832.「地中遊泳」
唐突に視界が下がる。それがメロの魔術――地面を自由に泳ぎ回るという奇妙な魔術――によるものだというのは考えるまでもなく分かった。
「メロ、待って!」
がくん、と降下が止まった。見ると、わたしは腰のあたりまで地面に呑まれている。下半身はさながら水に包まれているような感覚だった。少しだけ足をばたつかせてみたが、やはり水中と同じく微かな抵抗があるばかり。
「なんだよー、クロエちゃん。急ぎなんだろ? のんびりしてる余裕なんて――」
「分かってる」
メロはなにも返さなかった。ため息すらもない。相変わらずわたしの首元にゆるくしがみついているだけ。
ここでドルフが代わりに戦ってくれるのなら、それが最善だろう。ゾラとの交渉が遅れれば遅れるだけ犠牲が出る。わたしがこの場を離脱することでハックが前進出来るのなら、そうすべきなのだ。冷静になれば『オッフェンバックと戦いたい』などという利己的な考えは振り切ることが出来る。
うん、大丈夫。わたしはちゃんと必要なことに目を向けている。
だから本当に、少しだけだ。
「絶対に死なないで! ドルフも、オッフェンバックも、ミスラも! これから『灰銀の太陽』と『緋色の月』は和解する! あなたたちが――いえ、樹海にいる全員、戦う理由がなくなるの! だからそれまで絶対に死なないで!」
三人の視線が一斉にこちらへ向く。
その瞬間、わたしは確かに理解した。これから彼らは本気で戦うことだろう。相手の命を奪うつもりで。それぞれの立場に従って。
でも彼らの瞳の奥には、諦念に覆われながらなおも消えていない希望があるように見えた。わたしの錯覚に過ぎないかもしれないけど、確かにそう見えたのだ。
「メロ、お願い」
「りょーかい」
視線が沈む。今度は途中で止まることなく、一気に地面の下へと沈潜した。
地中は想像したよりも明るかった。地上の様子が丸見えで、そこからの光が地下にも滲んでいる。メロの作り出した、魔術製の移動空間。ドルフのことや、これからの交渉のことだとか、頭のなかにはたくさんの不安や疑問が詰まっていたわけだけれど、この瞬間、それらはあっさりと意識の座を譲ってしまった。それだけすさまじいものなのだ、わたしが今目にしている光景は。
なに、この魔術。
リリーのように、物体を移動させて空間を作り出しているわけではない。地面の下を液体に変化させているわけでもない。地中の組成が変わってしまえば、地上にも影響は出てしかるべきだ。オッフェンバックたちは落盤の憂き目にあっているだろう。
地上の様子がクリアに確認出来ることや、水の濁りのなさからも、この空間と現実の地中とは別物のように思える。じゃあ転移魔術に似たものかというと、そうとも思えない。
「そら、行くぜー!」
メロが、わたしの手を引いて水中を移動する。全身に伝わる液体の感触や、呼吸が出来ない点も、水中そっくりだ。頭上を仰ぐと、地上の景色がちゃんと移り変わっていく。もしこれが転移魔術のような、瞬間的な移動を可能とするものならば、わざわざ泳ぐ必要もなければ、地上の景色が移り変わっていくこともない。つまりわたしたちは現実のルドベキアの地中にいるのだ。が、地上には影響をおよぼしていない。
時空間の一部を現実とリンクさせた、魔術製の仮想空間。そんな代物がたったひとりの魔術で可能かどうかは別として、そう考えるしかなかった。当然、わたしのなかに蓄積された魔術知識で説明しきれるものではない。
わたしが興奮のあまり水中で溺れなかったのは、たぶん、ルイーザのおかげだろう。彼女には規格外の魔術を何度も見せつけられた。そのおかげで、自分の知識が通用しないレベルの物事を素直に、あるがままに認識することが出来るようになった――と言えば大袈裟だけれど、要は驚いたあとの動揺が減っただけのことだ。
頭上を炎のカーテンが流れていく。オッフェンバックの炎の壁を通過したのだ。安全に。なんの抵抗もなく。
あれ。ハックは確か炎の内側で――。
「ハックちゃんと山羊みたいな奴は、もう運んであるから安心しろって。ギャハハ!」
ぼわんぼわんと反響しながらメロの声がする。こんなにも歪められているのにちゃんと言葉が分かるのだから不思議だ。やっぱり、普通の水ではないのかも。ついでに呼吸も出来るようにしてほしかったものだけれど、それはさすがに高望みだろう。
「息をしたくなったらウチの腕を引きなよ。そうすりゃ一瞬だけ地上に出てやるから」
そろそろ息苦しくなってきていたので、試しに腕を引いてみた。すると、メロに引かれてみるみる地上に近付いていく。
「ぷはっ!」
息を大きく吸う。そして再び、メロの魔術空間へと潜っていく。
地表が、現実と仮想空間との接続点なのだろう。肺に吸い込んだ空気は確実に現実のもので、微かに鼻を刺激した匂いもルドベキアのそれだった。
メロは、自分の周囲数メートルにだけこうした空間を保っているのだろうか。だとしたら、この手を離したらどうなってしまうんだろう。
「手を離すんじゃねえぞ? そしたらどうなるかウチにも分かんねえからな? ギャハハ!」
なにそれ、こわい。
というより、これだけ高度な魔術を体得していながらそのロジックをまったく知らずに行使しているんじゃなかろうか。だとすると、彼女はとんでもなく素晴らしい魔術の才能があるのかも。それこそ、魔術を体系的に学べば全盛期のルイーザに匹敵するほどに――。
そこで思考の歩みを意識的に止めた。
才能を伸ばすことによって当人が幸福になれるとは限らない。期待するのはいつだって本人以外だ。
今や魔術の欠片さえ持たないルイーザは、きっと以前よりも幸せな生活を送っていることだろう。母と、友達と、使用人に囲まれて。
「『骨の揺り籠』だっけ?」メロはこちらを一瞥もせずに言う。「そこでクロエちゃんと別れたあと、ドルフちゃんを見つけたんだよ。ルドベキア目指して仲間と歩いてるみたいだったから、放っておく気になれなくってさー」
だから、そこにいた獣人を全部溺れさせた、とメロはあっけらかんと言い切った。きっとこの仮想空間に沈めたのだろう。
集団で歩いていたということは、わたしたちがドルフを解放したあとのことか。そう思うと、なんだか彼に同情してしまった。せっかく解放されたのに今度は地中で溺れるなんて。
「で、ちょっと様子が変だったから地上に上げて色々聞き出したワケ。まったく、クロエちゃんもハックちゃんも、甘々だよなー? ギャハハ! もっと賢くてえげつない方法を使えば、ドルフちゃんを言いなりにすることだって出来たじゃん」
うーん……やっぱりメロからすると、甘い選択に見えたのか。
「ま、でも結果的には良かったんじゃね? だって、ウチが脅すまでもなかったもん」
脅すまでもなかった?
わたしの手を引くメロ。その口元は柔らかく緩んでいた。
「ウチが『灰銀』に協力しろよって要求したとき、ドルフちゃんがなんて言ったと思う?」
なんて返したんだろう。答えを求めて、じっと彼女の顔を見つめる。
しばしの沈黙のあと、メロは「ギャハハ!」といかにも愉しそうに笑った。
「お。もうそろそろ到着じゃん。無駄話はおしまい。どうしても知りたきゃ、あとで本人から聞きなよ? ギャハハ!」
頬のあたりが弛緩するのを感じた。
彼女の言う通りだ。知りたければ本人から聞くべきだ。特にドルフみたいなタイプは、自分の知らないところでアレコレと話をされるのは好きではないだろう。
「ぷはっ!」
水中から上がると、そこはささやかな蔵だった。壁際に棚が並んでいて、壺やら箱やらがキチンと収まっている。
蔵の一角――入り口から死角となる位置にハックはいた。壁によりかかった彼が、にっこりと微笑みを向ける。
「ありがとうです、メロさん。クロエさんを連れて来てくれて」
「どいたまー。それじゃ、ウチは仲間のトコに戻るから。あの子ら、ウチがいないとなんにも――いや、今はちゃんと頑張ってるかな。それなりに。ま、ウチはもう行くよ」
沈みかけたメロの手を、思わず引いた。「ありがとう、メロ」
メロはちょっぴり舌を出し、それから親指を立てて見せる。「クロエちゃん、がんば」
メロも頑張って――と伝える前に、彼女は地中に消えてしまった。地面に波紋が広がり、それから跡形もなくなってしまった。本当に奇妙な魔術だ。
「それじゃあ、行きますです。メロさんのおかげで『黄金宮殿』のそばまで進めましたです」
この時間短縮は随分とありがたい。
入り口へと踏み出したハックのあとに続こうとして、ぴたり、と自分の足が止まった。
蔵のなかを見回す。ここにいるのは紛れもなく、ハックとわたしだけだ。ほかには誰にもいない。
「ハック……。ゲオルグはどこ?」
入り口から舞い込んだ光が、振り返ったハックの顔を青白く染めている。
「用事があると言って、どこかへ行きましたです」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ゲオルグ』→『黒山羊族』なる、黒山羊に似た獣人。黒のタキシードに白手袋、黒革の靴といった出で立ち。言葉を発することが出来ないらしく、文字の魔術を用いてコミュニケーションを図る。『灰銀の太陽』と『緋色の月』の両方を救うと豪語している。詳しくは『809.「不動の黒山羊」』『810.「語る金文字」』『821.「怒りと使命を掌に」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。『針姐』の墨の魔術により全身に縮小した魔紋を刻んでいたが、クロエの持ち込んだ『墨虫』により無力化された。現在は記憶と魔力を失い、平凡なひとりの少女としてローレンスの館に住んでいる。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』詳しくは『第二章 第六話「魔女の館」』参照
・『メロ』→人魚の族長。小麦色の肌を持ち、軽薄な言葉を使う。口癖は「ウケる」。なにも考えていないように見えて、その実周囲をよく観察して行動している。地面を水面のごとく泳ぐ魔術を使用。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』『746.「笑う人魚」』にて
・『ドルフ』→『緋色の月』の四番手で、トナカイに似た獣人。別名、鉄砕のドルフ。血の気の多い性格。身体硬化の魔術を使用する。『骨の揺り籠』を襲撃したが、最終的にリフによって撃退された。詳しくは『816.「地底への闖入者」』『817.「鉄砕のドルフ」』にて
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『骨の揺り籠』→身体的ハンデから、口減らしの目的で『異形の穴』に捨てられた獣人のうち、生き残った者たちで作り出した集落。『異形の穴』の底に存在する。詳しくは『第五話「緋色の月~③骨の揺り籠~」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




