840.「嗤う共通敵」
『本書状を持つ者および組織に対し、グレキランスは無条件で保護する。
本書状を持つ者および組織が領地を主張する場合、グレキランスは一切の権利を放棄し、干渉を禁ずる。
本書状を持つ者および組織がグレキランスへの接触を試みた場合、グレキランスは真摯に応じるものとする。
本書状を持つ者および組織がグレキランスへの交易を申し出た場合、グレキランスは公正平等な交渉を行う。
上記条項が遵守されない場合、グレキランス王に責があるものとし、本書状を持つ者および組織に断罪の権利が認められる。グレキランス王はこれを拒否する権利を有さない。』
これが紙面の内容だ。他種族代表との顔合わせの直後、トロールの待機していた谷でシャオグイからこの紙を渡されたことを覚えている。現グレキランス王の署名を取ってくるよう、彼女は要求したのだ。
大層なことが書かれているが、大臣のデミアン曰く、グレキランスの領内で認知されている村や町は、例外なくこの誓約書を持っているらしい。つまり、あくまでもグレキランスではありふれた約束事というわけだ。
紙面に注がれたゾラの眼差しは、真剣さと驚きに満ちていた。それ以外の感情が全部消え去ってしまったかのように。
「偽物ではありませんよ」とヨハンは念を押す。
ゾラは視線を紙に固定したまま答えた。「……見間違えるわけがなかろう」
無防備な、呆然とした声だった。
「この書状をぶら下げて自治体の宣言をすれば、グレキランスはあなたがたを認めざるを得ません。良かったですね。人間側が勝利すれば、あなたがたは人間側の世界に対して聖域を持つことが出来るのです。交易を含めた対等な利害関係を結ぶことも、もちろん可能というわけですな」
言葉を切り、ヨハンはぐるりと室内を見渡した。黄金が黒山羊の眼に映える。「貴方が集めた宝物も本来の価値が生まれますね」
ゾラの過去について、わたしはほとんど知らない。知っていることといえば、勇者一行として一時期ルドベキアを去ったことくらいだ。財宝を集めた理由も、聖域にこだわる原因も知らない。が、その答えの一端が今のゾラの態度に表れているように思えた。
獣人の――というより他種族の――土地を認め、権利を認め、対等な立場であると認知する。そんなこと、どう考えても今のグレキランスでは実現不可能に思える。が、ヨハンの手にした一枚の紙は、少なくとも形式上はそれを可能にするものだ。
他種族の自治体を認めることについては、一度目に『黄金宮殿』を訪れたとき、わたしが交渉材料として叫んだっけ。けれどゾラは真に受けてくれなかった。それは興味がなかったからではなくて、むしろ逆だったのだと今は痛感している。あまりにも切実な問題だからこそ、わたしの口約束など信じてはくれなかったのだ。
ゾラの返事はない。薄く口を開いたまま、じっと紙面を見つめているだけだ。
「さてさて、これで貴方がたは血族が勝利しても人間が勝利しても一定の土地を得ることになるわけです。実に有利な立場ですなぁ。まあ、血族が勝った場合に貴方がたが得るのは土地だけで、それ以上の交渉権やら安全の保証は含まれませんがね。せいぜい引きこもる場所を得るだけで、侵略されるリスクそのものは消えないわけです」
ヨハンはつらつらと並べ立てる。ゾラは一切口を挟まなかった。
「人間が勝利するほうが貴方がたの取り分は多くなるのですが、まあ、それは結果論なので脇に置いておきましょう。大事なのは先ほども申し上げた通り、まったく損のない話がここにあるという点です」
ゾラにしてみればそうだろう。共通の敵を討つという選択をすれば、物事がどう転んでも大枠では利益が入る。血族だけに協力して、一か八かの戦いに打って出るよりずっと有利なはずだ。
それにしても……ヨハンめ。やっぱり影でこそこそ動いていたわけか。というか、シャオグイがわたしに誓約書を託すことも含めて、全部が彼の手のひらの上だったに違いない。ヨハンは今日この瞬間の交渉を現実のものとするために、シャオグイを動かしたんだろう。すると、彼女がトロールの待機していた谷に現れたのも偶然ではないわけだ。
腹立たしいやら、遣る瀬ないやら。色々な感情を通り越して、なんだかわたしは脱力してしまった。
やがてゾラは倒れ込むように玉座へと戻り、瞼を指で押さえた。
「貴様の言う『敵』とやらを討てば、戦局がどう転ぼうと我々は利益を得る。……そうだな?」
「ええ。非常に美味しい話です」
黒山羊の口元に浮かんだニヤニヤ笑いを見て、なんだか苦笑しそうになってしまった。
これで話が決着すれば、と思う。そしてヨハンのことだから、交渉の行方などとっくに見えているだろう。
「貴様らの言い分は承知した。が、それを呑むことで別のリスクがある」
「と言いますと?」
「人間側からも利益を受け取るなど、血族が承知するはずがない。いや、そもそも共通の『敵』とやらに注力すること自体、血族と合意の取れる話だとは――」
「その点はご心配なく。血族の大将には了承を取っておりますので」
ヨハンは誓約書をくるくると巻きなおすと、きっちり紐で括った。
「大将」とゾラが繰り返す。
戦争において、血族をまとめ上げる大将。それが誰かなんて見え透いている。
「ニコルさんですよ。今回の件は彼の承諾を得ています。もちろん、貴方がたの意志次第ではありますが」
やっぱりニコルか。するとヨハンは、わたしが『灰銀の太陽』に協力して方々を旅している間に、ニコルと接触したのだろう。
なんでそんな危険な真似を、と呆れてしまう。たとえ今回の交渉に必要だとしても、あまりにもリスクが高いじゃないか。下手をすれば命を落としていたかもしれない。今のヨハンがわたしの味方として動いていることはニコルだって見通しているだろう。
そんなふうに思う一方で、ちょっと感心もする。ヨハンは決して下手を打たなかった。その結果が、ここに立つ黒山羊というわけだ。そして彼が無事、こうして余裕たっぷりに交渉を繰り広げている事実に納得してもいるわけで、つまりわたしはそれなりにヨハンという男を理解しているし信用してもいるのだろう。だからといって彼の極端な秘密主義を許したわけじゃないけど。
ゾラはたっぷり一分ほどの沈黙を置いて、厳かに言う。「それで、『敵』とはなんだ」
「我々のルーツにかかわる存在ですよ」
言って、ヨハンはゾラの手元を指さす。「それは小人の歴史書ですね?」
「ああ、最古の歴史書だ」
返事を聞き、ヨハンはにこやかに笑う。なのにどこか皮肉っぽい笑みに見えてしまうのは、彼が山羊顔だからだろうか。
「それはそれは、良い物を手に入れましたな。垂涎のお宝ですよ。中身はご覧になりましたか?」
「いや、まだだ」
「するとこれから、囲っている小人さんたちを絞り上げて、書物の中身を堪能するわけですか」
おお怖い、とわざとらしく呟いて、ヨハンは大袈裟に身震いしてみせた。
「貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「失礼、ただの感想です。悪しからず」
……本当に悪質な性格だ。まあ、ゾラもゾラで物騒極まりないけど。
そういえばグリムは今頃どうしているだろう。歴史書がゾラの手に渡ったことを長老に報告しに行くとか言ってたけど……。
「それで、『敵』とは?」
「そこにある歴史書にも深くかかわっているであろう人物ですよ」とヨハンは平然と口にする。
小人の歴史書がどれほど過去の時点で書かれたのか知らないが、装丁はそう古くは見えない。が、全体が魔力を帯びていることから、おそらくは状態を保存する魔術かなにかが施してあるのだろう。となると百年や二百年、いや、それよりも古いかも。そんな時代を生きた人物が今も存在するとは考えにくかった。
「先に断っておきますが」とヨハンは続ける。「事によると、『緋色の月』は全滅する可能性があります。『敵』はそれほどに強大ですから。もちろん、貴方が最終的に同意していただければそれなりの助力は約束しましょう」
息継ぎをして、ヨハンは笑みを消した。彼のまとった雰囲気も急激に引き締まる。
やがて彼は、厳かに告げた。
「貴方に討伐していただきたいのは、初代グレキランス王の弟です。我々の仇敵だ。名は、オブライエン」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『グリム』→『岩蜘蛛の巣』に暮らしていた小人。かぶっている間は姿を消せる帽子型の魔道具『透過帽』を持つ。竜人の至宝とも言える存在『竜姫』の結婚相手。詳しくは『597.「小人の頼み」』『第四話「西方霊山」』にて
・『老小人』→小人の長。「エー」が口癖。人間をひどく嫌っている。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『デミアン』→王都襲撃の日を生き残った大臣。小太り。詳しくは『590.「不思議な不思議な食事会」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って毒食の魔女を死に至らしめたとされる。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』にて
・『小人の歴史書』→コロニーの長が代々書き残す歴史書。子孫繁栄よりも大事な仕事らしい。詳しくは『285.「魔女の書架」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




