96.「毒瑠璃と贖罪」
少年と少女が打ち解けてくれるか不安だったが、その心配は必要なかった。シェリーは元々人懐っこい性格なのだろう。ひたすらノックスに話しかけては、その薄い反応から彼のことを少しでも拾おうとしていた。
「私はシェリー。よろしくねえ」
「……よろしく」
「お名前は?」
「ノックス」
「素敵なお名前ね!」
といった具合に終始シェリーが先導して会話していた。その様にクルスの感涙は収まらず、ヨハンは黙々と料理をぱくつく。これまたちぐはぐな光景だ。
「ノックス、シェリー。わたしは用事があるから、ちょっと出かけるね」
シェリーは「はあい」とにこやかに笑い、ノックスは小さく頷いた。
訝るような視線を投げかけるヨハンに「すぐ戻るわ。その間よろしくね」と残して小屋を出た。
真昼の空気は新鮮で、雲はまばらに浮いていた。深呼吸をして歩き出す。決着をつけなければならない物事が、ふたつある。
村長の邸の扉をノックするとドローレスが出迎えた。
彼女はなにも言わず、応接間へ通してくれた。何事か察したのだろう。
昨夜の光景は厳格な無表情を湛えた彼女の姿とはあまりにかけ離れている。そしてドローレスの痛切な望みは遂げられなかった。
わたしがソファに腰かけるのを確認し、ドローレスは一礼して応接間を去った。
天井を見上げて思う。彼女はまるで抜け殻のようだった。その足取りや会釈に、昨日までの決然とした様子は感じられなかった。
ややあってハンバートとドローレスが応接間に入ってきた。そして二人ともソファに腰を下ろす。ドローレスは沈んだ顔付きをしていたが、一方でハンバートは張り詰めた表情だった。思うところがあるのだろう。
静寂。
ハンバートは落ち着きなく拳を結んだり解いたりしている。ドローレスは背筋を伸ばして真っ直ぐこちらへ顔を向けていた。その目は微動もしない。瞳に映っているものは彼女の意識まで到達していないように思えた。茫然自失の瞳。そんな具合である。
ハンバートは苛々と指を組み合わせていた。生憎、こちらから口を開くつもりはない。どれだけ時間がかかっても彼らから口火を切らなければならないはずだ。
昨晩の出来事について。そして、今後について。
ハンバートが息を吸う音が聴こえた。ようやく決心したらしい。
「なにか言ったらどうなんだ」
思わず笑ってしまいそうになった。さすがに呆れてしまう。しかしながら、人間はなかなか変わらないものだ。
「昨日の感想を聞きにきただけよ」
ハンバートは悔しそうに舌打ちをする。「悪趣味な」
「そうね。いい趣味じゃないわ。けれど、供物よりはずっとマシよ。……まあ、今更それについてどうこう言うつもりはないわ」
ドローレスをちらりと見る。彼女は相変わらず人形のように静止していた。その耳が言葉を拾っているのかどうかも分からない。
「なら、なにが聞きたいんだ」とハンバートは呟く。
眠気はないものの、疲労は全身を覆っていた。倦怠感も鈍い痛みも、あちこちにある。耳鳴りもすれば、頭痛だってする。それでもなんとか苛立ちを抑えた。「……今後あなたはどうするつもりなの? 今の二人の様子を見ていると、とてもじゃないけど、この先村を平和に維持出来るようには思えない」
「……やるさ。もう化け物はいないんだ……。あんたの言うまともな村に戻す」
これが答えの限界だろう。ハンバートに謙虚さを期待するだけ無意味だろう。自尊心を保つので精一杯の男だから。
「で、あなたはどうなの? ドローレスさん」
ドローレスの瞳が僅かに震えた。しかし、その緩んだ口元から声が発せられることはなかった。
「まだ死にたいわけ?」
ストレートに訊ねると、彼女の瞳はわたしを捉えた。そして、曖昧に首を振る。どっちなのか判断がつかない。
「どっちなのよ」
これについては追及しておきたかった。ドローレスがハンバートの手綱を握って破滅的な自殺騒動を起こしたとなれば、それが繰り返されないとも限らない。村全体を巻き込んで破滅の道を辿られては困る。ここにはクルスという誠実な男がいるのだ。彼をドローレスの願望成就の犠牲にされるのは寝覚めが悪い。
「あまり責めないでやってくれ」
意外なことに、ハンバートはやや頭を下げてそう言った。
ラーミアに食われた初恋の相手。その妹。やはり、彼にとってはドローレスがなによりも重要なのだ。あるいは村よりも。
「ドローレスが今回のような騒動を起こさないとは言い切れないでしょ? もし彼女が村全体に影響の出るような自殺騒動を起こしたらどうするの?」
「私が止める」
「今回あなたはなんの役にも立たなかったじゃない」
「今回は」と口ごもる。「ドローレスが本当になにを望んでいるのか知らなかった。我々には化け物がどうなるのか見届ける義務があると言われて泉まで行ったのだ」
事の顛末を見届ける義務、か。しかし現実は違った。ドローレスは自身の願望を叶えるために泉まで行ったのだ。風習の発端を作ったハンバートとともに。彼と自分をラーミアに殺させるために。
ひゅう、と音が鳴り、ドローレスがぽつりぽつりと雨垂れのように語り始めた。それは後悔とも贖罪の意識ともつかない、淡々とした語り口であった。
「私は……私はずっと後悔していました。……掟の終わりを見届ける義務がある、というのはあながち嘘ではありません。……あの残酷な掟を作ったのはハンバートで、それを支えていたのは私です。私とハンバートで、交互に供物を捧げたのです。村のため、という大義名分のもとで何人もの命を犠牲にしました。……勿論、最初の頃は身を引き裂かれる思いでした。信じていただけるかは分かりませんが」
ドローレスは続ける。
「やがてそれが風習として定着してしまうと、段々私はなにも感じなくなりました。幼い手足を十字架に架ける瞬間も、その泣き声を耳にしても。ただの作業です。……そうでもしないと心が壊れてしまうことは私たちも理解していましたから。……言い訳ですね。……この村で過ごすうち、ふとした瞬間にぞっとすることがあります。夕食を作っているときや、湯浴みをしているときに子供の顔が頭に浮かぶのです。それでも私は、なんら思い煩うことなく生活していました。……いつの頃だったか忘れましたが、ふと、自分が子供の死に対して同情することさえ出来なくなっていることに気が付いたのです。家畜を殺すことや野菜を引き抜くこととなにも変わらず、少しも引っかかりが生まれない。周囲を注意深く見ても、村の人は私やハンバートと同様に平穏無事な生活を送っています。私とハンバートは特別壊れているかもしれませんが、程度の差はあれ、村人も同じようなものではないかと思いました。……そこで私は決心したのです。いつか掟に終わりが来るとき、私はハンバートの手を引いて真っ先に殺されよう、と。そして叶うなら、村も滅ぼしてほしい、と。でなければ、壊れた私たちに殺された子供たちが浮かばれないではないですか。無邪気な命を犠牲にして生きている悪魔は、いつか裁かれるべきだと思いませんか?」
そういう心の動きや感じ方もあるんだろう。現にドローレスの言葉は、自分を偽っているようには思えなかった。だからといって彼女を認める気にも、同情する気にもならなかった。寧ろ、彼女の言葉は詭弁だ。
わたしの返事がないからか、ドローレスは更に続けた。
「昨日あなたが現れたとき、迎えが来たのだと直感しました。私たちは、やっと終われるのだと。そしてハンバートを説得し、泉に向かい、そしてあの化け物に呼びかけたのです。……あいつは姉を殺した敵であることは間違いありません。しかし、私たちのような非力な人間にとって彼女は天災のようなものなんです。逆らうことはまだしも、滅ぼすことなど出来ない相手。だから、殺される他ないのだと。……ただし、それだけで終わらせるつもりはありませんでした」
