833.「小さな潜伏者」
『黄金宮殿』にたどり着くまで、そう長い時間はかからなかった。せいぜい二十分足らずだろう。それでも充分に急いだし、急ぐ理由はあった。ハックの交渉を早めるのも、もちろんそのひとつ。けれど、理由はそればかりではなかった。
宮殿の方角に浮かんだ巨大な魔力球。誰がそれを作り出したのかは定かではないけれど、悲劇の予兆としては充分過ぎる代物だった。
魔力球がどんどん縮んで見えなくなっても、わたしとハックは足を止めなかった。むしろ、余計に焦ったくらいだ。動きがあったということは、なにかの結果に結びついている可能性がある。歓迎すべきではない結果に。
肩掛けの布袋のなかで荷物ががちゃがちゃと音を立てたけれど、かまってはいられなかった。
『黄金宮殿』の前庭に広がる光景を目にしたときは、自分の想像力の正しさを知るとともに絶望感が胸に押し寄せた。
「ゾラ!!!」
サーベルを抜き去り、屹立する黄金色の巨躯を見据える。彼はゆっくりとこちらを向き、ほんのわずかに顔を歪めると、ひと言「忌々しい……」と漏らした。
彼の足元には亡骸がふたつ――ひとつは頭を潰された獣人、もうひとつは首を刈られた獣人。どちらが先ほどの魔力球を生成したのかは分からないけれど、懸命に戦い、その上で命を失ったのだろう。
「約束通り来ましたです、ゾラさん」
す、っとわたしの横をすり抜けて、ハックがゾラへと踏み出す。
彼の声は普段通り落ち着いていた。ゾラの形容しがたい暴力的な雰囲気に呑まれることなく、また新鮮な亡骸に心乱すこともなく、いつもとなんら変わりないハックの姿がそこにある。
彼に触発されたのか、わたしも少しずつ気が鎮まっていった。もうハックの態度に違和感を覚えたりはしない。彼は必要な物事から決して目を離すことなく、自分を制御しているのだ。取り乱してばかりのわたしとは違う。
「殺されに来たのか。かまわん、すぐに屠ってやろう」
「違いますです。交渉しに来ましたです」
ゾラの静かな恫喝にも、ハックは決して動じなかった。
わたしも彼に倣おう。背負った布袋が少しだけずれていたので、それとなく調整した。
切っ先をゾラへと向け、呼吸を整える。もし相手に動きがあればすぐにでも対応出来るように。
「馬鹿馬鹿しい。交渉など――」
奇妙なタイミングで声が途切れた。ゾラは、視線を地の一点に注いでいる。彼から五メートルほど離れた、なにもない地面だ。わざわざ目を見張るだけの物はない。
風音。グールの唸り。南の喧騒と北の咆哮。それらの音に包まれた前庭は、奇妙な静寂を湛えていた。
何秒経ったろう。ゾラに動きがあった。
彼は注視していた場所へと飛び掛かったのである。そして――。
「ぐえっ」
妙な声がした。
ゾラでもなければハックでもない。それは地面のずっと低いところ――ゾラの手元のあたりで鳴った。
ゆっくりと、ゾラの腕が持ち上がる。その手は、透明ななにかを掴んでいるように見えた。
透明ななにか?
