?」
ミスラは苦笑しながら、盆から薄い色味の木箱をサイドテーブルに移した。たぶん香木が入っているのだろう。
「ただの真似事よ。四季がかたちを宿してやってきたっていうふうに仮定して、お香を焚いたり食事を振舞ったりするの」
へえ。それはなんだか面白い風習だ。
「昔からやってるの?」
「いいえ。ゾラが長になってからはじまったのよ」
なんだかゾラのイメージに合わない。まあでも、誰だって見かけによらない一面はあるものだ。
ミスラがなんだか立ち去りたそうにしているので、わたしは先を制した。「ねえ、座ってゆっくり話をしましょう」
サイドテーブルにはお誂え向きに椅子が一脚置いてある。
「忙しいから、またあとで――」
「時間は取らないわ。いくつか確認したいことがあるだけ」
今を逃しても誰かと会話するチャンスはあるだろう。けど、それまでシーツにくるまって悶々と過ごすのは避けたいものだ。
ミスラは何度か入り口とわたしとを見比べて、諦めたのか椅子に腰を下ろした。口元は不機嫌そうに尖っているけれど、瞳には不安がありありと浮かんでいる。
「ミスラ。まず聞きたいんだけど……わたしが気絶したあとのことを、あなたは知ってるかしら?」
「……ええ。ゾラが宮殿まで運んで、わたしに世話をするよう命じたのよ」
「じゃあ包帯を巻いたのって――」
ミスラが頷く。
ひとまずよかった。相手が獣人だろうとなんだろうと、意識を失っている間だろうとなんだろうと、男に裸を見られたくない。
あれ?
なんだか前にも同じようなことがあったような……。
ああ、そうだ。魔女の邸の壮年紳士――ウィンストンだ。確かトリクシィに受けた傷を治療するために、彼に素肌を晒したんだっけ……。うう、今思い出しても恥ずかしい。
「なに赤くなってるの」とミスラは呆れた口調で――でも遠慮しいしい――言った。
「違うのよ。前にも気を失ってる間に治療されたことがあるの。そのときは男性だったから」
「男のほうがよかったって?」
「そんなことない! 絶対にない!」
あは、とミスラはちょっぴり笑う。それでわたしも少し安心出来た。
笑いが引いていって、しばしの沈黙が降りる。
「それじゃ、ゆっくり休むといいわ」
言って、ミスラは立ち上がる。
「睡眠はもう充分。身体の痛みも消えたし、疲れも全然残ってないわ。そろそろ起きたいんだけど、その、わたしの服はどこかしら?」
もともと着ていた服もそうだし、荷物という荷物が見当たらない。布袋もサーベルも、見る限りこの部屋にないのだ。
ミスラはひどく怪訝な表情を浮かべたのち、ゆるゆるとドレッサーを指さした。「そこに服が入ってるから、好きな物を着ていいわ」
そんな顔をしなくてもいいのにと思ったけど、今は服のほうが重要だ。するりとシーツを抜け出てドレッサーを開ける。
「わぁ……」
思わず漏れた自分の声は、いかにも感動に満ちていた。ぽかんと開いた口がなかなか閉まってくれそうにない。
「気に入った? どれも上等な品のはずよ」
ミスラの誇らしげな声がしたけれど、わたしは衣装から目を離せない。
背中が大きく開いた、丈の短い絹のドレス。薄桃色のワンピース。物凄くふりふりのレースがあしらわれた服もあれば、シックな衣装もある。そして奇妙なことではあったが下着まで用意してあった。
「これ、好きに着ていいの!?」
「え、ええ。どうぞ」
ミスラに見えないように小さく拳を握る。予期せぬ幸せが今わたしの目の前にある。
「着替えるから背中を向けてもらえるかしら」
「じゃあ、私はこれで――」
「ごめんなさい、まだ少し聞きたいことがあるのよ。それに誰かが入ってきちゃったら大変だし、ここにいてくれないかしら」
「……はいはい」とミスラはため息交じりに返した。
ごめんねミスラ。こればかりはわたしのわがままだ。でも、ちょっとだけ付き合ってもらいたい。そして出来れば似合ってるかどうかの意見を忌憚なく聞かせてほしい。だってミスラは獣人のなかで、唯一服を着ているのだ。そしてセンスも悪くない。
あれやこれや悩んだ挙句、ようやくわたしが手にしたのは膝丈の、長袖のワンピースだった。色は深紅で、腰を黒の革ベルトできゅっと締める作りになっている。裾と袖、そして襟に黒のレースがあしらってあって、フォーマル過ぎず遊び過ぎず、といった感じである。
するすると包帯を解いていく。身体の傷はすっかり消えていて、随分長く眠っていたんだと感じた。でも、まあ、時間の経過についてはあとで考えればいいことで、今大事なのは服が合うかどうかだ。
ちょうど裸になったところでミスラの声がした。背を向けたまま、深刻な口調で。
「ねえ。貴女って、血族なの?」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




