835.「決定事項」
玉座は前回訪れたときと同様、絢爛たる黄金色の輝きに満ちていた。そこらじゅうで山を為す黄金。緋色の絨毯。壁にかけられた金鎖。玉座だけが質素な石造りで、却って意味深な価値を持っているようにも感じさせる。正面の壁――玉座の後ろの壁には巨大な剣がかかっていた。
「さて」
玉座に腰かけると、ゾラは静かに言った。膝に小人の歴史書を置いて。
「交渉とやらをはじめろ」
はじめよう、ではなく、はじめろ。その言葉に立場というか、意思の表明を感じる。自分は決して交渉などする気はないが、かたちだけ話を聞いてやる。そんな彼の心の声が聞こえたような気がした。
小さく咳払いをし、ハックが一歩前に踏み出す。背筋を伸ばしてゾラを見据えるその姿は、やはり冷静そのものだった。
これが最後の交渉だ。失敗したら――。
息を呑み、中央の床を見つめる。そこには絨毯よりももっと濃い、別の赤がこびりついていた。前回わたしが叩きつけられた場所だ。
もし交渉が駄目になれば、あとは全力でゾラと戦うほかない。彼自身が要求を呑むまで、ずっと。
ハックの横顔を一瞥し、拳を握る。
覚悟なら出来ている。彼に委ね、もし駄目だったらわたしが命がけで戦う。どこまでもシンプルだ。
「どうした。早くはじめろ」
ゾラは片肘を突き、つまらなさそうに言い放った。彼としては交渉の行方などどうでも良くて、むしろ自分の手に入れた歴史書に集中したいに違いない。ときおり膝へ落ちる視線でそれと分かる。
ハックが大きく息を吸うのが聴こえた。
「『灰銀の太陽』の要求は――」
「戦争の辞退だろう。知っている。前回の交渉を繰り返すな。もっとマシな内容があるからこそルドベキアを再訪したのだろうが」
「前提を無視して進むわけにはいかないです」
「俺は前提を承知している。無駄なことに時間を費やすほど暇ではない。要求は理解しているのだから、それを通すだけの材料を並べろ」
「……」
押されてるな、ハック。前提にこだわる必要がないというのはわたしも同意見だ。ゾラが一切合切を承知しているのなら、わざわざ念押ししても心証が悪くなるだけ。まあ、もはや取り返しようのないほど心証は悪いのかもしれないけど。
「だんまりか? それとも前回以上の交渉材料がないというのか? 前回は貴様らの戦力を机上で並べ立て、相争うことのデメリットを挙げただけだろう? その上で俺は拒否している。交渉材料が変わらんのなら結論も同じだ」
「別の交渉材料はありますです」
「それを早く言え」
ハックは自分の足元を見つめ、それから天を仰ぎ、最後にゾラへと顔を向けた。
なんだろう。ハックらしくない。ちゃんとした交渉材料があるのならはっきりと突き付ければいいのに。
「何度も言わせるな。早くしろ」
「……今回、ルドベキアは僕たち『灰銀の太陽』の襲撃を受けましたです」
「そうだ」
「その過程で『緋色の月』がどれだけの被害を受けたか知っていますですか? つまり、ルドベキアが襲撃される前にどれほどの戦力を消耗したかです」
「それなりの死傷者が出たことは伝え聞いている」
自然と歯噛みしてしまった。『緋色の月』も『灰銀の太陽』も、数えきれないほどの犠牲が出ている。戦争参加が可能かどうかはわたしの立場からは算出しようがないけれども、躊躇するだけの要因にはなるはずだ。ゾラが結んだという『契約の力』がどのようなものかにもよるけれど……。
「正確な数を教えてくださいです。今この瞬間までの死者の数を、です」
ゾラが訝しげに、眉間に皺を寄せる。
わたしも正直、ハックの意図が読めない。正確な数を知ってどうなるというのか。
「正確な数など知らん」とゾラは吐き捨てる。
「そんなことはないはずです。貴方はこの樹海で起こるすべての死を知っているはずです。消えた命と傷を負った命の正確な数を把握する力が、ゾラさんにはありますですから」
……だとするなら、報告など待たずとも死者を把握出来る。自軍にどれだけの被害が出たのかも。もしかすると、『灰銀の太陽』側の死者も把握しているのかもしれない。
だからか、とわたしは納得した。だから『緋色の月』とあえてぶつかって、戦力を目減りさせようとしたのか。単なる被害報告だけではゾラも戦争参加の是非を判断出来ないだろうが、正確な死傷者の数を知っていれば判断にも違いが生まれる。そういうことだろう。
「……? なにを馬鹿なことを言っている。俺にそんな力などない」
「ありますです」
「ない」
「……ありますです」
ハックの肩が震えていた。彼は是が非でもゾラにその事実を認めさせたいらしい。が、ゾラは一向にとぼけている……というか、本当にそんな力は持っていないように見える。少なくとも嘘をついている気配はない。
「ゾラ。本当に、ハックの言うような力はないの?」
思わず口を挟んでしまった。するとゾラは、心底呆れ果てたように「はっ」と一笑した。
「誰に吹き込まれたのか知らんが、俺にはそんな力などないし、俺の知る限りにおいてどの獣人にもそのような力はない」
「そんな……嘘です。それは、嘘です。……僕はゾラさんが全部把握出来ると思って、あんな、あんなことを……」
……ちょっとまずいかもしれない。ハックは取り乱しかけている。
声の震えも身体の震えもわずかなものだが、それでも最前の冷静な態度からは離れてしまっていた。
どうしても、前回この部屋で起きたことを思い出してしまう。リリーの助けが得られないと知ったときの、あの絶望的な倒錯。ハックは涙を流しながらリリーの名を呼び続け、扉に縋りついたのだ。
思うに、彼は想定外の物事に弱いんだ。弱すぎるのかも。
「ハック」
彼の隣に寄り、肩に手を置く。わずかな震えが手のひらを通して伝わってくる。それと同時に、彼の等身大の幼さも身に染みた。
「大丈夫。落ち着いて。想定と違う事実があっても、全部が台無しになったりはしないわ」
少なくとも、交渉の行方次第では最悪にはならない。たとえ誤った前提で物事を決定的に損なってしまっていても、最悪は避けられる。……そう考えるしかないじゃないか。
肩に乗せたわたしの手に、小さく、温かい感触が伝わった。わたしの手を挟むように、ハックが右手を重ねたのである。
当然のように彼の手は震えていた。なにかにひどく苛まれているように。
「いつまで茶番を続けるつもりだ」
ゾラは明らかに鼻白んだ様子で言う。
「……死者の正確な数はどうあれ」と、ハックがゆっくりした口調で返す。
言ってから、彼はわたしの手をやんわりと外した。もう大丈夫、とでも言うように。
「『緋色の月』が甚大な被害を受けたのは事実です。『灰銀の太陽』も同様、取り返しのつかないほどの戦力を失いましたです。これ以上続ければ、どちらか一方は破滅しますです」
「破滅するのは貴様らだ」
「……仮にそうだとして、残った『緋色の月』では満足に人間と戦うことなど出来ないはずです。さらに仮定を重ねて、戦争に勝利して土地が得られたとしますです。はたして、恩恵を享受する獣人はどれほどの数になるです? さらに現実的な想定を重ねると、血族が黙って獣人の土地を認めるとは思えないです。きっと侵略されますです。そうなったときに敵を退けるだけの戦力が獣人に残っているとは到底思えないです」
ハックの論を聞きながら、じっとゾラの様子を見る。先ほどのように完全に白けた態度ではなかった。多少なりとも瞳に活力が宿っている。
「貴様の論理は理解出来る。空論ではないことも、分かる」
なら――。
「だが、容れることは出来ん。戦争参加は契約上、覆せない決定事項だ」
「では、契約に従って自分以外の獣人も破滅させるんですね。人間を殲滅したのち、遠からず獣人も種として果てるのが望みなんですね」
「これ以上戦力が摩耗するようであれば、有力な者だけで戦地に赴く。それだけのことだ」
「それを『灰銀の太陽』が許すと思うですか? 極端な話ですが、ゾラさん以外の全員が戦争に参加出来ないほど負傷したらどうです?」
「その場合は俺だけが死地に赴けばいい」
ハックはやや俯き、「なんなんですか、そんな馬鹿げた契約は」と呟いた。
彼の気持ちはよく分かる。本当に馬鹿げている。そんな馬鹿げたことを現実的に強制してしまうのだ、『契約の力』は。
「交渉決裂だ」
ゾラの断固とした声が室内に響く。
返る言葉はない。
交渉は終わった。つまりここからは、わたしの出番だ。彼の決定が覆らないのなら、決定権を持つ者をその座から降ろすほかない。現状、その方法はたったひとつだけだ。
サーベルの柄に手をかけた瞬間――。
「まだ終わってないです!」
びり、と肌に音の波がぶつかる。まだなにか交渉材料があるのだろうか。それとも――。
なんだろう。足音が聞こえる。二人……いや、三人だ。廊下を真っ直ぐ歩いて、こちらへと向かってくる。
やがて、扉が音を立てて開かれた。
「お邪魔しますぅ。あら、えらい金ピカなお部屋どすなぁ。よろしおすなぁ、ウチも住みたいわぁ」
扉の先に立っていたのは、シャオグイとエーテルワース、そしてゲオルグだった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『ゲオルグ』→『黒山羊族』なる、黒山羊に似た獣人。黒のタキシードに白手袋、黒革の靴といった出で立ち。言葉を発することが出来ないらしく、文字の魔術を用いてコミュニケーションを図る。『灰銀の太陽』と『緋色の月』の両方を救うと豪語している。詳しくは『809.「不動の黒山羊」』『810.「語る金文字」』『821.「怒りと使命を掌に」』にて
・『小人の歴史書』→コロニーの長が代々書き残す歴史書。子孫繁栄よりも大事な仕事らしい。詳しくは『285.「魔女の書架」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