ドローレスは自分の耳に触れた。そこにはささやかな耳飾りがついていた。耳たぶを貫いたリングの下には金鎖が下がり、その先には瑠璃色の丸い宝石が取り付けられている。
彼女の指がリングを掴む。ぐっ、と力が込められたと思うや否や、耳たぶを引き裂いて耳飾りが外された。血がぼたぼたと彼女の肩を濡らす。
「ドローレス!? お前、なにを……」
ハンバートを無視して、彼女は耳飾りをテーブルに置いた。血に濡れたそれは、随分と瀟洒な装飾品だった。明らかに安くない代物である。
「マルメロまで行って買ったのです」
どこからその金が出てきたのかについては語らなかった。聞く気もしない。
「それで、これはなに?」
「毒瑠璃です」
まじまじと見つめると、確かにそれらしい特徴はあった。くっきりと濃い紫の筋が、その宝石の表面に数本通っていた。
毒瑠璃。ひとたび消化されると強力な毒性ガスを噴出し、生物を死に至らしめるという代物である。しかし人間の胃酸では消化出来ず、粉末状にして熱湯で煮ても一向に溶けないことから、よほど無知な奴でなければ暗殺になど使おうとはしない。瑠璃の贋物として売買されるくらいのものだ。
毒瑠璃で人を殺そうとした間抜けな暗殺者の物語を、昔読んだことがある。ただの滑稽話だ。
目の前の毒瑠璃を見つめて思う。なるほど。確かにラーミアほどの巨大な魔物であれば消化出来るかもしれない。ただ、それで奴が死ぬかは不明だが。
「この毒瑠璃を――」と言いかけてやめた。「いや、なんでもないわ」
あまり考えたくないことだったが、供物の身体に忍ばせてラーミアに呑ませれば掟を終わらせることが出来たのではないか。そう言おうとしたのだ。
それはきっと、ドローレスの意に沿わない行為だったのだろう。掟が終わるときには、自分とハンバートも、あわよくば村全体が死ななければならない。馬鹿げていたが、彼女はそう考えていたのだろう。
正論をぶつけても虚しいだけだ。
「それで、死ぬのはどんな気持ちだった?」
訊くと、ドローレスは目を閉じた。あのときの光景を追憶するように、長く長く、目を瞑る。
ラーミアの牙と、そこから溢れる毒液。真っ赤な口内と、暗い喉穴。食われる瞬間、彼女は涙を零したはずだ。わたしの見間違いでなければ。
「……それを正確に話すことは難しいです。……ただ……死ぬ瞬間、なんだか恐ろしくなってしまいました。……この何倍もの恐怖を子供に背負わせていたんですね……」
その通りだ。
「それで、まだ死にたいのかしら?」
再度問いかける。ドローレスははっきりと首を横に振った。「死にたい気持ちはありません。死によって贖えることではないのでしょうね」
「なら、少しは良いことをして村を繁栄させて」
ドローレスは頷いた。耳から零れる血は止まり、ただただ痛ましい表情が一面に広がっている。
もはや彼女にはなにも出来ない。破滅衝動が消えたとは確信出来なかったが、たとえばクルスのような誠実な男に抵抗出来るほどの意志は感じなかった。
やがてハンバートが重々しく口を開いた。「ドローレスのこともそうだが、なぜ私を魔物から助けたんだ。あんたにとっては敵と同じくらい憎いだろうに」
言い切ってからハンバートは脱力した。どうやら、ずっとそのことが気がかりだったらしい。ようやく訊くことが出来た、といった様子である。
「あなたのことは憎いわ。同じくらい、ドローレスも憎い。そして、供物を知りながら放置していた無力な村人も許せない」
しかし、だ。
「けれど、魔物に殺されていい人間なんていない」
ハンバートは俯いて顔を覆った。その胸に少しでも悔恨が生まれてくれれば、この先同じような愚かな風習は繰り返されないだろう。
充分だ。もう、話すことはない。あとはじっくり考えて、彼らが村を守っていけばいい。
応接間を出る間際に「ありがとう、すまない」という言葉が聴こえた気がした。




