幕間.「魔王の城~尖塔~」
魔王の寝息は一定で、本格的な眠りについたことを示していた。
ニコルはそっとベッドを抜け出してバルコニーに出た。肌を撫でる微風と降り注ぐ月光に、ニコルは満足感を覚えた。
いかにも魔族的な夜。真昼に生きることの出来ない有象無象の気配を、彼はそこかしこに感じた。
ニコルは目を瞑り、空を往く鳥を想像する。どこまでも自由で優雅なその姿を。
じわじわと背中がむず痒くなり、腕が四本に増えたような感覚を得る。
彼の背には白く輝く翼が出現していた。無論、魔術の産物である。飛翔魔術『光の翼』。魔王の城に至る旅路の後半でようやく会得した特殊な魔術だった。
飛び上がって城を旋回する。ぐんぐんと高度を上げ、やがて最も高い尖塔に到着すると翼を畳んだ。
やっぱり慣れないな、とニコルはひとりごちる。五体とは別の新しい部位を擬似的に得る感覚は、いかに器用なニコルといえども違和感を拭い去れなかった。
尖塔に腰かけて広大な敷地を眺める。
茨の庭園、積痾の丘、無痛の門……。
ニコルは追憶に心を浸した。この城に至るまで、途方もなく長い道のりに感じたものだ。蓋を開けてみれば、たった一年間。しかし、地獄のような日々だった。精神も肉体も、何度も滅ぼされかけた。
それでも理性を保ったままここへ到達出来た事実に祝福を感じずにはいられない。勇敢に戦った仲間たちのことを想うと、ニコルはしっとりとした感謝を覚えた。
彼は自分の手のひらを見つめる。そして声に出さずに呟く。
僕はまだ、僕のままだろうか。
魔王と、その一族である黒の血族を想うとき、彼はなんら恐怖を感じなかった。ただ、過去に遺してきた存在が彼の頭で叫びを上げるときがあった。裏切り者、反逆者、大罪人、と。
そんな声など、そよ風と同じでしかない。外道の誹りを恐れて、どうして魔王の味方が出来ようか。ニコルは常々そう思っている。
過去。――それは特にクロエの姿をしていた。彼女に英雄と呼ばれた日々を思い出すとき、心に穴が空くような感覚になる。その穴を、思い出が吹き去っていくのだ。
クロエは、とニコルは思った。クロエは、孤児院を去ったあの日の出来事を思い出すことがあるだろうか。そして、その記憶に足を掬い取られたりするだろうか、と。だとしたら拍子抜けだ。王都仕込みのお子様。
ニコルは長いため息をついた。月はどこまでも冷たく、地上を見下ろしている。
彼は寂しく微笑んだ。
じき戦争になるだろう。魔族と人間の血塗られた戦いの幕が上がる。黒の血族で最も古株の実力者『夜会卿』の協力を取り付けることが出来た。『メフィスト』の力添えも確定している。あとはシフォンが諸侯との交渉を進めればいい。
急ぐことはない、とニコルは考えていた。クロエの歩みはきっと遅いから。引き金が引かれるのはずっと先のことだろう。その前に、彼女にひと仕事してもらう必要がある。
些細な仕事だったが、ニコルは彼女が完遂するであろうことを確信していた。
なぜなら、クロエの心には未だに正義が燃えているだろうから。その熱を利用しないわけにはいかない。
「さて」とニコルは呟いた。「そろそろかな」
彼は、自分がわくわくしていることに気がついて苦笑した。幼馴染の冒険がこれからはじまると思うと、胸の高鳴りを押さえられない。
クロエにかけた転移魔術は通常の瞬間転移とは異なっていた。通常は時間の制約なく移動するのみの魔術だったが、ニコルはそこにタイムラグを加えたのである。
丸二日分のタイムラグ。それはクロエの利用に関して魔王を説得するなど、諸々の理由からだった。
クロエが転移してから、今夜で二日目。
ニコルは月を見上げて感嘆の声を漏らした。実に見事だ。
月は、ダフニーのクレーターに横たわるクロエを映していた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『クロエにかけた転移魔術』→『4.「剣を振るえ」』参照
・『ダフニーのクレーター』→『最果て』地方の町であるダフニーに出来た転移魔術の痕跡。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』付近参照




