Side Eldo.「意志と裁きとかつての自分」
※アルビスおよびエルド視点の三人称です。
膨大な魔力の籠った一本の剣。アルビスはそれをかまえ、わずかに前傾した。
老獣人に武器を扱った経験はほとんどない。すべてを魔術で賄ってきたからだ。まともな剣術など自分にないことを知りながら、しかしアルビスは勝利を確信していた。なぜなら彼の知る限り、ゾラは攻撃を回避しないからだ。以前戦ったときも、そして先ほど魔力球をぶつけたときもそうだった。魔物と戦っているときでさえ例外ではない。
刻一刻と時間が過ぎていく。アルビスはゾラの懐へと飛び込むタイミングをじっと計っていた。
南の喧騒。北の咆哮。風には血の臭いが混じっている。刃はいつしか橙色から緋色へと変化していた。
ゾラの視線が俄かに、アルビスの後方――巨獣へと逸れた。
「覚悟!!」
刃を引き、アルビスは飛び出す。絶好のタイミングとは言い難いが、それでも剣術に覚えのないアルビスにとっては上出来だったろう。
なにかの潰れる音が、アルビスの耳の内外で同時に鳴った。
やや遅れて、金属が地面で跳ねる音がする。
アルビスは膝を突き、全身の震えをなんとか抑えて自分の右手を視線の高さまで持ち上げた。手首が無残に潰れ、手のひらはところどころ破裂して血が流れている。指先に力など入るわけがない。視線を下ろすと、地面には緋色の剣が横たわっていた。
彼はなにが起こったのか、絶望的な気持ちで反芻した。
刃を突き立てる瞬間、ゾラの身体が消えたのだ。そして手首を掴まれたと思ったときにはもう潰されていた。
「アルビス翁」
ぐ、と後頭部が掴まれる。
「貴方は見事だ。……見事な魔術だ」
ゆっくりと、顔を地面まで押しつけられる。
「その刃は俺に届きうる」
頭蓋がみしみしと音を立てる。
「貴方は死神に裁かれることはない」
鼻の骨が折れ、どろどろと血が流れる。
「どうか安らかに眠れ」
ひとまとまりの音とともに、多量の血液が飛び散った。
エルドが目にしたのは、アルビスの絶命の瞬間だけである。彼が『黄金宮殿』の前庭に駆け付けたときにはすでに、物事は取り返しようのないほど進展していた。
呼吸は乱れ、胸で鼓動が暴れている。彼は口を開きかけ、閉じ、頬の肉を裂けるまで噛んだ。
葛藤が、逡巡が、すべてを手遅れにしてしまった。時間は巻き戻ってくれない。アルビスとともにゾラを討つことなど、もはや不可能になってしまった。たとえ自分が我武者羅にゾラへと飛び掛かったところで、まるで相手にされないどころか、死すらも与えてはくれないだろうとエルドは確信していた。
ゾラは許す。そして拝跪を求める。自分の弱い心は、その恩恵に預かってしまう。
「ゾラ様」
エルドは今しも現れたといった雰囲気を装って、ゾラのもとまで駆けた。そして彼のそばの亡骸を見下ろし、顔をしかめる。
「エルドか……。ここでなにをしている。速やかに南へ行け。俺は北の獣人を屠る」
ゾラは立ち上がると、なんでもないように右手を払った。そこに付着した血を振り落とすように。
「ゾラ様……アルビス翁を……」
「そうだ、俺が殺した。――それがどうかしたか?」
ゾラの視線がエルドを射る。その瞬間、エルドは喉元に刃を突き立てられたような感覚になった。
ゾラに逆らってはいけない。こうなった以上、彼の忠臣として振舞わなければならない。
俺は馬鹿だ、とエルドは自嘲した。ついさっき身の振り方は決めたろうに。
必ずや裁きが待っている。が、それでいい。エルドはちらと足元を見下ろし、内心で独白した。
彼が見下ろしたのはアルビスの死体ではない。その横に転がる緋色の剣だ。
アルビスは間違いなく死んでいる。すでに息はない。が、刃は残っていた。あまりに魔力を凝縮しすぎた結果、それが強力な残滓となってそこにとどまっていただけに過ぎない。じきに消える。それだけのことだった。
「北の獣は何者ですか」
「あれか。あれは――」
ゾラの視線が北へ向く。エルドからもアルビスからも、剣からも外れた。
