841.「不退転」
シルクハットをかぶった長身の紳士。身体の大部分を、魔力で駆動する機械で賄っている男。毒食の魔女を殺害した張本人。王都を裏面から牛耳る『魔具制御局』の局長であり、じきに巻き起こる戦争において人間側の戦局を左右するほどの重要人物――オブライエン。
いまだに謎多き人物ではあるけれど、まさかこんなところで名前が出るとは思っていなかった。それも、わたしたち人間にとっても敵だなんて。
ヨハンはたった今、オブライエンのことを初代グレキランス王の弟だなんて言った。確か、王家は何代も続いているはず。
「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」
「わけは後で教えますよ。お嬢さんにも分かるように」と、ヨハンは取り合ってくれない。
今はゾラとの交渉をしているわけで、わたしにかまっている暇はないのは分かる。説明に悠長な時間を使ってゾラの神経を逆撫でするのは得策じゃない。
けれど、オブライエンが仮に敵だとして、現状で彼は王都の味方として動いている。ゾラが今回の話を呑んだとしても、いざ戦争となれば結局王都を襲撃するのとなにも変わらないではないか。
「オブライエンが敵だって言うなら、結局わたしたち人間と真正面から戦うのと同じことじゃない」
「お嬢さん。オブライエンが戦場に出るとお思いですか? あれは、決して表で躍動するような男ではありません。奴は地上で血が流れているのを知りながら、安全圏からそれを眺めるでしょうな。『緋色の月』には彼の拠点を叩いていただくのですよ」
ノックスに署名をもらった日のことを思い出す。帰路でばったり出会ったアリスは、魔具制御局の様子を教えてくれた。巨大な地下空間と、白銀猟兵なる頑健な機械人形。アリスは王都の街なかに設置された箱から魔具制御局に潜入したらしいのだけど、入り口はそればかりではないだろう。
乱れがちな呼吸を整えて、必死で頭を回転させる。
オブライエンを討たせることが本当に正しいのかどうか。しかしわたしは、結局のところ彼について知らないことが多すぎる。
「ヨハン、ひとつだけ約束して」
分からないなら、背景を知る者に委ねるほかない。
「なんですか、お嬢さん」
「オブライエンは本当に、わたしたち人間にとっても敵なのね?」
じっと黒山羊を見つめる。奇妙な変装の裏にある、彼の本物の顔を想像しながら。
しばしの沈黙ののち、山羊の口元で赤い舌が踊った。
「お嬢さんは魔物が怖いですか?」
「ええ。誰だってそうよ」
あらゆる人にとって魔物は脅威で、恐怖の対象だ。騎士として連中を屠る立場になっても恐怖は消えなかったし、それなりの経験をした今でも怖れは変わらない。彼らがもともと人間であったことを知ってなお、人間を襲うという根本的な性質がある以上怖れはある。
「約束しますよ。オブライエンはお嬢さんにとっても敵です。そして、多くの人間にとっても同様です」
ヨハンの瞳に映るわたしは、随分と深刻な顔をしていた。
疑問を呑み込んで、なんとか頷きを返す。
不足した情報を埋められないまま何事かを決めなければならないというのなら、わたしはヨハンの言葉を信じる。信じるという決断をする。信頼の置けない奴だし、すぐに嘘をつくし、しょうもないことで騙そうとするし、悪質な手段だって平気で採用する最低の男だ。でも、彼の口にする『オブライエン』の語には嘘の影すら見出せなかった。
だから今は、彼を信じることに決めたのだ。
「ご決断感謝します」と言って、彼はゾラへと向き直った。「さて、敵が何者かはお伝えしました。そして利害が一致している点も事実です。報酬も申し分ないでしょう。私の交渉材料は以上です。……いかがでしょう。戦場での振る舞いを変えていただけますか?」
生唾を呑み、ゾラへと視線を移す。彼は彫像のように微動だにせずヨハンを見据えていた。
彼が頷くか否か。それで、これまでの一切が報われるように思える。なぜなら『灰銀の太陽』は、『緋色の月』が全面的に人間とぶつかることを阻止すべく尽力してきたのだから。もしゾラが頷くのなら破滅する対象はオブライエンだけであり、人間が――王都が――滅ぶかどうかは人間側の力にかかっている。つまり、晴れて『緋色の月』と『灰銀の太陽』は和解することになるはずだ。
どこかで水音がしている。それと、微かな呼吸音。室内に流れる音といえばそれくらいのものだった。
長い沈黙ののち、ゾラのωが微動した。
「血族に……血族全員に言質を取ったわけではあるまい」ひどく苦しげな、絞り出すような声だった。「たとえニコルが承知しても、ほかの血族が我々の行動を認めるとは思えん。血族が勝利した暁には……次に憎悪を向けられるのは我々になる。人間とも組んでいた、と」
ゾラの不安はもっともだと思う。どうしたってリスキーだ。同じ戦場に立たなかったという理由で蹂躙するだなんて、どこにも正当性はないと思うけれど――少なくともきっかけを与えてしまうのは確かだ。
「ええ、そうですね。血族が勝利すれば貴方がたは若干不利な立場に置かれるでしょう」と、ヨハンは平然と返した。
「……人間の勝利に賭けろと?」
「そうなりますね。実際、人間側が勝つほうが貴方がたの実入りも多いですから」
ゆっくりとゾラが立ち上がる。自然とヨハンを――そしてわたしたちを――見下ろすかたちになった。
「人間が勝てると思うか?」
ゾラの問いに、ヨハンはクツクツと笑いを漏らした。
「なにがおかしい」
本当にそうだ。この場面で笑う意味がちっとも分からない。
ヨハンはひとしきり笑うと、首をゆるゆると横に振った。
「失礼、我ながらこれまでの説明が謙遜しすぎていたと思いまして」
「なにが謙遜なのだ」
怪訝そうに言うゾラに対し、ヨハンは肩を竦めてみせた。
「血族の勝つ可能性がいささかでも有ると勘違いさせてしまいました。私の見立てでは、血族は確実に敗北します」
しん、と室内が静まりかえる。
ヨハンがいったいどんな計算を頭でしているのか謎だ。もちろん人間のわたしとしては勝つつもりでいるけれども、血族が確実に敗北するだなんてどうして言い切れるのか。
「……根拠はなんだ」
「直感ですよ」
なんだそれ。
自然と止まっていた息が、ゆるゆると口元から漏れ出ていく。
勘だけでゾラを説得出来るわけがないだろうに。
「くだらん。貴様の勘を信じろと?」
「ええ。もちろん、ほかに信仰しているものがあれば別ですよ。信じるための材料は個々人で異なりますから」
「俺は力以外の何物も信じない。貴様になんの力があると――」
「力を示しさえすれば、信じていただけるのですね?」
瞬間、ゾラの表情が硬く引き締まった。暴力的な気配が、ゾラの身体を中心に室内へと流れ出す。
「そうだ。貴様の言葉を信用するわけにはいかん。信用に足る力を示せ」
言って、ゾラは玉座の後方の壁に掛けられていた大剣を手に取った。彼の体躯ほどある巨大な代物である。それを片手で軽々と持ったゾラは、紛れもなく怪物だった。
「俺と決闘して勝ったのなら、貴様らの要求を呑もう。ただし、容赦はないと思え。俺は躊躇なく命を奪う。貴様らの誰が相手になるか知らんが、そちらも殺す気で来い。……安心しろ。俺が死んだ場合には貴様らの望み通りになるよう事前に取り計らってやる」
ヨハンはここまで想定していただろうか。……いや、彼のことだから当然考えていたはず。
「吾輩が相手になろう」と言ったのはエーテルワースである。彼の表情には並々ならぬ決意があった。「そのために吾輩をここまで連れてきたのだろう? シャオグイ殿」
シャオグイは一瞬目を丸くすると、コロコロと愉快そうに笑った。「兄はんを連れてきたのは、ウチの出来心どす。途中でちびって逃げ出すのを見るんも面白いと思たんどすけど、兄はん、ホンマに度胸ありますなぁ。よろしおすなぁ」
エーテルワ―スは「む?」と首を傾げたままシャオグイを見つめているが、彼女のほうはすでにエーテルワースを見ていなかった。うっとりとヨハンに視線を注いでいる。
「シャオグイさん」と、ヨハンが静かに呼びかける。
「はいな」
「お願いします」
「しゃあないどすなぁ。メフィストはんの頼みなら、ウチ、断れへんどす」
ああ、なるほど。ヨハンがシャオグイをこの場に連れてきた理由って、そういうことなのか。
と、少しばかり冷静に考えたあとで、ハッと思考が止まった。シャオグイが自分の胸に手を突っ込んだからではない。そこから丸薬をひと粒取り出したからでもない。寂しそうに笑ったからでもない。彼女の口が、はっきりと『さようなら』と声なく呟いたからでもない。
にっこりと嬉しそうに細まった片目を、透明な雫が伝ったからだ。
「わたしが相手になる」
気が付けば口にしていた。そして自分自身の宣言が意識に入ってからも、なんら気持ちは揺るがない。
「駄目ですよ、お嬢さん」
「なに言うてはるん?」
二人の、ひどく怪訝そうな声が聞こえる。
「いいえ、わたしがやるわ。だからシャオグイ、その丸薬を呑まないで」
「はぁ? なんでウチがそないな指示――」
「いいから大人しくしてて」
あからさまなため息と同時に、肩を叩かれた。見ると、ヨハンである。
「お嬢さん。いくら貴女でもゾラさんは分が悪い」
彼に続いて、シャオグイがわたしの耳元に顔を寄せた。そして素早く囁く。「ええか。よく聞き。さっきぼんが必死にメフィストはんを糾弾しはった内容がなんやったか、覚えてはるやろ。なんでむざむざ犠牲増やしたか。それ全部、このためどす。冥途献身て魔術、知ってはるかぁ? 誰かが死ねば死ぬほど、術者が強うなる魔術どす。ウチ、樹海に来てからずぅっとそれ使てたんどす。それでもゾラはんには届かへんから、命かけるしか――」
なるほど。じゃあ、ヨハンはやっぱり全部の展開を織り込み済みなわけか。わたしがこうして邪魔をすること以外は。
「その丸薬、呑んだらとっても強くなれるんでしょ?」
「ええ、そうどすけど――」
「それと引き換えに、寿命のほとんどを失う」
シャオグイが眉間に皺を寄せる。「なんでそれを――」
「顔を見れば分かるわよ。死ぬ気なんだ、って。しかも、負けたら死ぬんじゃなくて、勝っても死ぬようなことをしようとしてる、って」
身代わりになって戦う人間の顔は、騎士時代に何度か目にしてきた。彼らは一様に笑顔で、そして、異様に寂しい空気を纏っていたのを覚えている。さっきのシャオグイと同じだ。
「ヨハン」黒山羊に向きなおる。「わたしは今回も、絶対に引き下がらないわ。よく知ってるでしょ?」
彼は頭を掻き、ため息とともに首を横に振った。やれやれ、と。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。王都の歓楽街取締役のルカーニアに永続的な雇用関係を結んだ。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って毒食の魔女を死に至らしめたとされる。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』にて
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『丸薬』→寿命と引き替えに一時的な力を得る、特殊な丸薬のこと。シャオグイが所有していたが、『灰銀の太陽』の代表的なメンバーの手に渡っている。詳しくは『748.「千夜王国盛衰記」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。拠点は不明。オブライエンが局長を務めている。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