あっ、と思った瞬間――。
「や、やめるので!」
はらり、と地面に小さな帽子が落ち、小さな小さな身体が現れた。
小人のグリム。見間違えようがない。
どうして彼がこんなところに。
疑問が頭に浮かぶのと、わたしが疾駆したのはほとんど同時だった。経緯は分からないけれどグリムはここに潜んでいて、ゾラの異常な察知力で見つかったというわけだろう。
「グリムを離して!!」
叫びとともにサーベルを振り上げる。すでにサーベルの攻撃圏内だ。
ゾラの肉体を斬るイメージは出来ている。そのために必要な準備もすべて。
サーベルを握る手に熱が籠る。歯を食いしばり、刃を振り下ろす――。
「うっ……!」
腹部に強烈な衝撃が走り、視界が歪んだ。刃がゾラに届く寸前で、彼に蹴り飛ばされたのである。
わずかな浮遊感ののち、わたしは地面を転がった。
「透明になったのは貴様の魔術か? なにをしようとした? この場に潜んでいた目的を言え」
「やめるので! 助けてなので!!」
ゾラの冷徹な詰問と、グリムの泣き声が対照的に響き渡る。
「ゾラさん。彼は僕たちの仲間です」ハックの声はほんの少し揺れていた。「交渉の行方を見届けてもらうために、透明になって隠れてもらっていましたです。ゾラさんに危害を加えるつもりがあって潜んでいたわけではありませんです」
ハックはやっぱり賢い。わたしみたいに突っ込んでいって返り討ちに遭うんじゃなくて、しっかりと言葉を尽くしている。全力で出鱈目を口にしている。
口のなかが錆び臭い。たった一撃で、お腹のどこかが破裂したのかも……。
歯噛みして立ち上がり、再び前傾姿勢をとる。
集中しろ。ハックには言葉がある。わたしだって頑張ればそれなりの交渉は出来るかもしれないけど、今は彼に任せるべきだ。わたしは交渉を不利にしない範囲で力を尽くす役割がある。きっとそうだ。
「つまらん。そもそも俺は交渉などする気はない」
「うああっ!」
ゾラの手が締まり、グリムが悲鳴を上げた。
「グリムを離して! お願い!」
「……そんなにこの小人が大事か?」
相変わらず無表情ではあったが、ゾラの瞳に嫌な色が浮かぶのが分かった。
関心。それも、邪な意味での。
「大事に決まってるじゃない!」
「そうか。なら、こいつの命が惜しければ『灰銀』どもに呼びかけろ。金輪際『緋色の月』に危害を加えず、戦争についても指を咥えて見ていろと」
人質交渉。考えてみればごく自然な成り行きだろう。
「……ボ、ボクはどうなってもいいので」
ゾラの手のなかで震え声が響く。
ハックが息を吸う音が、やけにはっきりと聞こえた。
――駄目だ。彼に返事をさせてはいけない。きっとハックは冷静に、総合的な損得を見て判断を下してしまう。
「ゾラ」
わたしは冷静じゃない。とてもじゃないが落ち着いてはいられない。だから、わたしの声はさぞかし不安定に響いたことだろう。焦りや弱さが、ゾラにとっては手に取るように分かったかもしれない。それと同じようにこちらの怒りも察してくれれば充分だ。
彼の視線がつまらなさそうにこちらを捉える。
わたしは布袋をどさりと地面に下ろした。袋の口が開いて中身が飛び出たけれど、知ったことか。
「わたしが相手よ。……決闘をしましょう。それとも、無抵抗な命を一方的に奪うのがあなたの趣味なの?」
ゾラはルドベキアの酋長であり、事実上、全獣人の頂点に座している。そんな男が誇りを持たないわけがない。プライドを刺激すればグリムを解放させることだって――。
ゾラの目が大きく見開かれた。その視線はわたしから微妙に外れている。ちょうど、こちらの足元へと注がれていた。
「貴様、どこでそれを!」
グリムを掴んでいないほうの手が、わなわなと地面の一点――布袋を指す。
「え?」
なにをそんなに驚いているんだろう、彼は。
足元を見ると、布袋から真っ赤な装丁の本が、頭半分だけ露出していた。
『毒食の魔女』宛に託された、小人族の歴史書である。どうして彼が本に注目するのだろう。
わたしの疑問は決して氷解しないまま、ゾラは言葉を重ねた。
「取引だ。この小人を解放する代わりに、貴様の持つ本を寄越せ」
ゾラの眼差しは、異様なまでに淀んでいるように見えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『グリム』→『岩蜘蛛の巣』に暮らしていた小人。かぶっている間は姿を消せる帽子型の魔道具『透過帽』を持つ。竜人の至宝とも言える存在『竜姫』の結婚相手。詳しくは『597.「小人の頼み」』『第四話「西方霊山」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『小人の歴史書』→コロニーの長が代々書き残す歴史書。子孫繁栄よりも大事な仕事らしい。詳しくは『285.「魔女の書架」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