――自分はルドベキアの忠臣で、アルビスにもゾラにも拝跪している。ゆえに、必ずや裁きが待っていなければならない。
エルドは素早く剣を拾い上げ――。
「ぐっ……!」
エルドの突き立てた刃は、ゾラの胸を貫いた。見事に背中まで。
アルビス様の仇を――。
そう思ったエルドの身体が、急激に脱力していく。視界がぐらりと崩れる。
剣は刺さったままで、しかし、全身の感覚がない。
視界はすでに落ちきっていて、エルドはちょうどゾラを見上げていた。視線を動かすことは出来ない。そんな力はどこにもないし、そもそも力の入れ方すら分からなかった。まるで身体がなくなってしまったようにエルドは感じた。
ゾラが剣を抜くと、血が迸った。そうして患部を抑え込み、数秒ほどじっとしていると血は止まった。そんなゾラを眺めながら、なんて異常な回復力だと月並みな感想を抱く。そうして、アルビスの無謀さに呆れ笑いがこぼれそうになった。もちろんもう、笑うことなど出来ないのだが。
とはいえ、アルビスが死ぬ気で作り出した刃がゾラへと届いたのだ。命は奪わなかったが、その身を貫いたのだ。アルビスの努力は決して無駄ではないだろうし、むしろ賛辞を贈るべきなのかもしれない。そんなふうに、エルドは静かな心境で思った。
ゾラは長いことエルドを見下ろしていた。エルドもまた、視線を逸らすことも、瞼を閉じることさえも出来ず、視線をぶつけ合うほかない。
なんて恐ろしいんだ、とエルドは他人事のように思った。こうしてゾラを見つめていると、その身に溢れる暴力の気配にあてられて竦み上がってしまいそうだ。しかしながらそれも、今となっては他人事である。エルドはさっぱりとした気分でゾラの視線を受け止め、そして見返していた。
ゾラの口がゆっくりと開く。
「お前がもう少し冷静だったなら、俺は心臓を貫かれていただろうな」
エルドはこのときほど愉快で、そして悔しく思ったことはなかった。もし口が利けていたなら言いたいことがあったのだ。
『わざと急所を外したんだよ、ゾラ様』
命を奪う覚悟がなかったわけではない。
アルビスが死んでしまった以上、もはやどうしようもなく物事に決着がついてしまっていて、けれどこのままで済ますわけにはいかなかっただけのことだ。自分はアルビスの側に立っているが、しかし、現酋長の命を奪うほどの動機は持っていない。アルビスは心からそれを望んでいたのだろうが、エルドは望まなかった。ゆえに、ゾラの身に刃を突き立てたのは意志表明であり、また、裁きを求めてのことでしかなかった。
そして、とエルドは薄らぐ意識のなかで思う。
――そして俺は、ゾラに裁かれた。
「ゾラ!!!」
ああ、誰かの声がする。甲高い声だ。随分と怒っているみたいだ。
「忌々しい……」
ゾラもだいぶ立腹しているようだな。こんなふうに苛立ちを言葉にするのは珍しい。胸を貫かれたせいもあるかもしれない。
誰が来て、これからどうなるのだろう。ああ、でも、もうなにも分からない。ゾラの姿も見えないし、音も遠くなっていく。
なにも、なんにもなくなっていく。
ん?
なんだろう。
誰かいる。あれは――。
八つ裂きにされ、首だけになったエルドの意識はようやく途絶えた。最期の瞬間に、在りし日の先代酋長と、彼に仕える自身の姿を脳裏に浮かべて。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アルビス』→ルドベキアの元酋長。優秀な魔術師であり、多くの獣人に魔術の手ほどきをした。戦争への参加に反対したが、ゾラとの決闘に敗れ、地下に幽閉された。温和な性格であり、同じく幽閉された小人族の信頼を得ている。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『エルド』→ルドベキアに住むタテガミ族の戦士。アルビスを信奉している。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて




