839.「たったひとつの冴えた振る舞い」
ヨハンの提示した問題点。戦争への参加ではなく、戦場での振る舞い。
それだけでは具体的になにを意味しているのかは分からない。
黄金色の光のなか、不穏な沈黙が室内を満たしていた。ヨハンの言葉を最後に、誰もが口を閉ざしている。そう長い時間は経過していないけれど、密度の濃い静寂が時間の感覚を引き延ばしているように感じてならない。
ゾラの口元が動き、身体がびくりと反応した。
「振る舞いだと?」
「ええ、振る舞いです」とヨハンは即座に反応する。「貴方がた『緋色の月』が王都を正面から襲撃するのであれば、むろん人間側の敵となりますし、『灰銀の太陽』としても阻止するほかないでしょう」
当然だ。それ以外に戦争参加のかたちがあるのだろうか。たとえば、戦っている振りをするとか?
疑問を口に出そうとしたが、ゾラに遮られた。
「血族を欺け、と? 戦う素振りのみを見せ、実際は人間に危害を加えるなとでも言うのか?」
どうやら彼もわたしと同じ疑問を抱いたらしい。その眉間にはすっかり皺が寄り、怪訝そのものの表情になっている。
ヨハンはこれも否定する。「いえ、そうではありません。そもそも、戦場で演技など不可能でしょうね。『黒の血族』とともに行動すれば、必ずや見破られます」
それはそうだろう。同じ戦場に立っているにもかかわらず、まったく戦果を上げていない者がいれば嫌でも目に付く。それも一人や二人ではなく獣人全体となると尚更だ。
ヨハンも、そんな粗い論理で説得するつもりはないというわけか。
ヨハンは数秒の間を置いて、言葉を続けた。
「『緋色の月』と『灰銀の太陽』。そして『黒の血族』。三者に共通の敵がいるとしたらどうです? さらに言えば、お嬢さんがた人間にとっても無視出来ない存在……敵と呼んでいいほどの邪悪な人間がいるとするのならどうでしょう」
ぐ、と目に力が入るのを感じた。黒山羊の横顔から目が離せない。
誰にとっても敵となりうる存在。それが具体的になにを指しているのか――様々な人物の顔が頭を過ぎる。
そんな相手が王都にいるとして……『緋色の月』はその敵に注力し、ほかの人間には手を出さないということだろうか。
「貴様は抽象的な言葉ばかりを使って俺を煙に巻こうとしているのか? 仮にも交渉というのなら具体的に話せ。でないと聞く価値はない」
「そうおっしゃると思いました。ゾラさんはリアリストですからね。あくまでもご自身の尺度で判断の出来る物事を信奉していらっしゃる。理想ばかりに目を向けるよりは、貴方のような態度のほうが私としても好ましいです」
「貴様の好悪は聞いていない」
ヨハンは苦笑し、ゆるゆると首を横に振った。
こうも頑として譲らない相手はヨハンもやりづらいのかも。まあ、それも織り込み済みでここに来たんだろうけど。
「具体的な敵についてお伝えする前に、報酬の話をしましょう」
「なんの報酬だ」
「私の提案に乗ってくださった場合の報酬ですよ。これがなければ今回の話は成立しないのでね」
報酬?
成立しない?
頭にいくつかの疑問符が浮かび、自然と首が傾いてしまう。
ヨハンはまたしても一拍置いて、説明を続けた。
「貴方がた『緋色の月』には、先ほどお伝えした『敵』に集中していただきます。戦争で貴方がたが担う役割はそれのみ。王都の襲撃や人間の殲滅は含まれません。そして――人間が敗北した場合には当初の予定通り、貴方がたは聖域を得ることが出来ます。しかしながら、事はそう単純に予測出来るものではありません。万が一人間が勝利した場合、与えられた仕事を完遂しても得る物がないというわけです。それではあまりに不当でしょう」
「もとよりこちらは勝利か死か、それだけだ」
「当初の通り、『黒の血族』とともに王都を攻めるならそうでしょうな。敗北はすなわち死を意味する可能性が高い……。が、今私の提示している内容はその前提に立っておりません。貴方がた『緋色の月』は、『黒の血族』側として戦争に参加しながら、王都にとっても共通の敵となる相手を討つのです。つまり、目的も立場もこれまでとは大きく異なるわけですよ」
人間、他種族、血族。その共通敵が本当に存在するというのなら、確かに『緋色の月』の担う役割は誰にとっても利益となる。すなわち、どの立場からしても報酬を与えるだけの理由はあるわけだ。
「人間と血族、両方の味方をしろとでも?」
「シンプルに表現するとそうなりますね。いやはや、ゾラさんは端的で良い。お陰様で話がスムーズに進みます」
「俺はまだなにひとつ同意していない。勝手に勘違いをして先に進むな」
「それも承知しておりますよ。私はあらゆる情報をフェアにお渡しします。その上で最後にご意志を伺いますので、ご安心ください」
ゾラは「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らし、腕組みをした。「なら、さっさとすべての情報を渡せ。速やかにな」
先ほどよりはゾラの雰囲気が軟化しているように見える。相変わらず怪訝そうではあるけど、露骨な憎悪や殺気はなかった。おそらく、ヨハンの口にしたいくつかの情報を頭のなかでアレコレと考えているのだろう。
「では早速報酬の話に。……シャオグイさん」
「はいはい、メフィストはんのシャオグイはここにおりますよって」
いかにも優美な歩調で、目の前を紫の着物が過ぎていく。
……メフィストはんのシャオグイ?
なんだかちょっと――というかかなり引っかかる言い回し……。すごく気になるけど、今大事なのはそれじゃない。
「シャオグイさん。例の物を」
言って、ヨハンは手を差し出す。
シャオグイはというと、「はいはい」と言って胸に手を突っ込み、これ見よがしに探っている。「これやないどすなぁ。あぁ、これでもないわぁ。メフィストはん、一緒に探してくれはる?」
……なに言ってるんだ、彼女は。ヨハンを口説いてる? いや、そもそも二人の関係はなんなんだ。ヨハンのほうは普段通りだけれど、シャオグイの態度は明らかに、その、色々と意識しているような……。
「ご自分で探してください」
いや、まあ、二人がどんな関係であろうともわたしにとってはどうでもいいことだし、なにひとつ気に病む必要もないし、こうやってああだこうだ考えることすら無駄だ。
「いけずどすなぁ、メフィストはん」
……そうは思っても気になる。理屈じゃなく、気になってしまう。
そうやってしばらくごそごそと胸元をいじっていたシャオグイだったが、やがて諦めたのか、手を引き抜いた。
「はい、どうぞぉ」
「どうも」
ヨハンの手に渡ったのは細長い物体だった。赤い紐で括られた、一本の巻紙。
どくり、と心臓が強く脈打つ。
彼の手に渡った紙には覚えがあった。
「ゾラさん。これが我々への協力の報酬です。厳密に言うなら、人間側から『緋色の月』にお渡しする正式な報酬ですな」
言って、ヨハンは括り紐を解いて紙面を掲げる。
直後、ゾラが勢いよく立ち上がった。その瞳は大きく見開かれ、紙面を凝視している。
彼の口が、わなわなと震えながら開いていくのが見えた。
「それを、どこで……」
「取り寄せたのですよ。貴方のためにね」
黒山羊はゆっくりとこちらに顔を向け、ウインクを寄越す。
彼の手にした紙は、ノックスの署名の入った誓約書――グレキランス内での土地所有および交易を認める書類だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




