Side Jennie.「彼の欲しかったもの」
※ジェニー視点の三人称です。
『君が幸せに生きるよう、願う』
いつかの日、クロは確かにそう言った。それはちょっとした会話に過ぎなかったし、相手がジェニーだろうとほかの誰であろうと、冗談としか受け取れないような文脈での言葉だった。
ケットシーの生き残りを決める瞬間、それが彼の心にあったことを知り、ジェニーは唖然としてしまった。突き出した拳を引くのも忘れ、ただただクロに見入っている。
そんな隙だらけの状況にもかかわらず、クロもまた拳を引かなかった。打ち合わせたまま、互いに互いの瞳を覗き込んでいる。
「そ」ジェニーの口元から音が漏れる。不安定な震えを伴った音が。「そんにゃ理由で、ジェニーを、ジェニーを……」
彼女の視界が滲む。目尻を伝って大粒の涙がこぼれた。
自分を選んでくれた喜びではない。お願いを――というより、二人で過ごした記憶をクロがちゃんと忘れずにいてくれたことへの感動でもない。冗談じみた願いに彼が縛られたことへの情けなさでもない。自分がほかのケットシーと同じときに同じ理由で死ねなかったことに対する悔しさや悲しみでもない。
そんな言葉を口にしたあとのクロを見て、無性に涙が流れてしまったのだ。
「そんな理由で君を選んだ」
静止したまま彼は言う。はっきりと。無感情に。
ジェニーは拳を引き、ぐしぐしと目を拭った。これも隙しかない動作であるが、クロの攻撃は訪れない。
「ゾラのもとで過ごすのは僕の望みだった」
ジェニーは顔を上げてクロを見据える。彼はやはり無表情だった。
クロはジェニーの返事を待つことなく続ける。
「僕は力が欲しかった。力があれば多くの物事は自由に出来る。ゾラは自分の思想に合わない種族を、危険だからという理由だけで壊滅させることが出来た。それだけの力があったから」
この樹海で獣人として自由に生きるためには力こそが必要で、クロはそれに焦がれたらしい。
「ケットシーはずっと虐げられてきた。軽んじられてきた。力がなかったから」
そしてクロは力を得るために、ゾラの忠臣となったのだろう。
「ゾラは僕に直接、手解きをしてくれた」
その結果が『緋色の月』の二番手という序列に違いない。
ジェニーはただ黙ってクロの言葉を聞いていた。もう涙は止まっている。無心で、言葉の一粒一粒を噛み締めていた。
「僕は力を手に入れた。でも、ゾラには遠くおよばない。もっと強くなればきっと――」
言葉が途切れる。
ジェニーは続きを待ったが、それがクロの口から語られることはなかった。彼はまばたきを一度だけして、話頭を転じる。
「僕は力を信じる。同じ理由で『緋色の月』の正しさを信じる。だから、僕は君たちを容赦しない。約束を破ることになろうとも」
ゆらり、と彼が身構える。
もうこれ以上なにも言うことはないのだろう、その口は真一文字に結ばれていた。
力。今この瞬間、ジェニーにとってその一語はひどく空虚な、なにも意味していないものに思えた。
クロが現れたとき、タテガミ族が遠慮なく口にした罵倒がジェニーの耳に蘇る。
力を手に入れたけれど、力によって欲しかったものを彼は手に入れたのだろうか。
「クロ」ジェニーもまた、前傾する。彼が本気なら止める必要がある。「ジェニーはクロにないもの、たくさん持ってるにゃ」
「それが?」
「ジェニーの持ってるもののなかには、きっとクロが欲しかったものがあるにゃ」
風が吹いた。緑の合間を縫って遠くから運ばれた息吹が、粉塵と混じって二人を包む。結果的に、それが合図となった。
クロが動くと同時に、ジェニーは飛び出した。
二人の影が激しくぶつかり合い、離れる。
またぶつかり合っては離れる。
その繰り返しのなかで、二人は拳や蹴りの応酬を為していた。ジェニーもクロも、もはや相手の打撃を受けることをためらわずに攻撃を通していた。
もし二人が一般的な力しか持ちえなかったのなら、それは子供じみた喧嘩にも見えただろう。しかし二人が二人であるがため、その応酬は狂った竜巻に似ていた。
攻撃し、攻撃を受けるなかで、ジェニーは自分の負っている傷にまったく頓着しなかったが、もはや限界に近かった。
クロの攻撃はひどく破壊的で、一撃受けるたびに吐血を避けられない。吹き飛ばされもする。視界が滲み、耳の奥では大音量のノイズが鳴っている。魔女からもらった大事なメイド服はすっかりボロボロで、しかも血まみれだ。
それでも彼女に『退く』という考えはない。
やがて、決定的な瞬間が訪れた。
クロの拳がジェニーの額を真っ直ぐに打ち抜き、彼女の身体は吹き飛んだ。
一瞬の浮遊感。奇妙なことに、そこに痛みやノイズは存在しなかった。それらを認識出来るだけの身体的余裕がなかった――わけではない。彼女の意識は今現在の戦闘とは隔たった、なんの関連性もない記憶に吸い寄せられたのだ。
『アンタにいい物をあげるよ、ジェニー』
魔女の私室に呼び出されたジェニーは、てっきりまたなにか自覚のない失敗のことで叱られるものとばかり思っていた。だから魔女がそう言って木箱を渡したとき、ぽかんとしてしまった。
『ぼうっとしてないで、開けてみなァ』
促されるまま木箱の蓋を取る。
『にぇあぁ……!』
つるりとした質感の可愛らしい靴がひと揃い、木箱のなかに行儀よく収められていた。踵がほんの気持ちだけヒールになっている。
窓から差し込む夕陽に照らされて、靴はまるで宝石のように輝いていた。
『も、貰っていいのかにゃ?』
『もちろん。アンタのための特別な靴さァ』
クロが追撃のために跳躍するのが、ジェニーの目に映った。記憶を見つめていた時間はせいぜい一秒か二秒程度だろう。彼女は考えることなく――そして回帰した意識を苛む痛みを堪えながら、同じく跳躍した。
互いに拳を引く。
二人の身体が交差するタイミングで、クロの拳が放たれた。完璧なタイミングで、ジェニーの身体の中心へ直撃する軌道で。
――が、クロの拳は虚空を打った。彼の目に、ジェニーの姿は映っていない。
魔女からもらった大切な靴。魔具。樹海に入ってからというもの、彼女がその力を発揮するタイミングはなかった。無論、クロとの前回の戦闘でも見せていない。ゆえに彼は、当惑したことだろう。ジェニーが空中であたかも透明な足場を踏み、自分の頭上を越えて背後へと回ったことに。
滑らかな黒毛に覆われた華奢な背中が、彼女の瞳に映る。大事な大事な、かつての友達の背中。そして、『緋色の月』の二番手の背中。
ジェニーは息を吸い込み、すべての力を拳に籠めた。
「にゃああああああ!!!!」
強烈な打撃音が轟いた。
黒い影が一直線に瓦礫へと突っ込んで、土煙を上げる。
一秒。
二秒。
刻一刻と時間が経過していく。
五秒。
六秒。
空中にとどまった彼女は、土煙の中心をじっと見つめていた。
十秒。
瓦礫に埋まったクロが、その身を起こすことはなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『クロ』→黒毛のケットシー。ケットシーの族長を殺し、ルドベキアに移住した男。トムの脚を切断したのも彼。かつてジェニーの友達だった。詳しくは『Side. Etelwerth「集落へ」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『ケットシー』→獣人の一種で、猫に似た姿をしている。しなやかな毛で小柄。五感が優れている
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて




